ゲストハウス
沖縄で泊まったのは、リゾートではなく、ゲストハウス。エアコンなしのベッドだけである。少しは若い頃の旅の感覚を取り戻してみようという試み。
それにしてもだれた猫である。
田中 淳夫: 虚構の森
世にあふれる森林を巡る環境問題。そこで常識と思っていることは本当に信じていい? 地球上の森は減っているのか、緑のダムは存在するのか。る? 地球温暖化に生物多様性、SDGsに則しているのか? 異論から考えると別世界が見えてくる。
田中 淳夫: 獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち (イースト新書)
シカ、イノシシ、クマ、サル……獣害は、もはや抜き差しならない状態まで増加している。その被害額は1000億円以上?しかも大都市まで野生動物が出没するようになった。その原因と対策、そして今後を見据えていく。
田中 淳夫: 絶望の林業
補助金漬け、死傷者続出の林業現場、山を知らない山主と相次ぐ盗伐、不信感渦巻く業界間……日本の林業界で何が起きているのか?きれいごとでない林業の真実を暴く。
熊崎実ほか編: 森林未来会議―森を活かす仕組みをつくる
現役林業家、研究者、行政万……など10人の著者が、日本林業の問題点を分析しつつ、未来に向けての処方箋を示す。海外事例も含め、希望を語っている。
有坪 民雄: 誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来
消費者はもちろん、学者も官僚も農家自身も、農業について全体像をつかんでいない。だからピンぼけ……。これは林業にピタリと当てはまる!
保持林業―木を伐りながら生き物を守る
保持林業とは新しい言葉だが、欧米を中心に世界で1億5000万ヘクタールの森で実践されている施業法だという。伐採後の生態系回復を早めるために行われるこの手法、もっと日本に知られてもよいのではないか。
田中 淳夫: 鹿と日本人―野生との共生1000年の知恵
奈良のシカは赤信号に止まる? 鹿せんべいをもらうとお辞儀する?カラスがシカの血を吸っている? 彼らを観察したら、獣害問題の解決の糸口も見えてくるはず。
山川 徹: カルピスをつくった男 三島海雲
カルピス創業者三島海雲の評伝。彼は内モンゴルで何を見たのか。何を感じたのか。その夢を乳酸菌飲料に結実させた足跡を追う。土倉家の面々も登場する。
田中 淳夫: 森は怪しいワンダーランド
森には、精霊に怪獣に謎の民族、古代の巨石文化が眠っている!そう信じて分け入れば遭難したり、似非科学に遭遇したり。超レアな体験から森を語ればこんなに面白い? 読めば、きっと森に行きたくなる!
村尾 行一: 森林業: ドイツの森と日本林業
林学の碩学とも言える村尾行一の林業論の集大成か?
ドイツ林業を歴史的に追いつつ比べることで浮かび上がる日本林業の大問題と抜本的な処方箋
田中 淳夫: 樹木葬という選択: 緑の埋葬で森になる
広がりつつある樹木葬。今や世界的な潮流となる「緑の埋葬」となる、森をつくり、森を守る樹木葬について全国ルポを行った。
田中 淳夫: 森と日本人の1500年 (平凡社新書)
日本の森の景観は、いかに造られたのか。今ある緑は、どんな経緯を経て生まれたのか。日本人は、どのように関わってきたか…。今ある景観は、ほとんどが戦後生まれだったのだ。今後必要なのは「美しさ」である!
田中 淳夫: 森林異変-日本の林業に未来はあるか (平凡社新書)
21世紀に入り、激動の変化を見せ始めた日本の林業。この変化を知らずして、日本林業を語るなかれ。果たして森にとって吉か凶か。そして「大林業」構想を提案する。
阿部 菜穂子: チェリー・イングラム――日本の桜を救ったイギリス人
もはや桜の故郷はイギリスだ! と感じさせる衝撃の書。ソメイヨシノ一色ではない多様な桜を守っているのは日本ではないのだ。そして日英交流史としても第一級のノンフィクションだろう。
田中 淳夫: ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実
ゴルフ場は自然破壊? それとも現代の里山? このテーマに再び取り組んで『ゴルフ場は自然がいっぱい』を大幅改訂して出版する電子書籍。
谷 彌兵衞: 近世吉野林業史
吉野林業の誕生から江戸時代までの発展の歴史を緻密に描く目からウロコの著
田中隆文: 「水を育む森」の混迷を解く
森は水源涵養機能がある……と古くから唱えられてきた。しかし、科学的に証明されたわけではない。人々の思想や政策の方が先んじている。その歴史的展開と、野外科学のジレンマに焦点を当てる。
ヨアヒム ラートカウ: 木材と文明
人類と木材、ひいては森との関係を壮大なスケールで描いた大著。ヨーロッパが中心だが、目からウロコの記述がいっぱいである。
清和 研二: 多種共存の森: 1000年続く森と林業の恵み
最新の生態学の知見から林業のあり方、今後の進むべき道を提言する。多様性豊かな森こそ、安定していて収穫も多いことを思い知る。
村尾行一: 間違いだらけの日本林業 ―未来への教訓―
村尾林学の決定版! 眼からウロコが落ちるだけでは済まない。これまでの林業観を否定をして受け入れるか、読まなかったことにするか……。
田中 淳夫: 森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯
三井財閥に比肩する大富豪として、明治時代を動かし、森林の力によって近代国家を作り上げようと尽力した山林王・土倉庄三郎の生涯を追う。そこから明治時代の森林事情が浮かび上がるだろう。
太田 猛彦: 森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)
森林水文学の視点で、日本の森林事情の変化が国土にもたらした驚異的な影響を語る。もはや森林だけを論じている暇はない!
田中 淳夫: 日本人が知っておきたい森林の新常識
森林ジャーナリズムの原点。森林や林業に関わる一般的な「常識」は本当に正しいのか、改めて問い直すと、新しい姿が広がるだろう。そして森と人の在り方が見えてくる。
日本の森を歩く会: カラー版 元気になる! 日本の森を歩こう (COLOR新書y)
森林散策ガイド本だが、第2部で7つの森を紹介。全体の4分の1くらいか。私が記すとルートガイドではなく、森の歴史と生態系をひもといた。
田中 淳夫: いま里山が必要な理由
名著『里山再生』(^o^)の内容を一新した改定増補版。単行本スタイルに変更し、美しくなった。里山を知るには、まずここから。
田中 淳夫: 森を歩く―森林セラピーへのいざない (角川SSC新書カラー版)
森林療法の成り立ちから始まり、森が人の心身を癒す仕組みを考察する。森の新たな可能性を紹介した決定版。 全国11カ所の森林セラピー基地のルポ付き。
田中 淳夫: 割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)
割り箸を通して見えてくる日本と世界の森林。割り箸こそ、日本の林業の象徴だ!
田中 淳夫: 森林からのニッポン再生 (平凡社新書)
森林・林業・山村は一体だ! その真の姿を探り、新たな世界を描く
田中 淳夫: 日本の森はなぜ危機なのか―環境と経済の新林業レポート (平凡社新書)
かつての林業は木を売らなかった? 真実の日本林業の姿を紹介し、現状と未来を俯瞰した目からウロコの衝撃の書。
田中 淳夫: だれが日本の「森」を殺すのか
誰も知らなかった?日本の林業と林産業の世界を描いた渾身の1冊。
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沖縄で泊まったのは、リゾートではなく、ゲストハウス。エアコンなしのベッドだけである。少しは若い頃の旅の感覚を取り戻してみようという試み。
それにしてもだれた猫である。
沖縄に来ています。
ここで見たのは、見事な自然再生例なんだけど、写真はあまり関係ない水牛(*^^*)
詳しいことは、また。
26日の話。
事前にこの日の昼の番組「おもいっきり! イイテレビ」で割り箸問題を取り上げるという情報を得ていた。
しかし、この日は東京へ向かう日。諦めていたが、乗った新幹線が、たまたま静岡駅に止まったのが12時22分。しかも6分間停車しているという。
そこで携帯のワンセグを起動させてみた。
なんと! ちょうど「マイ箸vs割り箸」と、クイズ形式でやり始めたところではないか。
内容は、まず環境にやさしいのはどっち、と示して、それはマイ箸だと回答が出る。しかし、そこから「実は割り箸の98%は中国産だが、2%だけ国産で、これは間伐材から作っている……」といった説明が始まる。
決論的には、国産割り箸を使えばエコだ、という終わり方。そして林野庁の「木づかい運動」に触れるという展開。
う~ん、私は中国産だって、たいして環境に悪いと思っているわけではないし、間伐材と端材を混同している点も気に食わないが、とりあえず国産割り箸の振興を訴えた点で満足。
少しずつ、こうした情報発信が増えつつあるのは歓迎だ。
ちょうど新幹線が動き出したところで、番組の割り箸部分は終わった。
東京より帰りました。
観光……いや、ちゃんと仕事もしたんだけど(^^;)、それなりに羽を伸ばしたので、身体は疲れたけど、心はすっきり\(^o^)/という気分。
その中でいくつか印象の残った一つが、浅草の箸。
仲見世通りにある箸の専門店で、様々な箸を見た。割り箸はないが、千差万別の塗り箸は、それなりに面白い。写真のように、豆腐箸、蕎麦箸、うどん箸、ラーメン箸にスパゲティ箸まである。
実際には、どこに工夫しているのかわからないものもあったが、この商品開発の努力を、割り箸業界もすべきではないか。
驚いたのが、「江戸木箸」という世界があったことだ。
これは、硬い木で作る素の箸で、何も塗らないそうだ。素の木の箸という点では割り箸に通じるものがある。素材はタガヤサンなど南洋の鉄木のほか、桑など。曲がった桑の木でも箸にしてしまうところは、機能性ではない価値があるのか。
もう一つ驚いたのは、駅前の露天で見かけた箸売り。
すごいでしょ。この十把一絡げの箸の売り方(^^;)。
l一応、塗り箸なんだけど、「手づくり」と書いてある。さらに「高級」の文字も。そしてお値段は……120円(爆笑)。どこが高級で、どこが手づくりなんだ!
霞が関から六本木へ。まず六本木ヒルズを見学。本当は東京タワーに上りたかったんだけど。
ゴタゴタしてから、神保町へ。こちらで打ち合わせして、ついでに古本屋を覗く。東京観光は続く。
研修会終わったら、なぜか国会議事堂で昼御飯食べる。中途半端に時間があるので霞が関まで歩き、官庁街を探訪、地下鉄に乗る。
昨日から東京に来ている。全国町村会の研修で講演を頼まれたからである。実は今、出番待ち。
この会合では、いろいろ知り合いや会いたかった人がたくさんいた。もちろん新しい出会いも。
東京には明日までいる。楽しんでいます(*^^*)。
NHK教育で、「福祉ネットワーク」という番組を見た。
漫画家の西原理恵子が登場していたからである。テーマはアルコール依存症。
ファンなら知っているだろうが、西原の夫だった故・鴨志田譲は、アルコール依存症だった。そして癌を患って亡くなった。その体験を語っているのだが、それは凄惨な生活である。
私は、西原のマンガも、鴨志田のエッセイや小説も読んでいるから、だいたいの状況は把握していたつもりだが、やはり生に語る迫力は凄い。
アルコールに限らず依存症者を抱える家庭は、とてつもなく闇の生活を覚悟させられる。周辺の人の介入もまずないし、できない。的確な助言をできる人は少なく、また聞く耳持たないところもある。目の前の事態をやりすごすことだけに縛られ、根本的に打開する行動はとりにくくなるらしい。ある種の「共依存」関係を築いてしまうのだろう。自縛されてしまうのだ。
やがて依存症者は、健康をむしばみ、人を人でなくす。
アルコールに溺れる者は、怠け者、気の弱い人間と思いがちだが、発症するまではともかく、中毒になった時点で、完全な病気なのだ。本人の努力だけではいかんともできず、治すことはできない。
結局、依存症から脱出するには、専門家のカウンセリングと治療法、家族・周辺の人々の堅い結束と支え、そして本人の強い意志がないと無理…だと結んでいた。
この話を聞いて、思わず連想したのが、山村問題。 (^^;)イヤな奴
衰退していく山村は、お上と補助金の依存症という病にさいなまれているのではないか。いけないけいないと思いつつ、補助金にすがり、目の前だけ安楽に生き延びることを考える。そして自立する道を選べない、選ぼうとしない。
やはり山村問題を解決するには、山村だけに自立を求めて突き放すのは非道であって、共依存になった国が目覚めて距離を置きつつ支えないとダメだし、専門家による的確な処方箋を示す必要もある。そして当人たちの自覚も求められる。それぞれを精妙に組み合わさせて臨まないと、山村は、お上頼みの体質からは脱却できないのではないか……。
鴨志田さんは、最後にはアルコールから離れることができて、そして死んでいく。最後の言葉は、「人として死ねてよかった」だそうだ。山村も、本来の村にもどらないと、たとえ消滅せざるを得ない運命にしても虚しいよ。
なんで、こんなこと考えているんだろ? と思いつつ、西原の涙につられて私も涙をぬぐったのであった。
6月23日の読売新聞に全面広告が載った。
「みんなの力で、山村を元気に!」と打って、山村再生を謳っている。
ようは、林野庁系の都市農山漁村交流活性化機構の助成制度で山村再生プランを募集しているのだ。昨年までの「森業・山業」事業と「山村力」事業を統合したものである。
そして例として上げられている10の事業の一つに、吉野チェンソーアート事業が紹介されている。森業・山業に採択されたからだ。前回の福岡の山村再生セミナーに続いて、大きな宣伝になったと思う。
なんたって、読売新聞全国版となれば1000万部を越える世界一の大新聞。この告知効果はかなりのものだろう。
真ん中の段。読めるかな?
さっそく今日(25日)に青森から反応があった。もちろん、この距離だから、すぐに何か成約するというものではないが、名を売るということは重要なことだ。
実は、助成制度の採択を受けるのは、補助金をもらうこと以上に、世間の認知度を上げることに価値があると私は思っている。
なんていうと、顔をしかめる人がいるかもしれないが、単なる新ビジネスではなく、地域づくりに寄与する事業という、大げさに言えば国のお墨付きをもらったことになるからだ。
その代わり、中身を伴わせないといけないけどね(^^;)。
幾つものファミリーレストランをチェーン展開する「すかいらーく」が、2008年7月までに全国約2500店舗で割り箸の使用をやめ、樹脂製の箸に切り替えるニュースが駆けめぐっている。
すでに「ジョナサン」が06年中、07年中に「すかいらーく」、08年5月までに「ガスト」で切り替えが完了していた。今後は「夢庵」は同年6月、「バーミヤン」を同年7月をめどに切り替えることで完了するそうだ。
牛丼チェーンでも松屋フーズが全店舗、吉野家も着々と樹脂箸に切り替え中だ。容易ならざる事態である(-_-)。
実は、先日「ガスト」に入った。頼んだのは和食だったが、そこにナイフとフォーク、それに樹脂箸が出てきた。私は意地でも樹脂箸を使う気になれず、フォークで飯を食った。連れは、ウェイトレスを呼んで、「こんなプラスチック箸は食えない。割り箸はないか」と要求した。すると慣れたように、ちゃんと割り箸が出てきたではないか。
皆さん、臆せず要求しましょう。おとなしく樹脂箸で食っていてはダメだ。
これらのチェーン店が割り箸を廃止したのは、環境のことを考えたわけではない。割り箸の供給不安がもたらした現象である。割り箸の量が十分に揃わなかったり価格が高くなりすぎた場合にそなえて樹脂箸に変えたのである。本当に環境のことを考えたら、石油製品の箸なんぞ使うわけない。それとも木製より樹脂製の方が環境に優しいと思うほど、担当者の頭はカラッポというのか。
おそらく洗浄などのために従業員の労働強化が起きているだろうが、今やアルバイトの労働の方が使い捨てで安いのかもしれない。もしかしたら洗浄用に日雇い派遣でも使っているのではないか。
日雇いは 割り箸よりも 使い捨て
今日のお客さんを生駒の棚田地帯に連れて行って雑談していると、橋下徹大阪府知事の高校時代のラグビー部の先輩に当たるということがわかった。
そこで橋下知事の人物評価になったのだが、意見が合ったのは、彼の人の心を読めないこと、人づかいの下手さ加減。人、とくに部下の動かし方があまりに稚拙であることだ。
政策論は置いておくが、少なくてもいきなり給料を下げると言われて、誰が熱心に働く気になるか。しかも自分はテレビに出ずっぱりで出演料を稼いでいるのである。ついでに政治資金パーティーも開いて何千万も集めている。それなのに公務員は副業禁止。これでは、政策に賛同する人も動かなくなる。給与カットは、ほかの施策をやり尽くして万策つきた最後の策である。人の心が読めないと、どんなよいアイデア・施策があっても動いてくれない。当然何も実現しないという、極めて当たり前のことがわかっていない。
それで思い出したのが、先日の葬儀で久しぶりに顔を合わせた従兄弟だ。彼は、葬儀の合間にふらりと出て行ったかと思うと、教会の隣にあったドラッグストアに行っていた。そして何やらレジ袋をぶら下げて帰って来た。
袋の中を覗くと、リアップとか育毛剤セットが入っていた(^^;)。
「いや、社員に頭の毛が薄い奴がいるんで、気にしとるからお土産や」
話を聞いていると、ほかにもギャンブルに入れ込んで給料使い切ってしまう社員には、無理やり社内預金用に天引きしているそうだ。そして100万円溜まったら通帳を渡してやる。実に従業員にきめ細やかな対応をしている。
「これくらいしないと、社員は根付かないで。大企業と違って、中小企業は辞められたら補充は大変やから」
彼は十数年前に30代半ばで父の会社を継いだ。従業員は全員年上で、しかも彼は次男。父亡き後、経営は決して楽ではなかったはずだ。ちょうどバブルが弾けた後である。
それを軌道に載せて、昨年は過去最高の利益を上げたという。人の使い方のうまさに私はうなってしまった。私より年下なんだけどね。
実は、どんな組織も経営術は同じで、適材適所に人を配置して、重要なのは、それぞれがやる気を出して取り組む体制をつくることだ。起業アイデアとか運営システムなどより人の動かし方が大切なのだ。
なかでも役職に上下関係がほとんどないNPO的な地域づくり組織の場合は、顕著だ。とくに利益もさほど出ていない場合、仲間づきあいが楽しくて参加しているケースが多い。それなのに行動や発言で仲間の和を乱すと、あっと言う間に空中分解する。
橋下知事の改革がどうなるか、私は知らないし興味もない(だって、私は奈良県民だもん)。だけど人の心が読めないと、苦労ばかり増えて成果は上がらないよ。
今日は、天の橋立のある京都府宮津市に行ってきた。日本海望む景勝地である。
往復6時間以上車を走らせ、かなり疲れた。最後の方は、高速道路を居眠り運転していたんじゃないか(笑)。しかも雨だから、最低のコンディション。景色も何も見えない。
そこで、天の橋立温泉につかってきた。でも、それだけじゃあ……。
せめてお土産に海産物でも、と思ったが、なんと土産物店もほとんど閉まっている。仮にも日曜日だよ。雨降ったら、客は来ないと見込んでいるのか、あるいは最初から日曜休みと決まっているのか。
仕方なく、高速道路のサービスエリアを覗くが、イマイチ欲しくなるものがない。干物はあるが、冷凍物。触るとカチカチだった。それでは、近所のスーパーで買っても同じ。地元食堂で食べた昼飯の干物は抜群に美味かった。生だったからだろう。
代わりに買ったのは、ソフトクリーム(笑)。こうした冷たいものを食べて、眠気を覚ます魂胆だ。多少は効いたかな。
ところで、これは、先日生駒を吉野川上村から訪れた私の林業の師匠? からいただいたもの。
ちまきである。もちろん、手づくり。
ちまきと言えば端午の節句だが、川上村は旧暦なので6月なのだ。
通常は笹の葉で巻くが、これはなんだろう、笹にしては大きすぎる。それをくくってある紐も、植物性の繊維だ。そのくくり方が不思議。結び目がどうなっているのか……。こんなところにもノウハウというか、伝承文化がある。
これを蒸すと、茎の部分から蒸気で出る。すると出来上がり。私は、ちょうど川上村で買ったユズ味噌をつけて食べた。
やっぱり、お土産とはこうしたものを指すのだよ(笑)。
「イーストサイド」(east side)という雑誌が届いた。
北海道東部で発行されている~カントリースタイルマガジン」だそうである。今年から年に4回発行するらしい。
ここに『割り箸はもったいない?』の書評が載った。発行から1年後に載るなんて、素晴らしい(^o^)。
そこでは北海道の割り箸製造について触れられている。たしかに、かつて北海道は日本一の割り箸産地であった。しかもシラカバ材で造る割り箸の嚆矢である。
実は、私も今こそ北海道で、割り箸生産を復活させてくれないか、と思っている。なぜなら、吉野などで造られている割り箸は高級割り箸に特化している。それではコストが高くて使えない店が大半だろう。第一、ラーメン食うのに似合わない。
また、現在問題となっている中国産の割り箸は、大半がシラカバ・アスペン、竹などの安い代物だ。それに対応するには、高級割り箸ではダメで、同じ土俵の安くて手軽な元禄タイプの割り箸を増産してほしい。
そのためには、ロータリー法で大量生産する必要がある。
北海道なら、シラカバはたくさんあるし、伐ってもすぐ生えてくるし、またパルプ材の生産も続いているのだから、その中から割り箸用を調達することも可能ではないか。技術もまだ残っているだろう。ただ、かつて中国とコスト競争に破れたことを思うと、それなりの最新鋭機械を導入する必要はあるだろうな。その機械は、中国から導入しよう(笑)。流通も、既成のものではなく、直販など輸入割り箸ルートに便乗するべきだ。
ところで、「イーストサイド」だが、リージョナル・マガジンにありがちな、店記事など地域情報ばかりに陥った雑誌と違って、なかなかの執筆陣を揃えて読みごたえがある。北海道に住まない人でも、結構楽しめるよ。
こういうのを読んでいると、北海道に行きたくなる。道東のカントリースタイルに触れたくなる。ついでに割り箸工場も見て歩きたくなる(笑)。
実は、来月沖縄に取材に行くので、今沖縄について調べていて、早くアチラの生活に触れたいと気分は南国! 化していたのだが、今度は北国! 化しそうだ。どちらも、リゾートではなく、ゲストハウスなんぞに泊まり歩く、バックパッキングの旅がしたいなあ。この年になって甦る、青春の旅感覚(笑)。
地域づくりの運動で最大のネックは何だと思われるだろうか。
まず、地元のやる気のなさ(笑)。
たしかに最大の問題点ではある。でも、これは、ほとんど折り込み済。たいていの地域では、すでにやる気が失せている。ただ、全員かというとそうではない。なかには熱心な人、好意的な人もいる。外部のアドバイザーがいかに地元の人々のやる気を出させるかは、腕の見せ所かもしれない。
私が、もっともやっかいだと感じるのは、自己利益と地域利益の相剋ではないか、と感じる。もう少し簡単に言うと、「総論賛成、各論反対」である。地域づくりといいつつ、それが自身の損益に関わったときの振る舞い方が事業のネックとなりがちだ。
誰でも自らの生活を抱えているから、地域づくりの事業を本業にする場合は、そうした判断が入ってくるのは仕方ないのかもしれない。しかし、副業でも、いや趣味に近くても、案外、関係者は自らの利益には敏感だ。
そのため地域づくりには賛成だが、自分が少しでも損をするのはイヤ、という声が出てくる。なお損というのは、何も金銭的な面だけではなく、労力、プライド、主導権も含めた様々な点がある。
ともあれ地域づくりのために始めたにも関わらず、ノウハウや顧客などを囲い込み、外に出さないようになることがある。あるいはライバルを増やさないことに腐心する。
本当は、ライバルが生れることは損ではなくて、市場を広げ、自らのスキルアップのチャンスなのだが、どうも素直に喜べないケースがあるようだ。
たとえばチェンソーアートを例にとると、これを本業にすると、チェンソーアートの技を他人に教えるべきか、という悩みが出てくる。ショー出演や作品販売を生活の糧にすると、技術そのものが財産だ。そこで“サーカスの技”“マジックのネタ”のように秘匿した方がよいのではないか。同じ技を持つ者が増えたら、自分の仕事に跳ね返って来ないか……。それに趣味でやる人が増えると、危険な行為も行われるかもしれない。
このように初期のチェンソーアーティストは考えることもあったという。
しかし、秘匿してもチェンソーアートは徐々に広がるだろうし、我流で試みて事故でも起こされたら、一気に 市場を失いかねない。それよりも積極的に安全普及して底上げを図り、そして地域づくりに貢献した方が自分もみんなもハッピーになれる、と考え直した。そもそも日本にチェンソーアートを導入したのは、地域づくりのためであったのだから。(そうでしたよね、城所さん 笑)
現実に、技を他人に教えることでチェンソーアート人口が増えたら、必ず自分にも返ってくるものだ。世間の認知が進むことで、ショーも作品購入者も増える。もちろん、そのために技術を常に磨いて、他者の追随を許さないよう努力するのは言うまでもないが。
ほかにも事例はたくさんある。多くのところで、「総論賛成、各論反対」にぶつかっている。
しかし、私が取材した地域づくりに成功した地域は、どこもオープンだった。なんでもノウハウは教えますよ、という対応をしているところが多い。徳島・上勝町の葉っぱビジネスも、高知・馬路村のユズ戦略も、長野・信濃町の森林療法も、和歌山・すさみ町の協同組合式ダイビング会社も、日吉町森林組合も、開けっ広げに教えてくれる。
いくら教えても、簡単に真似できないよ、それにこちらは常に先を行くから。そんな自信がみなぎっていた。
本当は視察に行ったら、そんなオープンな心構えこそ、学ぶべきなんだけど。
このネックを克服しないと、周辺の応援者は引いてしまう。地域づくりには協力する覚悟が強くても、個人の利益獲得に協力する気になれないのはいうまでもない。結果的に結束が乱れ、事業そのものも、伸び悩み衰退する。各論反対の破壊力は強いのだ……。
でも、それはヨソモノが口を出せない範疇である。地元の、地域づくりを主導する人が自ら決めねばならないことだろう。
「竹の経済史」 岩井吉彌・著 思文閣出版 4500円(税別)
なぜか、この本が送られてきた。乞う、書評……ということなのだろう。
この本、結構特殊である。なぜなら、これまで竹、それも竹材の流通や加工に関する業界について研究されたことも、執筆された論文・著作もないからだ。言われてみれば、竹細工の世界を工芸や民俗学的に取り上げたものはあるかもしれないが、竹材産業のものを見たことはない。
しかし、竹林も森林の一部として扱われており、竹材も林業の一分野なのである。
そう思って読むと、なかなか興味深い。取り上げているのは、西日本の竹産業で、大分、鹿児島、熊本、そして京都ではあるが、輸入竹の動向にも触れられている。
なんでも、昭和の前半期が竹産業の全盛期なのだが、昭和50年ごろから急速に廃れていく。その理由として想像するのは、プラスチックなどに竹製品が取って代わられたこと、輸入竹に押されたことが考えられるが、実はそう一筋縄でいかないらしい。
たとえば大分では竹製品の種類を時代とともに変えながら、うまく生き延びている。徐々に高級品・装飾品へと変え、しかも輸入物にはない特色ある商品開発が行われた。そして全国的に竹産業が衰退していく中で、大分が全国をカバーするようになっている。
一方、輸入竹が増えた経緯も、想像する「安いから」というのは、どうも違うらしい。
まず国産ものでは供給が足りなくなったから、海外、台湾からベトナム、そして今は中国に頼るようになったのだ。折しもマダケの一斉開花があって、国内でマダケが足りなくなった事情もある。
この当たり、国産材事情と似ている。国産材も、足りないから外材を導入して、粗品外材にシェアを乗っ取られるのである。
そして興味深いのは、モウソウチクではマダケの代わりにならないこと。モウソウチクは太くてよい竹材のように思うが、実は細工物にはダメなのだ。仕方なしに使っている状態らしい。
竹割り箸についても触れている。熊本が主流だったのだが、輸入物に押さえ始めると、業者は中国での竹割り箸生産に乗り出す。つまり竹割り箸づくりの技術を移転したのだ。しかし、結果的に中国の業者に出し抜かれた……?らしい。
ほかにもいろいろ興味深い点がある。
竹材を林業の一部として見ると、新しい発想が生れるかもしれない。
追伸 この本、まだAmazonが対応していないようだ。サイドバーに載せられない。
いまさらだが、バイオ燃料の花盛り。とくに穀物からのエタノールが食料危機を招いたと騒がれたために、次に目をつけられたのが木質系のバイオエネルギー。
ただ、私がバイオエネルギーに冷たいのは、著書を読んだらわかる(笑)。前世紀の頃は、木質発電とか熱電併給とかカーボン・ニュートラルなどを紹介して、新しい森林利用のあり方を提案したこともあるが、『だれが日本の「森」を殺すのか』当たりから否定的になり、今やかなり冷たい(笑) もう少し正確に言うと、熱利用には賛成だが、発電は単体では微妙、そして最近注目株のバイオエタノールなどは??? になっている。
その理由は、まず、技術がまだ伴っていないこと。実は木質のセルロース、ヘミセルロースを糖類に分解するのは理論的には簡単だが、現場では難しい。しかも分解してできた糖類をエタノール醗酵させるのはもっと難しい。通常の酵母菌ではうまくいかないのだ。だから遺伝子組換酵母なども使われる。現時点では、全部の木質をエタノール醗酵させていない。だから効率も悪い。
次に、工程が増えることのコストアップの足かせ。今稼働しているのは、ほとんど補助金絡みだ。
そして、重大な問題は、原材料不足。まともに稼働させたら、どれほどの木質材料がいるか。通常は木屑を使うが、製材が少なければあまり出ないし、廃材集めも限界がある。かといって未利用間伐材を森から持ってくるなんて、コスト面から夢のまた夢。
しかも、各所から木屑の奪い合いが始まっている。バイオ燃料だけでなく、発電にも使われるし、製紙チップも不足気味だし、敷き藁代わりの需要が生れたり……と未利用のはずの廃棄物が引っ張りだこだ。
実は以前紹介したドイツの大規模バイオディーゼル製造工場も、原料難だそうだ。ヨーロッパ中から持って来ないと足りない。木質だけでなく、牧草まで使うらしい。
大規模施設でないと効率が悪いが、大規模になるほど原料が足りなくなる。もともと木屑などは広く薄く存在するものだから。日本だと、さらに厳しいだろう。
付け足しに記すと、ちなみに現在の日本の未利用木質資源は、約500万トン。仮に未利用木質資源を全部投入して、バイオエタノールを生産しても、その量は120万キロリットル程度しか生産できない。これは日本の原油消費量の2日分だそうだ。
とても、化石燃料の依存から離れられない。
だから必要ない、ということではないが、過分な期待をせず、むしろ地方分散型のエネルギー源として活用した方がよくはないか。たとえばリグニン利用と組み合わせる。セルロース分解の糖分を食品工業にも活かす。その上で熱利用や燃料利用も考える。
少なくても中央集中型のプラントで生産するより、少量で効率が悪くても小さな拠点で生産して、地元で消費するようなビジネスモデルを考えた方がよいように感じる。
生駒の山中の民家で見かけた外壁は、杉製の焼いた木板だった。
懐かしい感じ。昔は、家の外壁だけでなく、塀も多かったし、当たり前のように見たのだけど。ただこの家は、ちゃんと杉焼板の壁にも、サッシが入っている(^^;)。そこだけ現代風。
焼板は、表面を焦がして腐朽しないようにする伝統的な技術だ。時間とともに風情が出るのもいい。一般的な素材だと、徐々に汚れが目立つが、こちらは渋くなる。
もちろん万能ではないが、実は火に強くなり、防水効果もあるそうだ。木材は、表面が炭化することで、熱を通しにくくなるからである。炭は、電磁波も通さないから、そうした機能も売り物にできるかもしれない。さらに軽いから地震で倒れて人身事故になることも少なかろう。
デザイン的にも楽しめるから、もっと流行ってもよいような気がするのだが。
日本の山に木は育っている。これからの林業は、その木をいかに伐出し、利用するかにかかっている……。
これまで私は、このように主張してきた。とくに、利用法が課題で、言い換えると商品開発こそが、日本の林業・林産業の将来を握っていると感じるからだ。
ところが、国際的な木材不足が勃発し、合板や集成材用に国産材が引っ張りだこになりつつある現在、一部では伐採跡地の放棄が問題となってきた。たとえば宮崎では、伐採跡地の75%しか再造林が行われていない。4分の1が、禿山のまま放置されているということだ。放置しても広葉樹などの雑木が繁茂して、うまく森林がもどるケースもあるだろうが、みんなそうはいかないし、何より雑木の山だと木材の再生産が不可能だ。持続的な林業にならない。
おりしも宮崎県は、今年度の重点施策として、伐採後の植栽未済地を解消させるべく動きだしたようだ。主に造林への高率補助、上乗せ助成などを実施して、3年間で植栽未済地ゼロを目指すのだそうだ。
ほかにも、素材生産業者が伐出ガイドラインづくりを行ったり、素材生産作業の認証制度を考えているという。こちらの動きは、また改めて考えてみたいが、とにかく多少は、伐採後に目が向きだしたように思う。
そこで、このブログならではの先読みしすぎ予言(笑)。
今後は、造林ビジネスの時代だ。世間が国産材を使いだし、そこそこ利用法にも頭を巡らせた今ならでは、機動的な造林プランを作り出せば、結構仕事になるように思う。
低コストで効率的で、将来を見据えた森づくりにつながる制度を提案して、ビジネスモデルを作れば、全国的に注目されるかもしれない。山村の過疎高齢化が進めば,、地元の人にこれまでのように造林を任せるのは無理となるから、チームを組んで請負って各地を歩くのもよいだろう。
たとえば、スギやヒノキばかりでは批判されがらだから、ほかの樹種を考える。かといって広葉樹の苗なんか植えて金にならない森を作ったら山主は山を投げ出してしまうだろう。外来とかも危険。何があるか。
植え方も、その後の育林も、いかに早く効率的で金がかからないこと、それでいて誰でもできる方法……だ。40年前の大造林時代の手法は、もはや使えない。
造林ビジネス。今から考えておいた方がいいなぁ。
今日は、朝から自治会の美化運動。ようするに草刈りである。ほとんとコンクリートかアスファルト舗装された町内では、たいした草刈りはないつもりだったが、その気で取り組むと結構な量の草があった。意外や法面や側溝周辺などに生えているのだな。
油断して半袖で出た私は、結構腕を草で切ってしまった。
その後、以前取材したところに用事があって出かけたのだが、その道筋で幾度も草刈り風景を見かける。そして着いた棚田地帯でも草刈り。どうやら、今日は全国草刈りデー?だったようだ(笑)。
ちょうど夏の盛りの前の日曜日は、草刈り適時なのだろう。
ところで、マジに全国で刈られる草の量はどれだけになるか…と考えてしまった。日本は、牧草まで輸入している。堆肥さえ輸入が増えている。これを有効利用できないものか…。
それだけではない。政府は、地球温暖化防止のための(計算上の)CO2削減に邁進しているが、草地の生産力も利用することを考えないのだろうか。
実は、京都議定書の3条4項には、各国はCO2の吸収源として
1、森林
2、植生回復(都市緑化)
3、農地管理、
4、牧草地管理
の4種類から選択できると規定されているのだ。しかし、日本は「森林」と「植生回復」しか選択しなかったという。その意図がわからない。
まさか参加していたのが林野庁関係者だけで、農地も牧草も管轄外だから……なんてことはないと思うが、全部選択しておけば手法の幅も広がったのに。それとも農地や牧草地を計算に入れるとデメリットがあるのだろうか。ちゃんと管理しないと、逆にCO2排出源扱いされることにおびえたのかもしれない。
草も貴重な資源である。昔の農村では、草刈り範囲も争ったという。なんとか他者より広く草刈りをしたがった。なぜなら刈った草を肥料にできるからである。
今や町内会の刈った草まで集めることは難しいかもしれないが、単に燃えるゴミ扱いで出すのはもったいない。
久しぶりに土倉庄三郎ネタ。
忘れたわけでなく、コツコツ資料収集を続けているのだが、さすがに最近は大きな情報は少なくなった。
その中でも、前から気になっていたのが「年々戦勝論」。
これは庄三郎が日清戦争後に発表したとされるもので、世間は戦勝に浮かれているが、そこで得た賠償金や領土(それも三国干渉で一部取り戻された)と、そのために費やした戦費や人命を思うと無駄であった。それよりも山に木を植えたら毎年木は生長して収入を得ることができる。それは年々、戦勝しているも同然だ……という林業家ならではの発想だ。
文献を呼んでいると、各所で引用・紹介されているが、その原典が見つからない。そこでアチコチ探した上で、国会図書館にも手を延ばしたのだが、その回答が得られた。
それによると、「年々戦勝論」という公刊された資料は、ないということだ。どうやら庄三郎が遊説などでしゃべったものが「年々戦勝論」と名付けられて流布したらしい。
あらら。そういえば、私が手に入れた土倉講演録にも、触れられているなあ。これが一次資料になるかもしれない。もしかしたら、資料として「年々戦勝論」を手にしているのは、私が一番多いかも(^^;)。
ほかにも、引用文件だけでは全文ではないので、苦労して原典を当たったら、引用部分と数行多いだけの代物だったりもする。さらに、新しい文献か、と思って読むと、孫引き資料によるものだったり……。
そろそろ資料面では行き着くところまで行った感。あとは、十分に読み込んで内容を理解し全体像を結ぶことができるかどうか。
昨日は、朝から深夜まで吉野にいた。
いくつかの用件があったのだが、中心は吉野山である。吉野山の桜に異変が起きているというだ。この問題に取り組む人と、その会合を取材した。何が異変かというと、いろいろあるのだが、なかでも
わかるかなあ。
桜の幹にびっしりとついたもの。
これはウメノキゴケという。コケとあるが、苔ではなく、地衣類だ。
地衣類とは、菌類と藻類の共生体で、もっとも厳しい環境条件でも生育するから通常は岩の表面てどにも繁殖する。枯れた木にも付きやすい。樹木の幹にもつくことは珍しくはない。
しかし、吉野山の桜は異常だ。とにかく全身に広がっているのだ。今のところは、桜も大半が花を咲かせているが、やがて枯れることが多い。
なぜか調べると、樹木内にナラタケ菌が繁茂していた。このままだと桜は枯れる。
で、どれくらい侵されているかというと、なんと下千本はほとんどだという。中千本にも広がっている。上千本はまだ少しというが、代わりに
この写真、何を意味しているか、わかる?
そう、真ん中のもっこりした鳥の巣のようなもの。
これはヤドリギである。
桜にヤドリギが繁茂しているのだ。ヤドリギは寄生植物であることは知られている。実は共生でもあるのだが、ともかくヤドリギがついたら樹勢が弱っている証拠にもなる。
このままだと、数年以内に吉野山の桜は壊滅する?
そんな危機を迎えているのだ。
明治初年に、吉野山の桜を伐って薪にして売る計画が進行していたが、土倉庄三郎が金を出して止めた話がある。今回の危機は、果たして救われるか。
火葬後、お骨拾いがある。そこで使われるのが竹箸だ。
私も今回経験した。さっと渡された竹箸は、多少焦げていて、使い込んだ(^^;)風情があった。使い捨てではないらしい。ちょっと気に食わない。それでも、結構多くの骨を拾って骨壺に入れた。係員はなれた様子で、どれがどこの骨か説明して壺に入るよう砕く。
もともと関西では、骨箸は竹製と決まっていて、だから竹の割り箸は嫌われる傾向にあった。もっとも最近ではそんなことも忘れられて広がっているが……。
さて、そんな後に、国内で竹割り箸の製造を再開する話題が入ってきた。
山口県美祢市の第三セクター美祢農林開発(株)が企画して、国産のモウソウチクから割り箸づくり4月上旬から開始したのだ。もともと森林保全活動などを担当する会社だが、竹林整備の一環として進めたものらしい。
興味深いのは、民間資金活用による刑務所「美祢社会復帰促進センター」で収監者の作業として製造している点だ。たしかに人件費が格段に安くなるので、中国産に対抗できるかもしれない。予定では年間320万膳生産する。週3日の作業だそうだ。また箸の製造だけでなく、タケノコの水煮、竹細工なども行う計画だ。
ただ、今や竹割り箸製造用の機械など日本国内では手に入らない。製造機械は、切断機、四面削り機、乾燥機、箸製造機、天取り機、研磨機等数多く必要だ。そこで以前作っていたメーカーに特注したそうだから、価格的には高くついただろう。当面の経費として2991万5000円を計上したそうだ。
いっそのこと、中国から輸入する(元は日本製だっただろうけど、きっと改良されて性能はよくなっているはず)手もあったのではないか。
実は、私のところにも割り箸製造の相談が時々寄せられる。また某所からやってきて、吉野を視察するそうだ。それは結構なのだが、高級割り箸づくりをする吉野はあまり参考にならないだろう。いかに安く作るかが、中国産への対抗に欠かせないからだ。
今回も刑務所との提携だし、樹恩ネットワークの間伐材割り箸が障害者施設との提携であったように、一般の製箸では採算を合わせるのが難しい。
それに竹製であるかぎり、防腐処理は欠かせない。おそらく亜硝酸系の防腐液に漬け込むのではないか。一部で燻製する手法もあるらしいが、その点では国産であろうと、あまりお勧めではないなあ。
先週末、叔父が亡くなった。
私にとってもっとも近しい叔父であり、幼少の頃から世話になり続けただけに、記憶が数多く残る。クリスチャンであり、ボーイスカウトの指導者も務めた親族では変わり種? の叔父だ。私が「探検」に興味を高めたのも、ボースカウト体験から来るだけに、影響は大きい。
ところで私は、仏教の教えに共感し、多神教としての神道にもシンパシーを持っているが、一方で聖書をそらんじ、讃美歌を口ずさむこともあるのは、この叔父の薫陶を受けたからと言えよう。
そのため3日間葬礼の儀に張りついた。叔父夫婦に子供がいなかったため、甥たちが代わりを務める意味もあった。みまかった翌日は実家で偲び、次の日は通夜、そして葬式(キリスト教式のため、前夜式、告別式と呼ぶ)と続いた。
よく田舎の葬式は、仕事を3日間休まなくてはならない、と言われる。それを例に田舎の人づきあいの大変さを示すこともあるが、何も田舎だから、と決めつける必要はない。大阪でもそうした状況は起こりえる。ようは関係者の思いをどのように表現するかという差なのだろう。なんでも田舎と都会の違いにするのは間違っている。
それでも手慣れた業者が入って仕切ってくれるし、キリスト教式の葬式ということで、一般に比べるとかなり楽だった。葬儀は礼拝であり、通夜のように夜なべの宴席もないからだ。何より意味のわからない念仏ではなく、説教は現代語で意味がわかる(^o^)。
納棺の際には、故人の遺品も柩に納める。ところが、ここで意外なことを知った。必ずしも何でも入れられるものではないのだ。たとえば電子手帳など金属製品はダメ。メガネも金属製のフレームはダメ。燃えないからだそうだ。
自らの遺体と一緒に愛用品を棺桶に入れてほしければ、生前から燃えるものを選んだ方が良さそうだ。できれば木製の品を愛用しましょう……と、ここで強引にブログの趣旨に結びつける(^^;)。
身内に不幸が出ましたので、数日間、書込は控えさせていただきます……。
あるセミナーで、「都市と田舎の交流で気をつけることは」という質問が会場から出た。
その回答者に私が指名された。別に私はその分野の講師をしたわけではなかったのだが、とっさに現地を見て歩いた「都市と田舎の交流」の現状を話した。
それは見た目の賑やかさと裏腹に失敗が多い、なぜなら赤字だから……。結局、田舎の人は(参加料など)都会の人から受け取っている以上にサービスしてしまう。結果的に田舎の持ち出しになって、地域づくりのはずが地域の疲弊を進めてしまうことを紹介した。
そして訴えたのが「ギブアンドテイク」だ。交流というなの元に都会の人へサービスするのなら、それと同等以上のものを得なければならない……ということだ。実は、得るものとは金だけではないのだが、どちらにしても田舎側が交流づかれしてはならない。
ところが、私の後に指名された田舎のNPO代表は、逆のことをいう。ギブアンドテイクなんて言っていると都会の人は来ないから、ギブアンドギブだ。最初はいっぱい与えないと交流ができない、と強調するのだ。う~ん。
田舎の人って、そんなにサービス精神が旺盛なのか。あるいは都会の人は、そんなにサービスされないと田舎に行かないのか。さて、どちらが正しい?
私は、その後NPO代表と「いっそテイクアンドテイク、やらずぶったくりの交流を考えませんか」と提案? したのだが。都会人を田舎に呼び込んで、身ぐるみはいでしまうことできないですかね。ああ、甘言を弄した田舎暮らし誘致がそうか。
東京の夜、ホテルのベッドの上で一人見たテレビドラマ。
「無理な恋愛」(フジテレビ)。60歳の男が、35歳の女性に恋をしてジタバタするお話。なかなか共感? 身につまされる? 話であるが、それはさておき。
中のセリフで気になったのがあった。
女性の父親が田舎から出てきたのだが、そこで東京で暮らす娘にいう。
「東京でうまく行かなかったから田舎に帰るなんて、田舎に失礼だ」
おお、ドラマにこんなセリフが出たか。ドラマでは、たいてい都会で傷つき疲れて、田舎に癒しを求めて帰る、あるいは訪れる、という設定が多いのだ。私は、どうもその点が引っかかることがよくあった。それに対して、「田舎に失礼だ」という言葉は、酔った頭にもストンと落ち着くような気がした。
田舎暮らしがブームだとは言っても、圧倒的に人は都会に住みたがっている。その都会の魅力とか、田舎に何を求めるのかということを整理しておかないと、やはり「失礼」になる。
単に田舎に住むだけなら、技術的にはそんなに難しくないと思う。地方都市ならえり好みしなければ仕事もなんとかあるし、住むところも得られる。ワーキングプアとかネットカフェ難民よりマシな待遇の職場や生活の場は見つかるはずだ。ただ、都会を捨てる決心がどこまであるのか、という意識の壁が大きいのではないだろうか。
今回の東京でも、やっぱり街は面白いし便利だと思う点はいっぱいあった。
都会で十分働いた、次は田舎だ、と考える人なら、田舎は迎えてくれるよ。「無理な田舎暮らし」をしなくてもよい。
ドラマでも、前段には「夢を抱いて東京に出て、十分に挑戦した末に帰ってくるのなら喜んで迎えてやるよ」という優しい父親(^o^)ぶりを示す言葉もあるのだから。
昨日からシンポジウム出席で、東京に行ってきた。
シンポ以外にもいろいろこなして、なかなか有意義であったが、一つだけ。
シンポジウムで私が基調講演した後に事例発表が行われたが、その一人が「マイ箸運動20年!」という人であった。
事前に「マイ箸を推進していると言っても、国産割り箸は環境に優しいことは理解されていますよ」と主催者に耳打ちされていたし、そもそも私はマイ箸運動自体を攻撃していない。個人の思いで行うマイ箸は「温かく見守っている」のだ。だから、ある程度意見交換することを楽しみにしていた。
ところが、内容がすさまじい。マイ箸推進に命をかけ(^^;)、割り箸攻撃のすさまじいこと。そして自分がマイ箸を持たない時に外食となると、フォークを要求するのだそうだ。それがないと爪楊枝で飯を食うという。(爪楊枝だって使い捨てじゃない?)
また当人は会社経営者なのだが、社員がマイ箸持って来なかったら、ボーナスの支給をストップしたという。
それでいて「竹の割り箸はいい」という。おいおい、その前に口にしていた防腐剤問題はどうなった。ほかにも事実誤認が多すぎて、あっけにとられてしまった。
ぜひとも反論したかったのだが、当人はシンポの直前まで来ず、開会して席に着き、事例発表を行うとすぐに帰ってしまった。おかげで声をかける暇もない。
おれにも割り箸についてしゃべらせてくれ! と心の叫び。
ただ、ここまで鬼となってマイ箸を推進している人がいることには脱帽。私は、この日に限って「マイ割り箸」を持つのを忘れていたのが悔やまれる。
ちなみに筑摩書房にも寄ったが、今も『割り箸はもったいない?』は堅実に売れているそうだ\(^o^)/。
農林中金が、「公益信託 農林中金80周年森林再生基金」の助成先を募集している。1億円まで出るという。
先日の山村再生セミナー等、補助金に関することを、このブログでもたまに書いてきたが、近頃思うのは、補助金の本分は「ベンチャーキャピタル」ではないか、ということだ。
つまりベンチャーにこそ、出資・助成する意味がある。……ここまでは、関係者にも異論はないはず。助成にはありきたりでない事業を求めているのだから。
しかし、ここでベンチャーキャピタルの性質を考えると、出資したうちの元が取れるのは10に1つだといわれていることだ。つまりベンチャー企業に出資しても、大半は失敗して出資額は回収できないということ。
それでもよいのだ。10に1つが成功してくれたら、その成功からの利潤で9つの失敗による損失は穴埋めできて、さらに儲かるのだから。
助成事業にも、この精神を持ってもらえないだろうか。助成した事業は必ず成功してもらわねば困る、という考え方を持たない。
いや原資は税金だから……という気持ちはあるのだろうが、これは公共事業とは違うのだ。実際、森業・山業関係でも、いくつかは失敗しているらしい。本当は返還を求めなければならないのだろうが、かろうじて許してもらったらしい(^^;)。
でも、助成を受けた事業がベンチャー的要素があるのなら、失敗はあって当たり前。それを繕って形だけ成功した、初期の成果を達成した、という報告書を書く必要はあるまい。
むしろ失敗例として、失敗した原因を探る報告書をまとめて提出したら、かなり価値があるのではないか。それをもって補助金の返還は免除する。
もちろん失敗例も含めて、世間に公開する。次回の募集でも、失敗例を示して応募者に気を引き締めてもらう。ただ採択を厳しくされても困るが。
なお補助金で事業が成功した場合、利潤から出資分を返還させるのではなく、成功した事業はやがて税金も払ってくれるのだし、地域づくりに貢献したことをもって「元をとった」と考えてほしい。
少し前の新聞の投稿欄にあった声を紹介する。
投稿主は、70歳になる林業家……と言っても現在は無職だが、今も間伐をしているそうだ。
まず、森林と林業環境は未曽有の危機にあるとする。80~90年も手入れをしてきたヒノキ(太さ60~80㎝、長さ12m)が、1本5000円以下でしか売れないことが例に上げられる。そして国産木材が売れるような施策がほしいと訴えるものだ。
ただ、よく読むと、山から下ろすのはヘリコプターであり、「安い外材に押され」たことが原因としている。そして木材自給率は20%を割っている……。
そこで林業活性化のためには、外材の輸入を抑えて、住宅や家具に国産材をもっと使うよう国民の意識を改革する必要がある、そのためには国政の力に期待するしかない、とある。
このブログをお読みの方なら、いくつも問題点を指摘できるのではないかなあ。
まずヘリ集材のような高コスト伐出の問題性、外材は安くなく国産材の方が安いこと、自給率は昨年で22%、今年は23%になろうとしていること……。ついでに言えば、1本5000円なら高い方かもしれない。
そして外材輸入規制なんて、管理貿易であり自由主義経済に反しているだろう。国民のニーズにも合っていない。ましてや国民の意識を変えるのに国の力を借りようというのも「なんだかなあ~」という気持ちにさせる。
残念ながら、林業の現場の人は、意外と林業の最新情報を把握していない。そして他力本願になりがちである。自分で全部ナントカしろ、とまでは言わないが、自分のつくった商品なんだから、いかに高く売るか方策を自分で考えて、その手助けを国や自治体に求める(もちろん規制ではなく)程度には、努力は必要だと思うよ。
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