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2010/01/07

ノーベル経済学賞の「共有資源のガバナンス」

ちょびっと、小難しいことを(^^ゞ

昨年のノーベル経済学賞の受賞者を知っているだろうか。

米インディアナ大のオストロム教授である。初の女性だということだ。

で、その業績は、主に共有資源のガバナンスである。
共有資源(コモンズ)とは、川や湖、海、森林、さらに魚類や野生動物、牧草地などを指し、個人や組織が共同で使用・管理する資源のこと。

この共有資源を適切に保全管理することは非常に困難だとされている。
個人や組織は、自分だけが得したい利己的な動機に基づいて行動しがちだからだ。
その結果、共有資源は荒されてしまうという「コモンズの悲劇」論も指摘されている。

そのため共有資源の保全管理は人々の自主性に委ねては不可能であり、
「国家による解決」
「市場による解決」
の二つしかないと多くの人によって言われてきた。

だが、この二つの方法も不十分であることは、社会主義国家や強権的国家の現状や崩壊、資本主義社会のさまざまな市場の失敗や環境破壊の進行が示しているだろう。

そこにオストロム教授は、第三の方法として「共有資源に利害関係をもつ当事者が自主的にルールを取り決める保全管理の可能性」を示した。

それによると共有資源の自主管理を成功させるためには7つの必要条件があるとする。その中でも重要なのは「当事者によるモニタリングとルール違反者に対する処罰ルール」だろう。

協力から離脱した者に対して他の関係者が処罰するのだ。それによって協力からの離脱を阻止する。
一般に処罰行動は、離脱者だけでなく処罰を実施する者もコストを負わねばならない
しかし調査と実験によると、関係者は自らの金銭的コストをかけても離脱者を処罰することが観察された。
一般に人は「利得の最大化行動をとる」はずだが、なぜあえて自らも痛みを伴う処罰を行うのか。

おそらく「怒り」や「筋を通す」気持ちが個人の利益を凌駕するのだろう。その奥底には、なんらかの合理性があるのかもしれない。
最近は神経経済学なる分野によって、人間の感情や行動の誘因が神経科学的に調べられている。それらを解明できれば、うまく説明できる日が来るだろう。

私は、その理論に触れて、なんだか田舎社会の論理に近いような気がした(^^;)のだが、都市社会にも適用できるだろうか。現代社会では、処罰するにも、さまざまな逃げ道が用意されているからなあ。たとえば、今や「村八分」的処罰は、たいして効果が見られない。法的裏付けも難しいかもしれない。

それでも、こんな研究がされていることに面白みを感じた。

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コメント

「筋を通す」ことは大変重要な行動規範だと思います。家庭教育でたたき込む感じですかね。水俣の山村部では幸い全員が筋を通す人なので、コモンズの悲劇は起こりません。地域の環境を保全する上では合理的でもあります。

>一般に人は「利得の最大化行動をとる」はず

近所の爺ちゃん婆ちゃんにそういう話をすると、「私を利益第一のさもしい下等な人間と一緒にするな」と怒られるでしょう。そう言う考えは私は大好きですが、直売所になかなかモノを持ってきてくれない原因でもあります。

>「私を利益第一のさもしい下等な人間と一緒にするな」と怒られるでしょう。

立派な心がけです。ですが、それは最低限食えるという豊かさがあるからなんでしょうね。

それに「筋より個の利益」を重視する人の多い地域では、どうしたらいいんでしょう。「怒り」を煽るか(^^;)。

>「筋より個の利益」を重視する人の多い地域

なかなか大変ですよね。

個の利益を追求するよりも筋を通した方が最終的にお得ですよ、という説明でもしましょうか。短期的な利益よりも長期的な利益を追求したら損しますよ、とか。金の卵を産む鶏のお話を改めてするしかないかもしれません。

「個の利益を追求するよりも筋を通した方が最終的にお得」。この論理を、いかに説明するかですね。無理やり法律で規定してしまってもなんにもならないし。
最近は、「囚人のジレンマ」で知られるようなゲーム理論も登場して、それなりに裏付けもあると思うのですが…。

でも共有資源の維持には、共同体の大きさは小さい方がいいということにはなりませんか。現在の自治体合併とは正反対の方向だけど。

>個の利益を追求するよりも筋を通した方が最終的にお得

デリバティブみたいなバカな装置を発明するような連中に、罪滅ぼしでわかりやすい理論を考えさせないといけませんね。。。私の頭だとそこまでは無理なので、やっぱり金の卵理論で行くしかないようです。

>共有資源の維持には、共同体の大きさは小さい方がいい

そういうことだと思います。

うちの近所の集落(現在は18軒)で経営しているそうめん流しは、始めの頃は全くの無給で運営したり、利益を均等に配分したり、マルクスの夢見た共産主義に近いのではないかと思うのですが、これも小さいからうまく行ったわけです。誰も見ていないところでも共同作業をさぼらない、という規律があります。コモンズの悲劇は起こりようがありません。

一方、集落の共同水道(150軒ほど参加)の公役になると、結構さぼる人がいて(それでも致命的なさぼりまではしないような力加減があったりしますが)、規律は少し緩みます。

今回の市町村合併で、これまで役所の持っていた力はぐんと弱まりました。(水俣では関係なかったけど。)地域にとっては痛手なところが多いと思いますが、開き直って良い点を探すならば、行政は頼れないから地域が自力でいろいろやるしかない、ということがはっきりしたことでしょう。(誰かが講演でそう言っていた。)自力でやるには適正なサイズというのがあって、せいぜい大字くらいではないでしょうか。

私は、市町村分割論者なのですよ(笑)。
もっと、小さな自治体を増やしてほしい。その上で共通の課題事業(上下水道とか道路、教育のような)をこなせる巨大自治行政組織も作る。都道府県をなくして、道州制と小規模市町村はどうですかね?

すでに鳥取県智頭町のようなところでは、議員に頼らず住民の100人委員会が政策決定している例もありますね。

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