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森と林業の本

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2007/10/14

山と里の結界

今日は、古文書関係で吉野歴史資料館に出かけていたが、そこで館長と吉野談義を長々としてしまった。

吉野というと、一般にはサクラの吉野山とか、多くの史跡を思い浮かべるようだが、そうした吉野と山深い吉野がある。その境界は宮滝ではないか、という話から、古今東西の文化と歴史の話となり、古来から吉野が聖地として見られていたのはなぜか、と広がった。

それこそ神武の東征、丹生川上神社の水銀、分水嶺の水分神社、壬申の乱……。大海皇子が吉野離宮(宮滝)で立ち上がったことで始まる古代の大乱は、吉野を聖地とするきっかけであるなどと、結構スケールの大きい話となった(笑)。

それはともかく、大和朝廷が奈良盆地に勢力を広げた里の文化圏だとしたら、やはり山の世界に対する畏怖と警戒があり、それが結界を生み出したと考えられる。

実は、この考え方は、全国どこでも通用するのではないか。里と山には、あきらかに文化の違いがある。その境目には結界がある。この結界の存在を忘れていることが、地域社会をややこしくしているではないか。そのうえ今や表層は里の文化が全国を覆い尽くしているが、深層には山の文化が埋もれている。それも本当の地域性を読みにくくしているのではないか。

日本列島を、里と山の二つの社会から成り立っていると見ると、山村の存在意義とか、都会人の田舎暮らし志向などを理解しやすくなるのではないか……。

Photo

宮滝は奇岩の景勝地として知られる。

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コメント

 吉野の宮滝。
梅原猛の「水底の歌 柿本人麻呂」に、大海人皇子出家以降、持統天皇の代にも度々宮滝に行幸されたことが記されていますが、写真により当時が鮮明に想像されます。
 大海人皇子が、身の危険を感じて落ちのび、ここに立たれたときのお気持ち、天武天皇になられてからのこの地へのお気持ち、持統天皇の、天武天皇の腹心を次々に処分される時のお気持ち、などひしひしと伝わってくる思いがします。

吉野川の水量は、当時よりずっと減ってしまったと思いますが、奇岩の続く景勝地で、ここに離宮を建てた気持ちがわかります。

面白いことを聞きました。古事記に記された神武東征の物語では、熊野から大和へ攻め上ったことになっていますが、それは後世(天武・持統期)の書き換えで、どうも原点では和歌山の紀ノ川(吉野川)から遡ったらしい、というのです。

それが吉野を通るルートに改変されたのは、天武天皇の大きな転機となった宮滝・吉野への思いによるのではないか……と。

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