「さいたま市のマイ箸」に対して、意外なほど反響をいただいた。
なぜか。私もこのところ割り箸について考えるところがある。なぜ、私は割り箸にこだわるのか? 世間も、割り箸には林業以上の関心があるのか。
そこで頭の整理がてらに記してみよう。せっかくだから、歴史ロマンも絡めてみたい(笑)。
実は、私が『割り箸はもったいない?』を執筆する際、実はさほど割り箸について思い入れが強かったわけではない。むろん、私は自宅でも割り箸を使っていて、また吉野の生産現場を見て歩いているから、それなりに割り箸愛好家であり割り箸ファンであった。しかし、強く意識することは少なく、個人の思いに止めていた。
むしろ、割り箸は林業が生み出す木材商品の一部、それも末端の一つと認識していた。総論ばかり書くのではなく、各論に踏み込もうという思いが、割り箸に目を向けさせた。
だが、取材・執筆を進める中で(そして出版後の反響も含めて)、割り箸こそ林業の象徴的存在であり、もっとも消費者に近い木材商品ではないかと思いなおした。
林業の根幹思想である、木材を無駄なく利用する、木肌を大事にした製品で、消費者ニーズに合わせた商品づくりをする……などを体現しているように思えたのだ。
同時に、もっとも風当たりの強い商品であることも認識した。かつて「林業は森林破壊産業だ」という声があったが、それだって実は狭い環境保護分野の意見にすぎなかった。国民の大半は、好きも嫌いもなく、林業に無関心だったのだ。
しかし、割り箸は違う。身近であるゆえに誰もが意見・思いを持っている。また機能としても、箸なくして日本人は飯を食えない。その道具が何かは重要だった。そのため、反対論が吹き上がると、あっと言う間に広がったのではないか。
割り箸は、林業への応援も批判も、真っ先・真正面から浴びる存在なのではなかろうか。
それを、私は割り箸は「真田丸」的存在だからだと思っている(笑)。
ご存じだろうか。大坂冬の陣。豊臣勢の息の根を止めようと全国に動員をかけて集めた徳川勢は、大群で大坂城を包囲した。対する豊臣側は、浪人を召し抱えることで対抗するのだが、その一人が、真田幸村である。幸村は、九度山に幽閉されて幾年月、もはや所領も家来もいない一介の浪人だった。だが最後に一花咲かせようと、反徳川の象徴としての豊臣側についたのだ。
籠城策を取る豊臣勢の中で、幸村は弱い南側を防御するため外堀の外に砦を築く。それが真田丸だった。あえて城内に閉じこもらず、敵と直接向き合ったのである。
当然、徳川勢は南から、真田丸に攻撃を集中する。もし真田丸が落ちたら、そこから大坂城内に攻め入ることも可能だ。ところが幸村は、引いては攻め、攻めては引くの、自在の戦法によって徳川勢を翻弄するのだが……。おかげで大坂冬の陣は、引き分けに持ち込めた。
林業という産業は、都会の人にとってはちょっと遠い堀の向こう側にある産業のイメージではなかろうか。とっつきが悪く、すぐ攻め落とせない。ところが、その中の割り箸は、堀から突出して都会人もなじみのある存在なのだろう。すぐ目につき、気軽に意見を出せる。
だから攻撃を仕掛けられやすい。しかし、理に合わない攻撃である。
この理に合わないという点に、私は反応する。
ここで割り箸が否定されると、林業全体への影響が大きいはずだ。しかし、林業だけのために割り箸を応援しているつもりはない。
木を使わなければ森林を守れる、という短絡思考がイヤなのだ。複雑な事物の関わりを読まなくなる。物事には、よいか悪いかしかないという二元対立に陥る。このまま進むと、悪いと思ったものは、即刻削除することがよいという発想になる。
木材そのものは、おそらくその後も使われ続けるだろう。だが、もはや金属や合成樹脂などと同じマテリアルの一つとしてであり、生命体だった木への郷愁を求められることは少なくなるに違いない。機能を越えた愛着は期待しにくくなる。
このことに、私は割り箸の問題にとどまらず危機感をいだく。
素の木肌に触れられなった人々は、木に対してどんな感覚を持つだろうか。日本人の情操はどのようになるか。想像もつかないが、何かまがまがしいイメージだけが湧く。
ところで割り箸を教育のツールとすることの多い木育は、何を目的にしているのだろうか。人を木材に親しませることの先にあるのは、何も木材の消費を増やし、林業を振興しようという次元ではないはずだ。
おそらく木は、自然の象徴ではないか。木に親しんだ人は、自然と親しむのだ。複雑な環境が混ざり合った自然を素肌で感じるのだ。それが情操教育につながる。その一環として割り箸が使われているのなら有り難い。
だから真田丸を陥落させてはならない。
真田丸が撤去されて臨んだ夏の陣で、大坂城は落城した。世に真田幸村ファンは多いが、いずれも理の合わない徳川の攻撃に立ち向かったことに感動するのではないか。しかし、豊臣勢にとって真田丸は、守りの拠点だけでなく、攻めの拠点でもあった。割り箸には、それを軸に、林業への偏見、ひいては短絡思考を打ち破ることのできる可能性が秘められていると思う。
そうした思いがあるからこそ、割り箸にはこだわりたい。
……まだ未消化だなあ。
真田丸跡の宰相山公園にある幸村像。
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