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森と林業と田舎の本

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2010/08/17

田舎も「動的平衡」

お盆の“民族移動”も終わっただろうか。

この一斉に行われる里帰りとか行楽の旅行というシーンは、見方を変えれば、「都会」、あるいは「田舎」の中身が入れ代わる行為であり、お盆とはその時期である。

そこで思い出したのは、福岡伸一の「生物と無生物のあいだ 」である。サントリー学芸賞の社会・風俗部門を受賞しているし、何よりベストセラーになったので、読んだ人、書名を知っている人は多いだろう。

内容は、タイトルとはかなり違うのだが、生物の「動的平衡」という概念であるということが大きな位置を占める。そして福岡氏の本は、タイトルは変われど、中心的なテーマはいずれも、この「動的平衡」ではないか、と思う。

「動的平衡」を、思いっきりはしょって説明すれば、生物の身体をつくる物質は、日々入れ代わっている、ということだ。食べ物を食べたら、身体の中で分子レベルに分解され、身体の一部になっていく。一方で、これまで身体の一部だった物質は、老廃物として排出される。

このように物質としての人間も、日々入れ代わっている(1ヶ月くらいで全部入れ代わると読んだ記憶がある、が確認していない)のに、その個体としての人間は変わることなく存在する。昨日の記憶は強も翌日も持ち、子供の頃につけた傷も残っている。

中身は入れ代わるのに、外見は変わらない。これを「動的平衡」という言葉で示している。

同じことを地域という組織にも「動的平衡」の概念を当てはめられないか、と思いついた。

地域づくりの必要性が訴えられ、過疎を止めることが重要だと叫ばれ、限界集落を救え、と声が上がる。地域を守りたいという気持ちがある。それは文句を付けられない感情の部分として存在するのだが、肝心の「地域」がよくわからなかった。

しかし、ここで守るべき地域とは何か。
そこに住人の存在なのか。それならば、世代交代時に崩壊しても問題はないはずだ。
産業とか暮らし、歴史という名の「文化」「民俗」なのか。それならば、博物館にでも入れてしまえ。
もしかしたら人々の記憶のネットワークなのかもしれない。それは、人が入れ代わる度に新たに築き直す必要がある。

つまり、集落を維持するためには、そこに住んでいる人が全部入れ代わってもよいのではないか、それこそが「動的平衡」の成り立った集落ではないか、と考えたのである。

逆に地域が崩壊するというのは、集落の動的平衡が崩れた状態なのかもしれない。そのため出て行くものが多ければ人口が減り、文化が喪失する。逆に増える場合は、都会の膨張となり、文化が混沌として不安定さを増す。治安の悪化もその一つかもしれない。

ならば、人が入れ代わってもよいのだ。ただし、そこに地域の記憶を伝承し、またネットワークを築き続けることが必要である。そうすることで、たとえば限界集落の住人は全部入れ代わっても、何百年前から続いている集落は維持されたことになる。これこそ「動的平衡」集落だ。

そもそも、現在ある集落(村から都会まで)は、みんな常に入れ代わっていることで維持されてきたのだ。私が聞いただけでも「先祖代々の田畑や山」なんてほとんど存在しなかった。3代遡ると、たいてい土地の所有者は変わっている。人だって、常に外からの血を受け入れることで維持している。

むしろ、ずっ人が動かない集落は、腎盂炎のように老廃物が溜まって身体に毒素が回った状態かもしれない(^^;)。いや、すでに生命のない状態とさえ言える。生命とは、動的なものだからだ。

となれば、限界集落を始めとする危機の地域が抱えるテーマは、いわゆる活気のある地域を作ることではなく、地域の記憶の伝承である。ネットワークも必要だが、こちらは常に変化することが前提で存在するものだから、先につくるものではない。新しい入れ代わった人が自ら構築することだ。ただし、伝承先がないことが問題となる。

そして、より俯瞰的に見ると、各地で集落が消えると同時に新しい集落が生まれることも、地域の「動的平衡」である。問題は、消えゆく集落と新しい村の間に記憶の伝承がないことだろう。

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コメント

福岡氏ですが真っ当な科学者からは大変嫌われております。
ご参考まで。
http://blackshadow.seesaa.net/article/103617644.html

福岡氏に対する毀誉褒貶は、私も聞いたことがあります。でも、動的平衡の考え方は否定されるものではない……というより、真っ当な内容です。
私も、実は福岡氏の本を読むよりずっと前、高校生の時にプルーバックスだったかで読んで感激した記憶があります。

地域のあり方に動的平衡の概念を持ち込むと、わかりやすいと思いました。

そういえば、卒論を書いていたころ、地域の活性化とは何かと教授に聞かれて「動的平衡を保って地域が永続すること」みたいなことを言った覚えがあります。持続的な発展とかいった概念もよく勉強していなかったので、「そんなことでは何も表現したことにはならん」と怒られました。今なら田中さんの書いたように反論できるのですが。。。

卒論というと、随分前ですね。その頃に「動的平衡」の概念を会得していたというのは、さすが。

私も、まだ思いつきの段階で、こなれていないのですよ。今読み返すと誤字が多い(^^;)。

動的平衡という概念は、高校の生物の教科書で習っていました。これをむらづくりに当てはめるのはなかなか良い思いつきだと思ったのですが、考えて見れば指導教員がその概念を知らなかったかもしれません。。。

学部学生の頃は、教員を教育するという気概がなかったので、あまり反論もできませんでしたが、院生時代は多少は教員を教育しようという意識も出てきて、生意気なことを言っていたと思います。でも、教授が飲むと必ず(当時、週に1回は研究室で飲んでいました)「私の院生時代には、当時の教授をずいぶん教育した」と言っていたので、私も教育しなければいけないんだな、と考えたのでした。

「教員を教育する」。いい言葉だ(笑)。
大学生ともなると、学生教員関係なく、議論を通じてお互い考え方を学ぶ面はありますね。

応用して「林野庁を教育する」とか「国会議員を教育する」感覚を持たねば。

地域の記憶の継承に地名、建物・構築物が果たす役割は大きいと思います。平成の大合併は、地域の記憶の継承という観点では、大きな問題があったと思います。

記憶の継承には、人の行動(歴史)ばかりでなく、当然、地名や景観も重要です。
それが消えたとき、本当に地域は別物になってしまう。

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