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森と林業の本

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2008/12/13

智頭の石谷家

今日は、急遽、鳥取県の智頭町に行った。日帰りだから、きつい……。

もちろん仕事だが、わずかな時間を割いて寄ったのが、智頭宿の石谷家住宅。国の登録文化財にも選ばれ、ちょっとした観光地にもなっているが、大正時代に建てられた地元の名士の豪邸を開放しているのだ。

建てたのは、石谷伝四郎。衆議院議員やら貴族院議員にもなったり、農民金融を手がけて町の発展に尽くした篤志家だが、その基本には山林経営があった。智頭林業の立役者なのである。

土倉庄三郎のことを調べていると、智頭の林業家との交流も出てくる。また智頭林業自体が、吉野林業に学んだところが多いようだ。そこで、何らかの関わりが見つかるかも、ということと、戦前の林業資本がどれほどの財産を持っていたのかイメージするのによいと思ったのである。

たしかに凄い豪邸である。一体いくつの座敷があるのか。二階には邸内に橋までかかっている。中庭だっていくつもあるし、庭園がまた広い。
そして掛け軸、屏風、鴨居の彫刻……など当代の逸品揃い。おそらく観光客の多くは、そちらを見るために訪れているのではないか。でも私は……。

まず見たのが、土間の上の吹き抜けに見える梁だ。直径1m近いマツの大木が何本も使われている。そして大黒柱は辺60センチはあるケヤキ。通常の柱も、おそらくヒノキだろうが、いずれも無節なのだ。全部、自分の山から伐りだしたのだと説明を受けたが、これほどの太い木が無節ということは、大昔から手入れをしていることになるが、智頭林業にそれだけの歴史はあるだろうか。(智頭林業自体は、江戸初期に起こされたが、枝打ちや間伐などの手入れが行われたのは、おそらく明治からだろう。)

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写真は、土間部分だが、広い。ここで、山番(吉野の山守と同じような制度がある)が当主に拝謁?して、仕事の打ち合わせをしたそうだ。

かつての土倉家の屋敷も、このような土間とその奥に座敷がいくつもあったそうだ。ちょっと当時の雰囲気を想像する。

ただ話を聞いているうちに、伝四郎は庄屋としても財を成していたそうだし、むしろ農業や金融で稼いだ金を山林につぎ込んでいたらしい。
また庄三郎と交流があったのは、伝四郎ではなく、分家の石谷源蔵ではないかと思えた。同時期に吉野を訪れて林業技術を伝えたのは、源蔵だからだ。

ともあれ、智頭林業も林業界に覇を競った時代があったことを忍ばせた。

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土倉家の人々」カテゴリの記事

コメント

こんにちは
いつも読み逃げで申し訳ございません。
久しぶりに土倉庄三郎の名前を見つけ、うれしくてコメント致しました。
この土間のお写真を拝見して、奈良桜井の祖父の生家を思い出しました。
このような太い梁の上に、祖父の母がお嫁入りに使ったと言う駕籠が置いてあり、又隣の部屋には長持などその時の品々が大切に残されてありました。幼い頃おじさんに見せて貰ったことがありました。
現在の当主はあまり歴史物に興味がないのか、住まいを現代風に改築されていますので、どこまで昔の価値あるものが残っているか気がかりです。

お久しぶりです。土倉翁のこと、忘れたわけではなく、今年は復活します、多分。

土倉庄三郎と交流があったのは、石谷源蔵で、彼は石谷家の分家でした。でも、分家の方が林業に熱心だったわけですね。ところが、分家の石谷家はその後、土倉家と同じ運命をたどったようです……。

ところで、桜井の祖父の家、興味ありますね。やはり林材業で成り立っていたのでしょうか。

こんばんは
祖父の実家は林材業ではなかったように思います。
規模は違うでしょうが、土倉家と同じように、敷地の中に使用人さん達の家々があったそうです。
代々、村の人たちに用立てていたらしいのですが、特に祖父の祖父という人が、「苦しくて借りに来る人に返済は無理だ」と貸し付け証文を燃やしていたとかで、急激に家が傾いたと聞いています。
その方や祖父の父親の葬儀は、立派な人たちの列席があって、騎馬の人や長い行列が続いていたと母が言っていました。
祖父の父親の遺言書を弁護士が管理保管していたとか、私たちの暮らしぶりからは想像も出来ない夢のような話です。
言っている母自身が幼い頃のことなので、その状況を正しく把握していたかどうか定かではありません。
現在の当主は家業を継がず、高校の校長をしていると聞いています。

証文を燃やす……う~ん、立派だ。

おそらく、そんな貸付くらいでは傾かないと思いますが、そうした発想をする立派な人は、何かと危険な投資もしたがるようで……。

土倉家を傾かせた長男も、同じような話が伝わっています。借りた人からすると、立派な人だったんだろうなあ。

わたしは鶴松と佐々木安五郎の関係について関心ある者です。
彼らは内モンゴルに植林を計画していたと思いますが、この計画そのものは表向きで、内実は、対ロシアを睨んだ国策の一環であり、日本国土の拡張を企図したものではなかったでしょうか?
これには川島芳子の義父、川島浪速が絡んでいたのでは?
この辺りのことについてご教示賜れば幸いです。

こんな古い記事にコメントしなくても……(^^;)。

佐々木と鶴松の関係にとくに詳しいわけではありませんが、一通りのことは、『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』に記しました。

ただモンゴルの植林計画は聞いたことがありません。モンゴルの王を取り込んで独立させようとしたみたいてすけどね。ロシアと日本の緩衝国家にするんだとか言って……。

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