ワーキングプア時代
沖縄話は、軽いものばかり書いてきたので、たまには……
たしかに森遊び・川遊び・海遊びにいそしみ、そして街歩きも楽しんだ。ホタルにキノボリトカゲにヤンバルクイナ(嘘)など数多くの動植物に出会い、海にも潜ってサンゴに触れたし、幻の琉球紅茶も味わったし、市場では期待のオバァに出会えたし。毎晩酒を飲んで沖縄料理を口にした。朝の散歩も欠かさなかった。そうそう、米軍基地を間近に見る経験もした。異郷気分を満喫した、はずだった。
ところが、沖縄本島を縦断するように車で走る最中に、何かにつけて脳裏に甦り、記憶を反芻してしまったのは、かつて私が過ごした「ワーキングプア」時代である。
若い頃いくつかの会社を渡り歩いたが、概して楽しい時代ではなかった。
朝7時前に出社する日もよくあったし、帰るのは午前様がほぼ日常。土休もほとんど取ったことはない。週に1度は会社に泊まっていた。そのために社の自分のデスクの下には寝袋を備えていた。徹夜になって、会社で朝焼けを見た日もあったっけ。
もちろん残業代なんて言葉もなかった。有給休暇も名ばかり。身体を壊して入院し、1週間ほど休んでから出社すると、給料から休んだ分が引かれていた。
いや、給料そのものが遅配されることも多く、ボーナスはハナからなかった。年末に「餅代」1~2万円が配られる程度。もちろん定期昇給もなし。
一応株式会社の正社員ではあったが、保険さえ入っていなかった。そのことを社長に指摘すると、「入っていない会社、多いよ。国保に入ってよ」とシラッといいのけた。それでも、なんとか健康保険には入らせたが、厚生年金はどうなっていたのか今となっては忘れた。だから、今の年金問題なんて、鼻で笑ってしまう。何十年も前から末端では制度自体が機能していなかったのだ。
そうそう、私は部次長という肩書で、「名ばかり管理職」も経験している。何の手当ても権限もないまま、部下?やフリーの人々の管理をしていたわけだ。彼らの中には今で言う「派遣」もいた。他社に送り込んで、上前をはねるわけである。そのうち私まで派遣されそうになった。幸い逃げられたが……。
仕事先には、露骨な下請け扱いも受けた。大手には傲慢な態度を取る者が、必ずいる。会社の大きさが自分の実力と勘違いしている輩である。やつらは今でも許す気になれない。
今もワーキングプアのニュースに触れると、ときとして瞬間的に血が沸騰する思いにとらわれる。破壊衝動に襲われる。時を飛び越えて、当時の自分の鬱屈した感情にとらわれるからだろうか。それでも私は、親元から通っていた期間も長かったので住むところの心配はしなくて済んだ。やはり恵まれていたかもしれない。
なぜ、沖縄であの頃のことを思い出したのか。勤め先の会社の社長が南島出身者であったからか。あるいは、あの時代、心の中では南国の風景を見ていたからかもしれない。事実、会社を辞める度に出かけたのは南の国々だった。ほとんどバックパッカーとして異国に身を置いた。その旅が心の底に溜まった澱を溶かす役割をしていた。
あの時代を乗り越えられたのは、 若かっただけでなく、仕事がとにもかくにも望んでいた「書く仕事」だったからだろう。内容がきつくてもくだらなくても、修業と思って割り切れた。そして、いつか今の境遇から飛び立ち、自分なりの夢へと向かう気合を養えていたからだ。
仕事に飲まれず流されず、自分の立ち位置を見失わないこと。それが、心をすり減らしてしまうことを防いだのではなかろうか。
おかげで今の自分がいる。昔の友人と会うと、少し太って、目が優しくなったと言われる(^o^)。
それなのにフロントガラス越しに目に映る沖縄の景色がフラッシュバックを誘ったのか。その時は少しだけ、厳しい顔つきになっていたかもしれない。
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