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2010/04/30

里山は保全すべきか

今日は、平日らしい。世間は、休んでいるわけではないらしい。連休の谷間? 俺には関係ないけどね(-.-)。

だから、今日はマジメなことも、書こう。

ここ数日悩んでいる「里山保全」の問題。まあ、原稿としては書きかけているのだが、そもそも里山は保全しなくてはいけないのだろうか。

「人の営みによって作られた二次的自然」と位置づけているが、今の里山危機は、「人の営み」が、この地域でなくなりつつあることに起因する。ようするに、人の生活が地域の自然とつながらなくなってきたこと、さらに人が高齢化して自然に関与できなくなってきたこと、そして人そのものが減って集落維持も含めて難しくなってきたことに根源的問題がある。

それの、どこが問題か?

農地の耕作や雑木林の適度の伐採がなくなり、外来生物が侵入したり、野生鳥獣の異常発生と絶滅危機……そして人そのものがいなくなり、里山文化の消失。景観の悪化。
どれも感情的には惜しいが、具体的に人類にとっては何が困るのか。

この点を明らかにしなければならない。

そして、もう一つ。

現在の里山保全活動というのは、基本的に「人の営み」から外れている。

たとえば税金を投入して、里山地域に住む人の生活を維持しようとする。その資金は回収されることなく終わる。

あるいはボランティアで棚田を耕作したり、雑木林の管理を行う。こちらも、人員および労力は地域の生活とは遊離している。

これらの行為は、いずれも「営み」ではない。はっきり言ってしまえば、外部からの資金や労力の干渉だ。

自然の生態系、あるいは地域経済、そして文化とは、循環することで成り立つ。しかし、外部からの注入で支えるということは、循環ではない。無駄なエネルギーの放出と再生産を伴わない資金の流入である。なんだか、元の里山の自然および文化とは、似ているが本物ではないモノになりそうだ。

それを巨視的に見れば、ある種のエントロピーが増大するばかりだ。CO2の増加や、財政の悪化などの副作用が出るのではなかろうか。
たとえば病人にカンフル注射を打って一時的に意識をもどしても病気は治らない。栄養注射だけで生き長らえても、健康になったとは言わない。

……そのように考えると、今ある里山の自然と暮らし・文化を無理やり維持しようという考え方は不遜かもしれない。

人と自然は、共進化する。時代とともに人の生活も変わるが、自然も変わることを覚悟しなければならない。そこでは里山も共進化して、新しい里山を誕生させる必要があるだろう。

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森林学・モノローグ」カテゴリの記事

コメント

勉強になりました。頭たたかれた気分です。

あああ。
かなり同意見です。

まだ、住人の想いがあって、でも動けないからとか人手が足りないからとかのところはお手伝いもいいのかもしれない。
けど、そんなことも関係なく棚田や雑木林が維持されても・・・なんだか博物館みたい。
里山博物館。
こんな風に暮らしていたんだって~的な。

人が自然の中で生活し続けるための何らか工夫が見えるから、里山は魅力的なんだと思います。

 人が住んだ結果里山になったと思うので、税金使ってまで保全する必要ないという考えです。

保全に意味がない、というと、また怒り心頭のNPOが出てきそう……。以前、泣かれた(^^;)。

意義があるとしたら、モラトリアムですかね。このまま消失するのを少しの時間止めて、その間に「新しい里山」をつくるための……。

最も効果的な保全策は、そこに住んでそこで生活することだと思う。
そこまですれば、意味はある保全かなあ。

タケ中から立ち直られた(というか、タケノコを掘って元気倍増というところではないかと)ようで何よりです。大変刺激的な問題提起ですね。

私の住む山村は、里山というより奥山という感じではありますが、里山地区でも奥山地区でも、人が以前から住み、今後も住みたいという場合には、それを尊重するのは行政の義務でありましょう。居住したい地区を自由に選ぶのも基本的人権の一つです。

そこへ投じられた税金は、カネという形では返りませんが、うちのような人工林地帯では、人工林の手入れによって森の恵み(水とか酸素とか土とか)が得られます。現在の経済学では上手にカネには換算できませんが、換算できないから存在しないということにはなりません。

ボランティアも、狭く見れば地域外から来ますが、広く見れば熊本市くらいまではうちの森林から出た酸素を吸うでしょう。(この辺は多分立証不能。)この辺まで一つの地域と考えたいところです。ボランティアの活動はカネを産みませんが、タケ中と同じく参加者が元気になると同時に、森や棚田の手入れを通じて環境の改善に役に立ちます。環境悪化の手当(山崩れの後の山腹工とか)をするより、税金投入でボランティア支援の方が安上がりかもしれません。(この辺も、勘で書いていますので、計算していません。)

近所のスギ林・ヒノキ林も、絶えざる税金投入は必要なくて、一度間伐をしておけばあとは30年くらいほっといていいのではないでしょうか。

長くなって恐縮ですが、とりあえずの感想です。

長文を書く前は益子さんの書き込みだけだったのですが、書き込んだらうがたこさん、熊(♀)さん、田中さんの書き込みが。。。その辺読まずに書いたことをご承知置き下さい。モラトリアムはいいですね。

私の気持ちは、保全のために住むのではなく、住んでいる人がいるんなら保全しなくちゃしょうがない、という感じ。住んでいる人がいない、あるいは住んでいる人が求めないところまで、税金やボランティアで保全する必要はあるのか……と自問しているのです。

ただ、住む人のための保全であっても、昔ながらの里山は無理で、別の形にしなくちゃしょうがない。それが何なのか難しいですが、もしかしたら景観がガラリと変わるかもしれないし、農林業でなくゴルフ場で食っていくことかもしれない。

それだけの覚悟を持たないと里山保全を考えられない気分です。

的外れなコメントかもしれませんが…。里山は保全すべきか…長期的には「いいえ」でしょうね。人々の生活スタイルがかわれば里山もかわる…これがふつうのことだと思います。ただし今の里山の変化はあまりに急激。山野の恵みを利用する文化が断絶する危険性があります。生き物にとっても、その急激な変化は過酷です。よって短期的には「はい」となります。わたしにとっての里山保全は「激変緩和」です。

 吉幾三の歌で、『オラこんな村いやだ~♪』なんて歌ありましたが、山から燃料調達して、井戸で水汲んでなんて今時嫁もこないでしょう。守りたい里山って、現代人にとって都合の良い姿と思えてなりません。

 畑には猿や猪が出てきて作物守るのにお金かかるし、家業を守るために田舎にとどまってそのまま高齢独身男になる人も多いです。

 里山にもいろんな形があるでしょうが、仕事と嫁が無いのが私の身近な里山です。都会の人には、東京の木で家を建てよう!家庭菜園で食料を自給しよう!なんて思わないで地方から木や野菜を買ってください。お金を地方に循環させて欲しい。

私にとっての「新しい里山」とは、金と人の循環を取り戻した地域です。そして、それらの循環の結果生み出された自然の生態系も循環していること。

その枠内では、住む人が入れ代わるのは歓迎だし、現在の景観や動植物にこだわる必要もない。
文化も、血筋ではなく場が継承するものと思います。

ただ、その「新しい里山」の姿、およびその姿への移行をいかに導くかが見えない。

そもそも、里山の定義とは何でしょうか。
確かに、薪炭材が使われなくなった今、里山の必然性はありません。
そこへ公共の財源が投資されることが問題です。
里山が何のためにあるか、はっきりと定義する必要があります。
もし、定義されるのであれば投資も無駄ではないでしょう。

里山の定義はさておき(笑)、保全すべき優先順位は自然環境が先ではなくて、そこに住む人々の生活だと思う。

はじめまして。循環型農業とピークオイルを海外で学んでいるので、里山については素人意見で申し訳ないのですが思ったことを。
私は里山を保全すべきがどうかは現代のライフスタイルが今後維持できるかどうかによるかと思います。ピークオイルが実際に社会に影響するようになって一番影響する国は食料を輸入している日本だと思います。外部からの注入は遅かれ早かれ絶えざる得ず、部分的であろうと循環型に変わっていくと思います。その日が来てしまったとき、管理されている里山があるのと無いのとでは、ある意味防災の念で、まったく違うのではないでしょうか?

そういえば、パーマカルチャーの始祖に当たるオーストラリアのホルムグレン夫妻が日本に来たときに、里山としての生駒山を案内したことがあります。

そのときにパーマカルチャーの存在意義として、ピークオイル後の食料危機の到来時に循環型の農業技術を残しておくことがある…と言っていました。
里山は、パーマカルチャーの原点として未来への保険かもしれません。

私の中でもまだ整理ができないのですが、宇根豊さんの書いたものの中に、「農地を守れという時に、食糧危機といった形で危ないからなんとかしないといかん、と脅すようなことしか理由にならんのか?」というのがありました。私も森林の手入れが必要な理由として、よく人を脅している卑しい人間の一人です。保険としてのパーマカルチャーも、どちらかと言えば脅しに含まれるのではないでしょうか。

宇根氏の場合は、いろいろな生きものが多様に住んでいることを実際の調査で明らかにして、「農のめぐみを大切にしたいから」という脅しではない理由も考えたところが偉いと思います。

私も、もっと崇高なというか、気持ちの良い理由はないのか。と自問していますが、脅しが一番わかりやすくて。。。

里山地区には、森林が売れることを期待している所有者も多いと思いますし、大都市近郊は住宅や墓地ができて里山全滅というところも多々ありますね。それよりはゴルフ場の方がよほどましでありましょう。そういう地域で、森林売却よりは里山保全の方がお得ですよ、気持ちも良いですよ、と説得する材料は、今の私には提供できません。なかなか娑婆は難しいです。

先に、「人が耳を貸すのは、役に立つことか、笑えることだ」と記しましたが、「脅す」は「役に立つこと」に分類されるでしょうね。

となると、残るは「笑えること」。これは、「快感のある刺激」と言い換えると、里山保全や農林業再生は、快感になりうるか。
宇根氏のように、農の恵みから生物多様性を感じたり、景観を目にして、「ああ、いい気持ち」と思えるかどうか。脳内麻薬が分泌される……というような理論武装をするか。

やっぱり作業の後にヤクでも配らなくちゃイカン(x_x)。

里山保全って、もはやひとつの利権になってますね。
書籍・写真集・補助金・助成金・調査費・研究費、etc..

動機や理由がどうあれ、お金になるうちは続くのではないでしょうか。

問題は、そのお金がちっとも里山に落ちていないことかと。

私も、利権に絡んでいる一人です(^^;)。

「里山」はブランドなんですよ。これは快感利権です。
いっそのこと、この利権で循環型経済を作れないか。

田中さんはタケ中という里山快感を身を以て体験しているのですから、日本初の「里山快感利権」を商品化して大儲けできるのではないでしょうか。

えっ、里山で○○を栽培して……(-_-メ;)

麻薬的美味しさのある里山の食材を見つけ出し、快感料理を開発するとか。
日本3000年の歴史を誇る神秘・里山マッサージの正統継承者を名乗って、マッサージ・チェーンを開くとか。

私は快感で儲けるより、快感を味わう方がいいなあ。

はじめまして。
エネルギー革命以前は、里山を利用していた人は「里山を保全する」なんていう意識はなかったと思います。おそらく無意識に身に付いていたでしょう。それでも、里山という景観が形成されていたわけです。いまの里山は、人によって利用されなくなって、かつての「里山らしさ」がなくなってきてしまったわけです。「里山を保全しよう」というのは、いま生きている我々の心の中にある、かつての里山の景観を取り戻そうとしているだけではないでしょうか?つまり、我々の心の中の原風景を取り戻そうとしているだけではないのかと思うわけです。要するに、里山の問題は、我々の心の問題だということです。かつての里山を知らない若い人には、本などを読んでかつての里山のことをある程度想像する事はできても、原体験がないので、どのように「保全」されるべきか、ということは理解できないのではないでしょうか?このあたりのことは高橋敬一著『「自然との共生」というウソ』(祥伝社新書152)の中でうまく指摘されていると思います。

「心の問題」というのはいい得て妙です。

時代が進むとともに、「心の原風景」にも里山を持たない世代が増えると、里山保全は必要なくなるかもしれない。
しかし、日本の里山を原風景に持っているはずのない外国人が、里山を美しいというのも事実です。ここに、人類共通の美意識が隠されているかもしれません。

心の問題?そんなもので是非をきめるの?

単純に東南アジアやアフリカでは中国の違法伐採が問題になってるけど
そういう金銭的な欲がまずあるでしょうな
排出権問題とかもあるし

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