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2010/03/30

吉野林業は土佐の人がつくった?

今年は、「龍馬伝」のおかげが高知ブーム?

それと、何の関係もないが、びっくりの記録を見つけてしまった。

土倉庄三郎の講演録を読んでいたら、吉野林業の事始めを語っていたのである。
それがオドロキの話である。

今から400有余年前(ということは、現代から500年くらい前?)の生活は、雑木を伐って雑穀を作り、茶や楮、漆から紙や漆器を作っていた。そして自家用の木を育てるために木を植え始めた。とはいえ、背の高さほどの苗を一人1日30本くらい植える植林だった。

そこに、大坂城や和歌山城などが建てられ、大きな都市ができた。(江戸時代初期)

ちょうどその頃、土佐の人が吉野川上郷を巡視して「私のところにも吉野川という川がある。その川は大和の吉野川と似ている。その流域で植林事業を営んで、育てた木を大坂や和歌山に運搬したら便利である。そうしたら、今の生活よりも一層進んだ生活ができる」と説いたというのだ。

その人は、川上の23の村のうち21村を訪ねて、そんな話をしたという。おかげで川上郷では植林がさかんとなり、しかも密植する、吉野式造林法が誕生した……。

そんな話を土倉庄三郎がしているのである!

となると、吉野林業は、この土佐の人が勧めたことで誕生したことになる???

この土佐の人とは何者か。何も土佐から来たという意味ではないだろう。また四国の吉野川は土佐ではなく徳島(阿波)である。巡視というからには、おそらく土佐出身の武士か学者ではないか。江戸時代になって、吉野は天領になったから、幕府の役人という可能性が高い。名のある人なら、記録は残っていないだろうか。

それにしても庄三郎は、この話をどこから仕入れたのだろう。地元に伝わる伝説か、古文書でもあるのか。

いやあ、気になる。

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土倉庄三郎」カテゴリの記事

コメント

>また四国の吉野川は土佐ではなく徳島(阿波)である。

吉野川の流域自体は徳島・高知・愛媛・香川に広がっていますね(近年では池田ダムからトンネルで水を抜いて香川用水に送っていますから,四国全県がより多く吉野川の恩恵を被っているわけですが).本流の水源は高知県にあります.もっとも,高知は上流部(おおよそ,大歩危小歩危より上)ですので,当時は別の名前だったかも知れません.

林業,というか山の地形については,確かに高知県の吉野川上流部あたりは紀伊半島と似ているかもしれませんね.

余談ですが,四国の吉野川と紀伊半島の吉野川(紀の川)は,ともに下流部が中央構造線(MTL)の断層線谷に沿っているためきれいにまっすぐな流路をとるという共通点もありますね.

ははは、細かなチェックが入りましたね。
たしかに上流は高知県です。私も早明浦ダム行きましたもん。吉野川流域の林業地は嶺北地方だから、土佐の川と言ってもいいかもしれないなあ。

でも、この辺りの用材生産の林業は、明治以降のはずだけど。愛媛の久万林業地では、木の苗を植えて育てることもしなかったと明治の記録にあった。

>でも、この辺りの用材生産の林業は、明治以降のはずだけど

ええ,そこは僕も気になりました.生まれが土佐であっても他の地域で成功している林業を見たことがあり,他地域で話をする際にそれがごっちゃになったのかなあ.となると,江戸初期にすでに成立していた林業地域とはどこだろう?と想像は膨らみます.

まったく別件ですが,最新号の「日経ビジネス」に住友林業の「森で儲ける」というコンセプトを紹介した記事が出ていますね.「戦後は安い外材に押されて国産材が云々」というくだりは田中さんが噛み付きそうですが,その一方で「これまで国内の林業は”産業”の態を成していなかった」と読めなくもない内容は,「あれ,むしろこの記事の著者田中さん?」と思ってしまったものでした.

「土佐の人」というのも、この人が林業技術を教えたのではなく、単に上流で木を育てたら川を流して運べるよ、というアイデアの提供レベルなのかもしれません。

記事が載っている「日経ビジネス」はウェブではなく本誌ですね。読んでいませんが、林業を取り上げていること自体、時代の流れが変わった気がしますね。

国の林業試験場のOBの辻隆道という方が、あらわした「土佐の林業年表」の中に、寛永期に「高市郡土佐村の人某此地に来り杉樹の播種法を伝え爾来切畑の業廃滅して林業勃興せり」の口碑の伝えが紀州吉野地方にあると記述しています。高市郡土佐村は、現在の奈良県高取町の土佐街道のあたりですが、この地の土佐の名前の由来は、土佐街道沿いの立て札に「六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられた。」と表記されています。これらのことから、土倉氏のいう土佐は高取町の土佐ではないでしょうか。
 なお、先の年表には、元和元年に土佐藩では白髪山(吉野川の上流の山、大阪の土佐堀の白髪橋の由来)の木材を伐採して吉野川に流し、大阪に輸送売却し、3ヵ年で累年の負債を返済したとあることや、1617年に小倉少助が輪伐法を制定し、50年回帰を提唱したとありますので、当時の土佐は既に林業が隆盛だったと考えられますし、同時期、吉野川の流材する技術者を紀伊、泉州、南伊勢から杣を雇ったとの記述もあることから、日常的に吉野地方との交流があったのではと推察します。
 また、愛媛に関しては、1873年久万町の井部栄範、吉野式造林方法により杉の植栽を始めるとありますので、明治ごろから始まったのではないでしょうか。(長くなりすみません)

なるほど、高取町の土佐か! たしかに土佐街道は今もあります。それなら理屈は通りますね。
ただ土倉庄三郎が講演したのは、岡山市なので、果たして奈良県内の土佐を持ち出すかなあ、という気はしますが。庄三郎自身が勘違いしていた可能性も残りますね。
むしろ、土佐の人が伝えたのは、あくまで伐採した木を川に流して運ぶ方法だけなのかもしれません。

土佐の林業は、基本的には天然林の伐採です。ただ薪の生産は行っていて、野中兼山が番繰り山(輪伐)制度を作って、船で大坂に出荷していました。
井部栄範は、吉野にも林業を学びに行っているので、時代的に庄三郎と交流があった可能性が高いです。

偶然だと思いますが・・・
今も川上村に高知出身の方が居着いています。
(居着くって言うのも変ですが・・・。)
やはり林業関係で川上村に来らたようです。

土佐と聞いて、思い出しました。
もしかしたら、土佐からのつながりが続いているのかも?と思うのは深読みですか?

私も、川上村で高知出身の人に会ったことがあります。なんでも、昭和40年代の林業好景気の頃にやってきたとか。当時は、わりとよそ者の流入が多くて珍しくなかったようですね。
高知県から林業で出稼ぎする人が多かったようです。

吉野林業事始めとつながるかどうかは???ですが、興味深いですね。

はじめまして。高知県の(株)益製作所と申します。
弊社は移動式製材機【工場据付可能】及び変速機・減速機・増速機の製造を手掛けております。

弊社の製材機は高知県の林業家 山中宏男 氏【林野庁長官緑化功労賞を受賞】より技術指導を受け、長年の林業経験から試行錯誤して考案された高精度の製材機であり、安全性においても労働監督署より、「労働安全衛生法規格適合品」を受けております。
また、当製材機は高知県地場産業大賞地場産業賞および高知エコ産業大賞アイデア賞を受賞。

当製材機は丸鋸で1日の製材能力は10石(約3㎥)で製品歩留まりは約80%以上。
原木の直径が約40cm・長さ6m・重量350kgまで製材可能です。
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ぜひ、弊社の製材機をご覧いただき、間伐材の有効利用など木材の普及に役立てて頂ければ幸いです。
なお、当製材機については弊社ホームページでご覧いただけますが、カタログおよび製材実演DVDも御座いますので、御請求頂ければ無料で送付させて頂きます。

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