夏の終わり~ベクトルを思索する
今日で8月も最後である。
8月は、ほぼ毎日朝の散歩を心がけた。きっかけは、7月末に出かけたボルネオ旅行で、早起きして、いつも散歩していた習慣をその後も続けたことにある。もっとも、より直接の理由は、自宅の寝室は真東向きで、朝早くから朝日がカーテンの隙間から射し込んでまぶしくて暑くて早起きしてしまうことにあった。無理に寝直すよりも、朝の散歩をした方が身体にもいいだろう……という目論見だった。
だから、盆をすぎて涼しくなれば、安眠できるから朝散歩は消滅するはず、と思っていた。
しかし。まだ暑いのよ。まぶしいのよ。
かくして朝散歩は、まだ続いている。
1カ月間、できるかぎり同じコースを歩かないように散歩を続けてきたが、つい山に入ってしまう。これも朝日が目に入らぬ方向に向かうと、そこに山がある、という理由なのだが。
今日は念入りに森の中を歩く。汗をだらだらかきながら黙々と歩く。仕事の上でイヤな思いをすることが続いたので、それを払拭するために。すると、意外と新しいアイデアが浮かんだり、ムカムカして興奮していた部分が治まって「大人の対応(^^;)」をするようになれる。
我が家の裏山に当たる生駒山の一角は、ほぼ完璧に頭の中に入っているつもりだった。道なき道を進んでも、自分がどこにいるのか地図上に再現できるので、迷うこともない。
それなのに、毎朝の散歩では、新しい発見が常々ある。
山は、日々少しずつ気がつかないほどの変化がある。それが日を重ね月日、年月を重ねると、大きく表情を変えていた。
我々が今できることは小さい。おそらく日々の変化ほどに。ただ、ベクトルを1度2度変えることができるかもしれない。力も1割増にするくらいのことはできるかもしれない。
それが重なれば、徐々に変化が見えてくるだろう。それは5年後10年後かもしれないが。
むしろ、ここで10度20度、いや90度と大きく方向を変えたり、いきなり力を2倍3倍にしようとするのは危険だ。山は、自然は急激な変化を好まない。きっと反作用が出る。
でも、1度の変化だけで我慢できるだろうか。もっと大きく目に見える変化を求めてしまわないだろうか……。
そんなことを鬱々と考えながら森の中を歩くのであった。
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