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森と林業と動物の本

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2010年10月

2010/10/31

事業仕分けで林野庁解体論

私の睨んだ通り、COP10がついに妥結、名古屋議定書に愛知ターゲットが採択された。

ま、これはこれで注目していたのだけど、もう一つ注目しなければならないのは、やはり行政刷新会議の事業仕分け第3弾に、国有林野事業特別会計が取り上げられたことだろうな。

結論は、

負債返済部分とその他の部分について人件費の帰属等を含め早急に検討していただき、国民の負担が決して増えない形での切り分けを前提として、特別会計を一部廃止して一般会計化する。

である。

林野事業の見直しは10年以上前に行われて、当時3,8兆円あった負債のうち2,8兆円を一般会計で面倒見て、1兆円を自分で返しなさいとしたものだ。ところが、今やそれが1,3兆円に膨らんだのだから、文句はいえない。最初から全部一般会計化しとくか、全部自分で返しますと啖呵切っておけばよかったのに、とさえ思う。

が、この結論には特記事項として「林野庁解体論」が付記されている。評価者の複数意見である。

行政刷新会議 国有林野事業特別会計によると、

林野庁を解体し、債務処理以外を環境省や国土交通省(林道等)に移管。

まあ、私も以前は、解体論を論じていたから気持ちはわかる(笑)。なんか、今の体制を見ていると隔靴掻痒でいじりたくなるんだよ。

ただ内容は、かなり違う。

私は、国有林のうち保護指定しているところは環境省に、と考えていた。ただし、環境省に吸収されるのではなく、環境省に森林局部門を作って、林野庁によって乗っ取る構想だった(^o^)。
だって、環境省に森林管理できる人材なんか質量ともにほとんどいないだろうから。林野庁の職員を大挙移籍したら、乗っ取れるぜ、と。

そして現業部門は、はっきり言って公務員に経営は無理だから、林野を都道府県に移管するなりして経営は民間委託も考えられるのではないか、と。

そして、林野庁本体は、政策提言官庁に衣替えする。実業ではなく、全国の森林地域の監督だ。ここには国土交通省の河川や砂防、道路、さらに地域づくり関係部署も統合していただきたい。山川林野庁になるのだ。

今振り返ると、詰めは甘いが、発想は面白いかも。単純に林野庁を「解体」するのではなく、「買いたい」森林づくりをする部署にしてくれないかなあ。

2010/10/30

奈良時代の屋根裏

以前、本ブログでも紹介したが、現在、奈良の元興寺の屋根裏が公開されている。

元興寺とは、元は飛鳥時代に立てられた日本最初の寺(法興寺=飛鳥寺)に起源を持つ古い寺である。平城遷都の際に移築されて元興寺となったのだが、その禅室の屋根裏調査が行われて、一般公開となったのだ。

時代時代に修理されてきたので、さまざまな年代の木材が混ざっているのが見どころ。もっとも古いのは西暦588年以降に伐採された飛鳥時代の木。それから奈良時代、平安時代、鎌倉……と続き、最後の修理は昭和18年に行われたので、その木もちゃんとある。

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手前が禅室。奥が本堂。この屋根瓦も、奈良時代のものから平成のものまで混ざっているそうだ。

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これは、白鳳時代の梁。飛鳥から藤原京、平城京へと続く時代である。

女性は、ガイド。



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奈良時代の梁を支えている柱は、昭和の木。





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そして、最大の名物は、この梁に見つかった落書き。
水上戦闘機のようである。下には富士山のような山も描かれている。おそらく昭和18年の修理の際に大工が彫ったのだろう。

ほかにも壁に空飛ぶ鶴らしき絵もある。

木材は、みんなヒノキだそうだ。チョウナやヤリガンナで削った跡も残り、千数百年前と現代の木の違いを目にすることができた。

こういうのを見ると、奈良って凄いだろ! と誇りたくなる(笑)。

2010/10/29

最低価格の講演

胃痛がまだ治らない。やっぱ、最後に55度のスコッチ飲んだのが悪かったかな……と自省する日々(;_;)。でも、
もしかして、胃ガン? 潰瘍でもできたかとか考え恐怖におののく。・°°・(>_<)・°°・。

というわけで(何が?)、11月7日に生駒で里山の講演行います。

主催団体は……よくわからない(^^;)。いや、聞いたのだが、向こうも何という名にする? てな状態だ。一応、生駒の里山を守る会とかなんとか。

実は、生駒市からも同じ里山の講座の依頼が来ていた。今年で3年目になる。が、その価格が、実は全国最低なのである。普通なら受けないほどなのだが、これまで地元のよしみで行ってきた。

が、今年も……と話が来たとき、ええ加減にせえ、この価格なんとかならんか、と問い返すと、「それなら結構です」と断ってきた。

市の既定でこれ以上払えないという。つまり生駒市は全国最低レベルの講師料というわけだ。なんやら毎年切り下げているという噂も。

そんなわけで今年は地元での講演はなくなったのだが、そこに今回の依頼があった。で、価格は生駒市と同じ(~_~;)。

それを受けた私は、ひねくれているかねえ。でもNPOと行政とは違う。場合によっては手弁当で出かけることもある。ようは、意気に感じるか、だ。

こんなことで悩んで胃に潰瘍作った……わけじゃないよ。

2010/10/28

娘のクラフト体験

昨夜は、夜の打ち合わせがあり、それを終了させた後に一人飲みに行った。ところが入った店(焼き鳥屋)のカウンターは満席で、案内されたのが6人掛けテーブル。

一人で大きなテーブルに着いて焼き鳥食うのは様にならない。カウンターなら、焼いている様子を眺めているだけで間が持つのだが……。

というわけで、どうして間を持たせるかと悩んで、修学旅行に行っている娘とメール交換(^^;)。

予定では「農業体験」であったはずだが、いきなりの寒波で雪が降ったよう。紅葉に雪で喜んでいるようでもあるが、代わりにやったのが、クラフト体験らしい。

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そして送ってきた写真が、これ。

派手な布のほうではなく、真ん中の木片。
これってマイ箸!

う~ん、容易ならざる事態だ(笑)。

とうとう娘も、割り箸ではなくて、マイ箸を作らされてしまったか。こういう活動を木育というのかな。

ちなみにアウトドアとしてラフティング(川下り)も予定されていが、こちらも寒さと雪でキャンセル。代わりにやったのが、アイスクリームづくりだと。何考えてるンだか。

2010/10/26

里山とは時間軸のシステム

COP10の場で日本の環境省が狙っているのは、SATOYAMAイニシアティブ。里山をSATOYAMAに変えて、人と自然の共生の象徴にしようとしている。

そして「SATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ」で発足させた。参加したのは、各国政府のほか自治体、国際機関、NGO、そして企業も含めて51団体。また世界10数カ国で再発見した、伝統的な農林業による豊かな生態系を育んだ地域を紹介している。

まあ、これはいい。たしかに里山は、比較的人の営みと自然の営みが折り合ってきたところだ。ただ、理想的な空間とするのはどうかと思う。

というのも、里山が常に人と自然が折り合って理想的な状態が続いていたとは思えないかからだ。

日本の里山地域を歴史的に見ると、まず開墾して農地にしたものの、その後過剰利用が続いて土地は疲弊するケースが浮かび上がるからだ。そして放置されると萱場となり牛馬が放牧される。でも戦国時代が終わって馬を飼わなくなると、また雑木林が再生する。雑木林も調子に乗って使いすぎると、木が育たなくなる。その後は痩せた土に強いが優占し……そんなことを繰り返している。明治以降は養蚕からを植えることでまた違った景観の里山となり、それが衰退し、松枯れが進み落葉樹が繁ったかと思うと、今度は誰も使わなくなったので照葉樹に変わりつつある。

ようするに、使いすぎて傷むと放置して、時間をかけて回復させ、また利用し始めて、また自然を劣化させて……という振幅が何度も繰り返されたのではないか

今は、おそらく荒れた里山の自然が戦後の燃料革命などのおかげで回復して、もっともよい時代を少し過ぎた頃だろう。下り坂だが、まだ「よい里山」の名残がある時代。こんな感じで見ている。

実は、私は里山自体の定義を、このような振幅のあるシステムとして考えている。一つの定まった状態の自然ではなく、人と自然が歴史的にかかわり続けたシステムを里山と呼んだ方がわかりやすいと思う。
荒れた状態も、豊かになるのも、劣化するのも、みんな時間軸の中に持っているのが「里山」なのだ。おそらくそれは、パートナーシップを組んだ、世界の里山でも同じではないかと想像する。

里山という地域は、自然だけで定義するものではない。そして人の営みを加える必要がある。さらに、時間を通して里山という地域を捉えることが重要だ。さもないと、結局誤解と失望を生むだろう。

今では、里山の農林業生産力はすっかり落ちてしまった。雑木林や棚田などで生産される食料および木質産物(木材のほか木炭や腐葉土まで)は、全体の微々たる量だ。とても食料危機、エネルギー危機の際には役立たない(^^;)。

だが、いつの日か、里山に新たな価値が生まれて、それが新たな「人と自然の折り合い」を作り出すことがあるかもね。

そうそう、「里山=システム説」を唱えた拙著『里山再生』に加筆したうえで新版として出版する話が持ち込まれている。乞う、ご期待。

2010/10/25

COP10の目的って何?

現在、COP10「国連地球いきもの会議」、ようするに生物多様性条約第10回締結国会議が名古屋で開催中。

案の定というか、予想以上に、というべきか、盛り上がっていない。注目も集まっていない。

いや、新聞やテレビなどマスコミの上では、それなりに報道されているし、また特集記事、特集番組も組まれている。露出面から言えば、そんなに悪くない。

だが、それらは取ってつけたような記事であり、なんとなく記事広告の臭いさえしてくる。
なにより世間の関心を集めていないことが歴然としている。

まあ、COP3(第3回地球温暖化防止会議)のときだって、最初はそうだったが、会議が難行するにつれて興味が集まり、最後ではそれなりの注目が集まったし、終わってからジワジワと地球温暖化が世間の話題になったのだから、今回も期待しよう。

ただ、関心を呼ばない理由を、生物多様性という概念が難しすぎるからと言われるのはどうか。

そこで私なりに、COP10が何をしようとしているのか勉強してみた。

すると、そもそもこの会議の目的は、生物の保全ではないということに行き当たった。

まず、全体会合「名古屋議定書」のテーマは、生物資源の取引ルールづくりだ。ある意味、貿易とか投資と同じ次元の経済的駆け引きの場である。

そして「名古屋ターゲット」と呼ばれるのが、生物資源の保全の目標と方策づくりなのだが、これまた個別の生物を思い描くとピンと来ない。パンダを保護しよう、という話し合いをしているわけではあるまい。本当に保護するべきなのは、生物資源の存在する生態系である。生態系保護と言い換えたら多少はイメージがつかみやすくならないか。

そして、それらを実行する目標と基準、そして資金がテーマになっている。しかも、各国とも自分たちに有利な形に持ち込もうとロビー活動も含めて暗躍?している。

ようするに、どちらもルールづくりなのであり、環境問題の解決ではない。日本の報道を見ていると、なんだか稀少な動植物を守れ、的な感情的、感傷的な議論のように思えてしまう。あくまで国益の分捕り合戦ではないか。

それで思い出したのだが、かつて ISO14000(国際標準化機構の環境基準)の森林部分の基準づくりの会議に参加した林業家から聞いたこと。

その会議の場には、各国のNPOなどが参加して、どんな基準にするか話し合うのだか、それはもう各国の利権と国益のせめぎ合いだったという。自分たちの国に有利な条件を勝ち取るために、いかに相手をくどくか、何を譲り何を勝ち取るかを会議の裏表で戦わせていたという。

日本の市民団体などのように、理想的な森林を守る基準づくりみたいなことを考えているわけではなかった。環境に配慮して、とか、共生の森づくり、なんて言葉を使っているようでは、吹っ飛ばされてしまう。各国では、市民団体までもが国益をまず第一に考えて行動している……。
国際会議とは、国益と国益のギリギリのせめぎ合いで妥協し、勝ち取るものだったのである。国家の外交だけでなく、民間レベルでも「いかに自分たちが得をするか」で交渉する場だ。

おそらく森林認証制度の審査基準も、そうして定められたのだろうし、COP3もそうだったのだろう。そしてCOP10だけが例外であるはずがない。

マスコミもCOP10では、日本の国益をいかに主張し勝ち取ったか(押し切られたか)を報道したら面白いのに。生物多様性条約を楯に、中国の経済攻勢の足を引っ張ってやったぜ、なんて政府高官の談話を載せるとか。
一方で、日本がオーストラリアでやっている原生林伐採の事実は隠蔽に成功したとか。そして、どーでもよい里山を理想の世界に描いて、他の国々に納得させてやったとか……。

2010/10/24

しおれた月下美人を見て考えた

我が家の月下美人が、チョロチョロと咲いている。

以前は狂い咲き?かのように、一晩で10以上も花を開かせたことがあるが、今秋はポツポツと。ここ数日続いている。 強く濃厚な香りが玄関先、あるいは庭先に満ちている。

それにしても、その名のとおり月下に咲いている。十三夜の月の下に。(ちなみに、十三夜とは、満月一歩手前の月のことかな? と思っていたら、満月だった。十五夜が旧暦8月15日の満月のことで、旧暦9月13日の満月が十三夜。)

夜の花は見る機会が少ない。翌朝、しおれた状態で気がつくこともままある。

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ところで、月下美人は花を咲かせて、何をしようとしているのか。受粉して種子をつくる?

夜の受粉昆虫はいるだろうが、残念ながら種子は作らない。実は、日本中の月下美人は種子をつくらない。月下美人の種子なんて、見たことある人は極めて少ないだろう。

なぜか。

実は、日本で育てられている月下美人は、ほとんど挿し木で増やされている。つまり同一クローンなのである。そして月下美人(クジャクサボテン科)は、自家不和合性といって、自分の花粉では受粉しないのだ。

このことは、意外と最近までわかっていなかった。しかし海外から持ち込まれたクジャクサボテンと受粉させると、見事果実が実ったという。だから近年になって、わずかに果実をつけている月下美人も登場しているという。

日本の山も、同一クローンの樹木が多いよね……。スギとかヒノキとか。

2010/10/23

木材自給率と安全保障

またもや木材自給率について考えた話。

民主党政権が掲げる木材自給率50%の根拠は、日本の森から持続的に収穫できる木材量が約4000万㎥であることらしい。1000万haの人工林から間伐をしながら生産できる木材という意味である。そして日本の木材消費量は、ここ数年は7000万台に落ちているものの、平均的には8000万㎥前後であることから、50%という数値をはじき出したというのである。

なんとも大雑把な計算だ。木材需要を増やそうとか、あるいは国産材の質とニーズなどを厳密に計算したわけではないらしい。

そこで、また原点にもどって考察してみる。なぜ、木材自給率を高めないといけないのか

もちろん遠くから重い木材を運ぶためにエネルギーを消費するのは無駄だとか、林業で生計を立てる人々の雇用の問題もある。だが、一般的に自給を口にする場合の定番は、安全保障である。必要なものを自ら生産しなければ、もし輸入がストップした場合に大変なことになる……。

だが、ここに疑問がある。

その点をより安全保障の観点が際立つ食料自給率で考えてみよう。

食料が足りなくなると飢餓が発生するから、なんとしても確保しなければならない。そして外国からの輸入は、輸出国の事情によって止められる可能性がある。だから自国で……となるわけだが、よく考えるとおかしい。

食料の輸入がストップする自体として一番考えられるのは、不作である。生産量が減ったら、どこの国も、まず自国民分を確保するために輸出量を抑える。今のロシアが小麦の輸出を減らした事態もそうだ。ロシアは、異常気象で大不作だったからである。もし日本が大量に輸入しているアメリカなども不作になったら、同じ可能性があるかもしれない。

では、日本の食料自給率を上げていれば、対処できるか。たとえば自給率を8割以上に高めておけば安全か。

ここで思いついたのは、日本が不作になる心配である。異常気象は、地球上のある程度偏った地域で起きる。もし、その気象異変が日本列島を覆った場合、どうなるか。8割を賄っていた国産食料が激減するのである。その時に、あわててつきあいのない国からの輸入が行えるか。

これは危険だ。本当に安全保障を考えるのなら、地球上の各地から満遍なく食料を輸入しておくことではないのか。一国が輸出をストップしても、別の地域から輸入できればリスクを減らせる。こそこそ飢えなくてすむ手だてだ。

さて、木材にこの考え方を適応すると、どうなるか。とりあえず日本の森林が突然どんどん枯れだして木材の供給ができなくなる……という事態は考えにくい。だが、急いで作付けして、すぐに供給することも不可能である。60年先の収穫は、今からスタートしなくてはならない。
また外材の供給が細ることはあり得るが、世界全体が突然ストップすることもないだろう。やはり世界から広く貿易を行っておく方がいい。それも建材用もあれば合板用、パルプ用チップなど、いずれも輸入先を分散しておかないと安全保障にならない

となると、やはり考えるべきは、森林をいかによい状態を保つか、持続的生産を行うかということに尽きる。森があれば木材のストックもあるのだ。

先に木材自給率50%は、持続的に生産できる量を4000万㎥とする前提にひねり出された数字だと紹介したが、それがどうも怪しい。伐採する量さえ4000万㎥以下に保っていれば、確実に持続的ということはあり得ない。
確実な造林と、獣害などで難航する育林をしっかり行える体制を構築しておくことが重要だ。50%なんて、後からついてくる数字だろう。

今は、国産材の生産ばかりに目が向いているが、そろそろ再び造林・育林に意識をシフトすべき時代に入っているように思える。

2010/10/22

木づかい祭の出演者

11月4、5日の「木づかい祭だ! 全員集合!」、そろそろ準備をしなければ、と内容を確認していたのだが、4日の「木づかい会議」の出演者のことを考えていて気づいたことがある。

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これは、ようするにシンポジウムのパネリングなわけだが、私を含む4人が出演する。

そのうち、服部氏と富士村氏は、知り合いだ。藤井氏は名前を聞いたことがある程度。

服部氏は、ハートツリーという会社を率いているが、彼が取り組んでいるのが「吉野ハート・プロジェクト」である。そう、主に割り箸を中心に、吉野の産品を広く世間に売っていこうという会社だ。そのためのNPOも地元の有志と結成している。
ナチュラル・ローソンに吉野の割り箸をアドバシとして納品しているほか、吉野の山から出る間伐材などを混ぜた間伐材ペーパーも売り出している。
彼は、もともとマーケティングの専門家として数々の商品開発を手がけており、ヒット作もたくさんある。ところが、そうしたビジネスに飽きて? 割り箸プロジェクトに取り組んだ。

もう一人の、生活アートクラブの富士村氏は、富士村氏の奥さんに取材するときに知り合った。いわゆるエコ商品の卸を主とする商社。ほかにエコデパというネットショップも開いている。その中で、国産材グッズもかなり扱っている。とくに全国に眠っている隠れた国産材商品を発掘して、通販会社などに卸すことが多い。
すごいのは、ここが扱うと売れ行きが全然違うことだ。これまで地元で細々と売っていた商品があっという間に2倍3倍、ときに10倍と売れ行きを伸ばすのである。
富士村氏は、かつて某業界で売上ナンバーワンに輝いたこともある超辣腕の営業マンだった。それが、この業界に参入したのである。始めたのは奥さんだったらしいが。

面白いのは、どちらも別業界で成功を納めていたのに、あえて国産材の商品を売るビジネスに参入したことだ。絶対儲かりそうにないのに……(笑)。
案の定、服部氏は安定して割り箸を集めるのに苦労しているのに加えて、箸袋に入れる広告を取るのも大変らしい。

それどころか、富士村氏は、国産材グッズを扱いだして、奥さんと仲が悪くなったとのたまっていた(^^;)。どこの業者もいい加減で、契約を守らなかったり勝手な行動を取るなど、国産材商品をつくる現場のビジネス環境が拙劣すぎるのだ。奥さんがそれでも懲りずに取引を続けるから、つい喧嘩になるとか。

ぜひ、ここのところは私も当日突っ込んでみたいと思っているが(⌒ー⌒)、奇しくも、国産材業界の問題点を浮き彫りにする事例のオンパレードだ。それなのに、国産材、ひいては林業に肩入れしているのである。

これこそ、先日の本ブログで記した「林業は幸せな産業」の事例となっている。そもそも木づかいは、その担い手の多くが林業とは何の関わりもない人が多い。それなのに応援したくなるのはなぜか。

この点は、私自身が翌日のミニセミナーで扱う「林業女子プロジェクト」の肝の部分につながるような気がする。

ああ、こんなことを今記したら、本番にしゃべることがなくなるよ……。

2010/10/21

森と建築が結びつくわけ

NPO法人森林をつくろう「新・木造の家」設計コンペティションが10月30日(土に)博多で開かれる。

このNPOの母体は、佐藤木材という素材生産業。バリバリの林業現場なのだが、そこが単独で全国の建築系の大学生に呼びかけて、伝統構法の家づくりの設計コンペを主催しているのだ。NPO理事長は、その娘さんである佐藤和歌子さん。林業女子である(^o^)。

すでに6回目のはずだが、今年も36の応募があり、一次審査を通った7作品がブレゼンされる。交通費も出るから、学生にとっては有り難いだろう。私も、その作品を見たことがあるが、なかなかユニークな発想を持ち込んでいた。

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しかも優秀賞に選ばれると、実際の施主とマッチングされて、家づくりを担える。もちろんプロのチェックは入るから、学生だけで設計するわけではないが(そんな家、怖い(^^;)、ものすごい体験をさせてもらえることになる。

なぜ、林業家がここまで行うのか。このコンペだけでなく、近年は林業と建築を結びつけた活動が増えつつある。まだ微々たるものではあるけれど。

最近そのことをよく考えている。

一般に林業と言えば、木を植えているイメージか、伐採しているシーンを連想する人が大半だろう。せいぜい伐った木を丸太にして木材市場に並べるか、製材工場に運ぶところまでしか思い浮かべないのが普通だ。製材以降は木材産業という言い方もするし、工務店まで行き着けば建築業である。

今は、それらがバラバラだ。自伐林家を除くと、森林所有者と森林管理者が違う。造林者と伐採者が違う。それぞれ連絡を取り合うこともなく、一体、この山の木を植えた人は、どんな森づくりを頭に描いていたのか伝わらない。いや、そもそも森林所有者でさえ考えていなかったりする。

そして伐採後はその木材がどこに運ばれ製材されるのか、どこの家の材料になるのかも知らない。伐採業者が知らなければ山主が知っているわけない。そして製材がどこの工務店に渡るかも知らない。反対に工務店は、山主も伐採業者も知らない。施主が建てたい家について山主らが知るわけないし、その家を建てるのに必要な木の条件も知らない。
工務店が知らなければ、施主が知っているわけない。そして施主は、自分の家の素材がどこから来た、どんな特徴のある木を使っているかまったく情報を持たないのである。

しかも所有権はその都度移転しており、資金の流れもわからなくなっている。住宅ローンで支払った金額は、一体いくら山元に還元されているのか? 売れ残った在庫の分まで買った木材に転嫁されているのではないのか?

そして国産材の家がいつのまにか建てられなくなり、木材需要が減り、自分の仕事が苦しくなっても、林業家はなぜなのか原因を推測することさえしなくなっている。

おそらく、こうした情報遮断こそが、現代の林業の宿痾ではないか。

林業界の人があえて建築の世界のコンペを主催するのは、その壁を打ち破る一石なのだろう。言い方を変えれば、林業家がそこまでしなくてはならなくなったからとも言える。

もはや現代では、造林だけ、伐採だけの狭い林業を見てるだけでは立ち行かなくなった。林業を「川上」と限定するのではなく、川上から川下まで、造林から建築まで、木の流れをすべて包含した「大林業」の発想を持たねばならない。

2010/10/20

地域の活性化って何?

よく言われる、「地域活性化」。私も、よく使うフレーズだなあ~。

でも、「地域の活性」って、なんだ? 活性化するとは、何がどうなることか。

たとえば経済的に動くお金の量とか、人の数で判定するなら、都市の方が高いに決まっている。人口減少が深刻な地方都市でも、2~3万の人口があるのに対して、町村では5000人を切っているところが多い。当然、お金の動きも都市の方が多くなる。

しかし都市が、常に活性しているかと言えば、ノーだろう。逆に1000人そこそこの村が“活性化している”“元気だ”と言われることもある。衰退する都市と、元気な山村というケースは、何を判断材料にしているのだろうか。

そこで取り出すのが、変化に対する捉え方である。世の中の変化に合わせて自ら(地域)が変わろうという動きがあるかどうか。それがあると、活性化していると見られる。つまり活性化とは、ある一時期の状況(人口、経済など)を捉えるのではなく、地域にある人や組織の変化を見なければならない。

だが、難しいのは、その対応の仕方だ。たとえば、経済的衰退に合わせて行政や住民の暮らしも縮小させていく動きは、活性化ではないのか。逆に、激しく変動を繰り返す地域で、その変化に合わせることに必死で振り回される住民。これを喜ぶべきかどうか。

最近私は思うのだが、なぜ、地域を活性化させなくてはならないか。地域に住んでいる人、関わっている人が、本当に活性化を望んでいるのかどうか。

変化に対応するということは、自分の生き方も変化させる必要がある。仕事を変えるとか、住み方、暮らし方を変えることも求められる。その結果として得るものはどれだけあるか。

このコストパフォーマンスを見極めないといけない。もしかしたら、差し引きマイナスかもしれないのだから。

現在衰退している地域に住んでいる人がいたとして、その地域の衰退という事象は、いきなり訪れたのではなく、時間をかけて進行したはずだ。言い換えると、衰退の進行に人はなれ親しんできたとも言える。経済力の衰退が人口減少を招いているのは、ある意味「適応」である。徐々に進む変化に、対応してきたのだ。

ところが地域の活性化を目指して、移住者を取り込み、新産業を興し……と大きな変化を呼び込むと、なれ親しんだ環境を破壊することになる。果たしてついて行けるか。とくに高齢化が進むと、環境の激変は望ましく感じない可能性が高い。
地域を元気にしようという企ても、衰退進行にかかった際に近い時間をかけて緩やかな変化にしないと、人がついてこないかもしれない。

必ずしも活性化は善ではない。誰が何を求めているのかを考えなくてはならない。

2010/10/19

学生の卒論テーマ

たまに、学生からメールが来る。単に拙著を読みました、というものなら有り難く礼状を返信する。が、なかには質問状を送ってくる学生もいる。それも多いのが卒論などに関連して意見を求めるものだ。

正直、面倒なのだが、できるだけ丁寧に返信することにしている。私も、かつては大御所的センセイに一方的に手紙を送りつけた口だからだ。因果は巡る? 恩返しとして可能な限り私なりの意見は返答する。

ただ、その後たいてい返信はない。見ず知らずの人に意見を求め、それもプロの情報をえておきながら御礼のメールさえ出さないのだから、始末に悪い。「だから学生は……」と毒づかずにいられない(-_-)。

せっかくだから、そのうちの一つを本ブログのネタにしてやろう。

これは建築を学んでいる学生からだが「限界集落を建築を通して復興させるシステムを考える」という壮大な?ものだ。

それ自体は結構なことだ。ぜひ、斬新なアイデアを出していただきたい。こちらが参考になることもあるかもしれない。

こんな意見を述べている。

>私は一つの可能性として、教育施設であると考えます。
>若い世代の人々が農家に住み着くことは極めて少ない。これは子供を育てる環境が農村では整っていないからだと思います。
>村を維持し続けるためには少なくとも教育施設というインフラが必要だと考えています。

廃校になった学校の跡地に交流の場を設けるという試みも行われているが、それでは村の持続性を見込めない、ただの観光の場となってしまうというのだ。だから、人が住む施設が必要というわけである。
それはそれなりの意見であろう。

提案は、
一つ目の案は、保育所です。農村を体験しに来た都会の子供たちを受け入れるための保育所をつくることで子供たちの人数を確保し、保育園を維持させる。
二つ目の案は、農業の大学校です。「農業をする」という明確な目的を持った人たちを村の学校に集約させ、畑を維持します。

おお、それは面白い。

が、現状認識を少し誤っているのではないか。

第一次産業として働く場は無数に存在します
>都会でなく、田舎で暮らしたいと考える人々も多くいます。

どこに働く場が存在するのだ? どれほど稼げる場なのか? 田舎で暮らしたい人がいるのは事実だが、田舎でどうやって食っていくのだ?
また保育所も農業大学校も、どうやって経営していくのだ? 税金に頼るのか?それで自立した農村の復興になるのか? それに入学した人は、どこに住むのか。

そもそも何のために限界集落を復興させなくてはいけないと考えるのか。自然保全のため? それでは元からの住民の生活とは別次元である。

その点を指摘してあげたのだが、ムカついたのかもしれない(笑)。

しかし、質問して意見を求めた以上、礼はあってもいいだろう。そして完成させた卒論は、私に見せるべきではないか。

ちなみに、ちゃんと礼を尽くした対応をした人は、これまで二人だけかな。焼き畑の卒業研究をした女子高生と、割り箸の卒論書いた女子大生(いずれも当時)。彼女らからは、今もたまにだが連絡がある。うれしいねえ~(^o^)。

2010/10/18

外資の土地所有に関する法案

自民党の安倍元首相ら自民党有志議員で作る「日本の水源林を守る議員勉強会」は、地下水の利用制限を行える緊急措置法と、保安林の所有者の届け出を義務付ける森林法改正の2法案を今国会に議員立法で提出するらしい。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101013/stt1010131812004-n1.htm

ようするに外資の水源林取得を制限するのが目的である。外国人の土地取得自体を制限する「外国人土地法」の改正は、さすがに慎重に検討するという。そりゃそうだ、下手したら人種差別法案扱いされかねない。

一方で、民主党でも日本国内における外国人や外国法人による土地取得の規制について研究を始めるという。民主党の行田邦子議員の質問に応えて菅総理が応えたもの。
こちらは、直接森林には触れず、自衛隊基地周辺や国境の離島などを念頭においているらしい。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101015/plc1010152038019-n1.htm

どちらも産経新聞の報道というのがミソだが(笑)、とうとう国会まで動き出してしまったんだねえ。

まあ、どちらも野党の法案だったり、「研究」レベルだから軽々しく論評すべきではないが、たいした内容になりそうにない。むしろ保安林所有者の届け出義務なんかは、面白いかもしれない。当然、日本人も対象になるだろうし、保安林に限らず、森林所有者を把握しておくのは必要なことだ。

もっとも、その結果、名義がわからなくなっている森林が続出……の可能性は強い。100年前の名義のままだと、権利者は何百人に分散しているだろう。ついでに境界線が確定していないことも示してほしい。そうすれば、とても外資が購入したくなる代物でないこともわかってくるだろう。それが白日の元にさらされるのは、森林の管理にも意味があると思う。

2010/10/17

リーダーは本当に必要か

チリの鉱山落盤事故で、地下700mから33人全員が生還した。そこで注目されたのが、33人のリーダー格であるルイス・ウルスアさんである。彼の指導力なしに、70日に及んだ地下生活は送れなかったと称賛されている。

さらに彼がドラッガーの本の愛読者で、彼の組織をまとめる手法はドラッガーの「マネジメント」に基づいているとか紹介されていた。なるほど、と思わせる。たしかにウルスアさんは、優秀なリーダーの資質を持っていたのだろう。

それにしても、最近は日本の政界を含めて強力なリーダー、優秀なリーダーを求める声が高まっているように感じる。国だけでなく自治体や会社などの組織で、常にリーダーの存在が問われている。それは、よいリーダーのいない現状を嘆くことの裏返しだ。

しかし、本当にリーダーは必要なのだろうか

正確に言えば、事故事件発生時のような緊急事態、あるいは戦争のような状況の中では、リーダーは絶対に必要だし、その決断の方向性やスピードが組織全体の命運を左右すると思う。しかし、それは仕方なしだ。さまざまな異論を封印して、団結しなければならない事態だから、一人の強力なリーダーに進路を託すのだ。

だが、それ以外では?

話は変わるが、ニホンザル社会を知っているだろうか。

中心にボスザルがいて、周辺にメスや小サル、そして外縁部に若いオスザルがいる……。ボスザルは常に全体に目を配り、逆らう者や余計なことをする者を叱りつけ、ときに抑えつけ、また守っている……また次のボス争いも起きる。このように説明されている。つまりしっかりしたリーダーのいる社会だとされているのだ。

だが、このボスザルの統率する社会は、虚構であることが解明されたことは、意外と知られていない。
初期の研究者は、動物園のサル山や、餌付けして集めたサルの行動観察した。そこから導き出したサル社会だったのである。

その後、完全な野生サルの群れを追いかけて観察した結果、ボスザルはいないことがわかった。群れ自体も、融通無下に構成されており、誰かが全体を引っ張るという状況は存在しないというのだ。サルの一個体は、常に周辺の少数のサルとの関係で行動しており、それが「なんとなく」全体を動かすのだ。

ボスザルを生み出したのは、人為的に餌を供給した結果、その分配(分捕り)のため、個体の強弱が表出したためと思われる。

レベルは違うが、アリやハチの社会も同じようだ。女王蟻や女王蜂が巣全体を仕切るということはあり得ず、みんな勝手に本能のまま動いているらしい。だから、獲物を巣に運ぶ過程でも、みんな好き勝手に引っ張るものだから、かなり効率の悪い動かし方をしているという。決して共同作業しているのではないのだ。女王蟻や蜂は、むしろ働き蟻(蜂)の奴隷として飼われていると見るのが正しい、という研究者もいる。

脱線したが、人間社会でもリーダーを求めるのは、現代が常に緊急事態の連続であることを示しているのかもしれない。
また市民運動家は、問題解決にトップダウンを求めがちで、また組織内でも異論を出させない風潮が目立つなど、意外と権力指向なのも、運動自体に緊急事態的性格があるからだろうか。

しかし成熟した安定社会は、少数の指導者に自分を預ける姿が正しいとは思えない。個人レベルで考察し判断することで社会全体が動くべきである。
もちろん、それらをまとめるリーダーは必要だが、それは勇猛果敢に行動を決定し他人に強制する人物ではなく、あくまでまとめ役である。その決断は、全体の支持を得られるものでなくてはならない。大統領型ではなく、議長型とでも言えるだろう。

そういえば、江戸幕府も、後期に入ると集団指導制に移行していた。将軍は政務に口を出せず、老中は何人もいて、決して一人が政策を決めていたわけではない。筆頭老中とやらも年功序列で、あまり力がなかったらしい。大老が置かれた場合も、独断専行の力を持ったのは、井伊直弼くらいである。(本来の大老は名誉職)

現代日本の社会に、本当に強力なリーダーが必要か。そう問われると、私は否と応えたい。

異論を封殺して、みんな同じ方向に進むなんて真っ平。「黙ってついてこい!」は願い下げである。自分の思いと違う政策が実行される際も、「本当は反対だが、仕方ないな」と納得させるだけの「熟議」(^^;)を行ってもらいたい。

もちろん「熟議」は時間がかかる。グローバル社会では、決断の遅れが致命的ともいう。だが、素早い熟議を行う方法も模索すべきだし、独断専攻の結果、間違った方向に進むリスクをよく考えてもらいたい。民間会社ならともかく、自らの進む道を納得せずに進むのは禍根を残す。むしろ社会を減速させるべきではないか。

……と、こんなことを考えていたら、本日の朝日新聞にチリ落盤事故の当事者へのインタビューが載っていた。それによると、33人はウルスアさんを絶対のリーダーとして動いていたわけではなかった。なんでも多数決で決めており、「33人全員がリーダーだった」とさえ記されている。間違った行動も含めてみんなが右往左往する中、ウルスアさんは、自然にみんなのまとめ役になっていたのである。

2010/10/16

枚岡神社秋郷祭

昨日に続いて、枚岡神社のお祭。

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まあ、私としては、このような巫女さん、もといしめやかな神事にも興味があるのだが、やはり祭の醍醐味と言えば、賑やかな方だろう。

それには昨日紹介した屋台のお店とともに、

たとえば、こんな風。

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地域(町内会)ごとに布団太鼓という神輿を持っていて、その数や豪華さ、勇壮さなどを競っている。よく見ると、緻密な彫刻が施されていたり、錦の染め物をまとっていたり。




 

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そして14日に順次宮入する。鳥居をくぐってから幾度か行きつ戻りつしながら、本殿下に成立。午後7時ごろが最高潮の盛り上がりだ。
写真のように持ち上げて見せると拍手が起きる。



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なかには子供用の小さな布団太鼓もあって、若者中心で担ぐ。担ぐのも、上に乗るのも、また太鼓をたたくのも、選ばれるのは誇りだ。




見ていて思ったのだが、このような行事があり、地域の若者が集まる機会があるのはうらやましくもある。よく見ると、茶髪もレゲエ頭も、かなりやんちゃな姿の若者もいるが、この時ばかりは場の中心だ。こうした行事に参加することで、地域に溶け込むのだ。

実は生駒山の場合、奈良側には伝統行事そのものは多くあるが、地域上げての祭は意外と少ない。そして地域性が薄れている。むしろ、枚岡神社のある大阪側の方が濃い人間関係を残している。1年を、この祭中心に動いているという人だって少なくないのだ。
おそらく大阪側は人口が多いことも影響あるように思う。奈良側は、ニュータウンこそ増えているが地域に密着した人口は少なくなっている。

そして感じたのだ。祭は、やっぱり人がいるからいい、と。

過疎化が進むと、神輿の担ぎ手がいなくて、軽トラに乗せて運んだり、観客のほとんどいない中、踊りを披露したり……と苦労している話を聞くが、そこまでして保存すべきかどうかは微妙な気持ちになる。
もちろん、続けなければ伝統も途切れ、二度と復活させられないかもしれない。長年続けていた行事が中止になったことがきっかけで、集落は崩壊を始める可能性だってある。

ただ、行事を執り行う一義的な意味が薄れたのに続けるのは苦痛だろうな。

行事を続けるか止めるか。この線引きをどこに置くかも、大きな課題になる。

2010/10/15

秋祭りの屋台

生駒山の大阪側麓にある枚岡神社。ひらおか、と読むが、ここは由緒正しい神社で、奈良の春日大社の神様も、ここから勧進されたという。まさに日本最古の神社の一つと言える。

とはいえ、極めて庶民的な神社でもあり、私の子供時代はよく境内で遊んだものだ。

そして、10月14、15日に執り行われる秋郷祭は、河内の国の一番、大阪府下でも最大級の祭なのである。私は今年も、見学に行ってきた。

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大阪の祭と言えば、天神祭とか今宮戎,岸和田のだんじりなどが有名だが、こちらの祭も地元密着で面白い。
とくに布団太鼓と呼ばれる神輿が20いくつ宮入するのは勇壮である。



が、今回はあえて神輿ではなく、屋台に注目してみた。なんたって、屋台の数は200を越えており、隣の駅近くまで広がっているほどあるのだ。

昔なつかし、リンゴ飴にお好み焼き、綿菓子、そしてスマートボールや金魚すくいなども当然あるが、近年は新しいメニューもたくさん登場している。たとえばエスニック系のシシカバブとかトルコアイス、タンドリーチキンもある。やっている人もアチラ系。

そして今年目立ったのは、B級グルメである。

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このところ、B級グルメ選手権が有名となったせいもあるだろう。今年優勝の鳥もつ煮とか、ホルモンうどんも並んでいる。お好み焼きも、広島焼きが出ていた。

こんなところにも、B級グルメの経済効果が出ているとは。おそらくロイヤリティは払わず(^^;)、本家のパクリだろうが、テキ屋も目端がきくのである。こんなところにも流行を取り入れる心がけがあったのね。

2010/10/14

地域づくりNPOの弱点

市町村合併が進む中で、行政はきめ細やかな対応能力を失いつつある
とくに中心部から離れた山間の小集落は、今後厳しくなるだろう。それが元で限界集落化、そして消滅への道を歩みだすかもしれない。

その動きをくい止めるべく、さまざまな新しい組織づくりが進んでいる。なかでも目立つのは、NPO法人づくりだ。もともとNPOと言えば行政と対立するイメージがあったのだが、いまや反対に行政の補完機能を持つ組織化が進んでいる。とくに福祉や環境系には、NPO組織が目立つ。そして最近では、地域づくりを担うNPOも増えてきたように思う。

なかには官庁や外郭団体が自らのダミーとして設立するNPOもあるけど、基本的に行政より小回りの効き、コストを抑えて事業のできる組織として行政が見捨てつつある分野・地域に進出しているのだ。

だが、NPO法人は、本当に「小さな自治体」になれるだろうか。

その将来をうかがうため、2001年に集落全戸が参加して丸ごとNPO法人化をした鳥取県智頭町の新田集落を訪ねた。名前をNPO法人新田むらづくり運営委員会という。おそらく全国でもっとも早い地域づくりNPO法人だろう。

ここは、人口50人を切り、最高齢は99歳が2人もいるような高齢化集落。智頭町中心部からも10キロ以上離れた山奥にある。65歳以上が6割を越し、その数値からすれば、まさに限界集落だ。

だが、すごいのだ。都市と田舎の交流事業では、年間4000~5000人が訪れるし、人形浄瑠璃を上演するし、毎月カルチャー講座を開くし。その講師には、国会議員から有名な文化人、研究者など一流の人を招く。Uターン、Iターンの誘致にも成功している。

さて、取材に行って理事の話を聞いたのだが……開口一番。

「NPO法人は、地域づくりに向いていません」だった(°O °;。

それは税制の問題が関わっている。地域づくりをするためには資金が必要だから収益事業を行うのが通常だが、この収益にはきっちりと税金がかかり支払わなくてはいけない。その点は、株式会社などと同じだ。

一方で、地域づくりのためには非営利のお金にならない事業も行うことが少なくない。この新田集落の場合なら、カルチャー講座などもその一つだ。当然、赤字。

こうした場合、株式会社などなら、収益事業で上げた利益を儲からない事業の補てんに回すのが通例だ。そうしたら払う税金がコストを引いた分だけ安くなるだろう。これを利用して、常に投資を続けて赤字決算して税金を払わない企業も少なくない。

ところが、NPO法人には、それが認められていないのだ。収益事業と非収益事業はしっかり分けて、利益の出た事業にはしっかり税金をかける。だが儲からないところに資金を融通することは経理上できないことになっている、らしい。

「税金ばかり取られます。不採算部門は切り捨てるしかなくなる。ボランティアでしろというのなら、地域づくりはできない」

いっそのこと、株式会社にしておけばよかった、とのことである。一理ある(^o^)。

もちろんNPOの方が、世間的には共感を呼びやすいとか特典もあるだろうが、経営のことを考えるとそんなに甘くない。事業即地域づくりという形態の方がよさそうだ。

なお株式会社にも、第3セクターという形もある。行政と民間双方が出資する形だ。これは、行政の信用と、民間の経営ノウハウを併せ持つ会社ということで期待された。
しかし、実際は行政の無駄と無気力、民間の地域より自社の利益追い行動ばかりが目立って破綻するところが多い。私はお勧めしない(^^;)。やる場合は、行政の出資は極力小さくして、経営権は民間出身者に渡すことである。村長が社長にならない方がいいよ。

2010/10/13

木づかい祭だ! 全員集合!

告知です。もっとも、すでにコメント欄などで触れていますが。

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このチラシのまんま。

クリックしてください。読める大きさになります。

「木づかい祭りだ! 全員集合!」

11月4日(木)5日(金) 東京大学 弥生講堂 

昨年に続いての第2弾だとかで、木づかいをキーワードに、木製品に木育、割り箸から住宅、そして林業まで。木づかい見本市もある模様。よく考えると平日ですが、4日の夜は交流会もあります。

無料なんですが、よく見ると申込みをしないといけないようですね。それもファックスで。
人数制限するほど人が来るのだろうか。ホールで250人までらしい。制限引っかかってももぐり込んじゃってください。て、無責任に書きますが。

私は、2日間会場のどこかにいるはずです。出番以外のところにも顔出すことになりそうです。乱入します(笑)。

ちなみに2日目の木づかいミニセミナーでは、私は「林業女子プロジェクト」について語ることになっていますが、もしかして、本物の林業女子が登場するかもしんないです。実物見たいと密かに思っていた野郎ども、参加ください。野郎でなくて女子だったら、そのまま林業女子会@東京の結成に移ります(笑)。
(ただし、まだ未定。外れの場合は、諦めてくださいね。)

2010/10/12

人混みの中は気が休まる、か

昨日の遷都1300年祭会場の混雑ぶりは、すごかった。

その人波の中で、私の脳裏に浮かんだのは、谷山浩子の「猫の森には帰れない」の歌だった。高校~大学時代にはまっていた曲である。メルヘンチックだが、妙に当時の心境にマッチしていた記憶がある。
そして、この歌には「人混みの中はとても休まります♪」というフレーズがあるのだ。なぜ、人混みの中で気が休まるのか、ずっと考えてしまった。

人がいっぱいだけど、都会の人混みは知らない人ばかり。見知らぬ人に囲まれている状況は、もしかして精神的には自由になれるのかも。人が多いと、気が休まらないと考えていたのは私個人の経験にすぎなかったのか。もし無人の森にいたら、不安につままれて落ち着かない人だっているはずだ。

谷山浩子は、横浜生まれで東京育ちだったはず。つまり生まれも育ちも都会である。都会人は、人混みの方が落ち着くのかもしれない。いや、田舎人でも、周りに誰も知り合いのいない都会の状況は、解放感に包まれると聞いたことがある。「都市の空気は自由をもたらす」ともいう。

同じく、森を歩いてリラックスしようという森林療法、森林セラピー的考え方も本当に正しいのか? 人によっては森に入るとハイテンションになるらしい。森を歩くと、血圧上がっているのかもしれない。

さらに、西粟倉村のモデルハウスのような木材ばかりが目に入る内装は、私は落ち着かなくなるのだが、むしろ落ち着きリラックスする人がいるのかもしれない。

木の家づくりで、最近のトレンドは、「顔の見える家づくりである。家を建てる際に、木の故郷である山を知り、その所有者の顔を知り、伐採から搬出、製材という過程を知って、工務店とも末永くつきあうような家づくり……これこそ、真の木の家を愛好する手段のように捉えているが、本当か?

住宅という大きな買い物には、さまざまな思いが詰め込められる。そこには個人のこだわりや好みが強く出る。そこに「顔の見える」関係は有効だろうか。

いくら伐採シーンを見ても、その山の木は気に入らないかもしれない。懇意にはしているが、その建築家の設計プランが自分には合わないかもしれない。価格も、いくら要望を汲んでくれたとしても高すぎるのは困る。見えないところは合板でいいと思うかもしれない。それらをはっきり主張して好みを追求できるのは、ビジネスライクな関係ではないのか。

顔の見える関係ゆえに、言いたいことも言えなくなる可能性は高い。いや、どうしても気に入らず断りたい場合だってあるだろうが、顔なじみゆえに難しくなる。
それなら、いっそのことハウスメーカーに注文した方が気が楽ではないか。イヤならイヤ、何社か天秤にかけて、気に入らなければズバッと切り捨てたって、所詮は営業マンとのおつきあい。末永くつきあわない方が自分の意見を貫ける。

人は自然がいっぱいの過疎地より人でごった返した都会が好きだけど、ベタベタした人間関係は求めていない。こんな根本的なことを勘違いしていたら、多くの努力は無為になる。立ち止まって、よく考えよう。無意識に建前に染まっていないか。自分の本音を自分でも気づいていないかもしれない。人の心は奥深いのだ。

ところで……猫の森には帰れないのは、故郷を捨てた人の歌なのかな?

2010/10/11

せんとくんシスターズ

今年何回目かの平城宮跡。言わずと知れた、平城遷都1300年祭のメイン会場に行ってきた。

ぶらりと散歩のつもりだったが、いやはや、午後遅くにも関わらず大変な人出。あの広い会場が混雑しているんだから凄い。想定以上に人を集めているようだ。よいき意味で当て外れの観光地になっていた。

とはいえ、あまりの人の波にのんびりムードも消えてうんざり。しかも案内がマイクでがなるから、たまらん。散歩もそこそこになったが、そのなかで一つだけ楽しかったのは、「まほろばステージ」。ここでせんとくんのダンスが見られたのだ。

しかも、彼だけではなく、せんとくんシスターズも!

せんとくんシスターズを知っているだろうか。知らないだろうなあ。実は正式に存在するのかもよくわからない。ただMCがそのように紹介したのだ。
ようはAKB48を意識したかのような女子ダンサーたちである。似たようなユニットは各地に登場しているが、ゆるキャラとの抱き合わせは珍しいんじゃないかい(^o^)。

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せんとく~ん せんとく~ん!

平城京、平城京。名前だけは知っている……

この歌詞に爆笑しかけた。まったく、名前だけは誰もが知っているが、中身はよく知らない名所なのだ。そして

せんとくんなら知っている♪

と来る。結構、私のツボにはまった。

ちなみに、このシスターズ、人数は総勢何人いるかよくわからない。が、超穴場、超マニアックなアイドルとして流行ってくれないかな。1300年祭は、あと1ヶ月切ったが、頑張って楽しもう。

見たい人は、こちらへ。せんとくんシスターズは名乗っていないが、バックダンサーとして踊っている。ああ、もちろんせんとくんのダンスも笑える、いや楽しめるよ。

http://www.1300.jp/sentokun_os/dance/index.html

深夜の焚き火

深夜の焚き火

深夜、庭のデッキに出て、ビールを飲む。

ふと思い付いて、焚き火を始めてしまった(*^^*)。
燃やすのは使用済みの割り箸。小さな小さな焚き火だ。

考えてみれば、夜は住宅街の焚き火に適している。煙は見えないし、閉めきっているから、臭いもわからない。飛び火はすぐわかる。
かくして深夜の小さな焚き火は、無事終了。美味しくビールもいただきました。

2010/10/09

森林率のU字仮設

中国の人工植林面積が6200万ヘクタールとなり、世界第1位になったそうだ。森林率も、20,36%になったという。これは驚異的な数字だ。戦後すぐの中国の森林率は、10%を切っていた。たしか8~9%だったと記憶している。

もっとも、中国の統計が信用ならないことはいうまでもない(笑)。

中国の植林事情に詳しい人に、「植えたうちの何割が育っているか」と問うたところ、6割いかないだろうと推測していた。植えた面積が必ずしも森林化しているとは限らないのだ。

ちょうど先日、イギリスの森林率が13%に達したことが伝えられていた。イギリスは、産業革命以降、森林伐採が続き、森林率は3%まで落ち込んだ。それを200年以上かけて、ようやく10%嵩上げしたのである。

とはいえ、中国も確実に森林面積を増やしたことは間違いない。

実は、文明が進むと森林は減少するということは歴史的に知られている。だが、ある程度の文明化を達成したところで、森林率は反転する。(20世紀以降) 国家体制の安定と経済発展が植林を始めるきっかけになるという。

その最大の実例が日本だ。明治時代に1700万ヘクタールだった森林は、現在2500万ヘクタールに増えている。国土面積の変遷があるので厳密な数字は出せないが、森林率を20%前後上げたことになる。

ほかにもヨーロッパの国々もイギリスだけでなく、軒並み森林率が回復している。アメリカは完全に回復までいかず、微減が続いているが、それまでの急激の減少にストップはかかったことになっている。

これを森林率のU字仮設というのだそうだ。

まあ、その理論の中では、ようや中国は文明国の仲間入り(^o^)。

ただ、日本の森林面積は、本当に増えているのか。森林扱いしているところも、実は伐採跡地だったところも増えているから、もしかしたら字(小文字)を描き出しているんじゃないか。

2010/10/08

10月8日は

10月8日は
今日は10月8日。姫路の異業種交流会に招かれた。

そこで会長のあいさつは、「今日は何の日か知っていますか?」
「今日は10月8日、十と八で木の日です」

やられた〜。私が言わなくちゃいけないネタだった。次に使えるのは、来年かあ…。

2010/10/07

林業は幸福な産業

私の周りで、別業界で大きく成功した人が、次は林業に参入したいと言って相談に来られるケースが少なくない。

若くしてITビジネスを立ち上げ、20代で売上数十億円を達成した人。
名前を出せば誰もが知っている売れ筋の食品開発に辣腕を振るった人。
そして音楽業界でヒット作を連発し、アイドルを育てた人。
ほかにも様々な人々が、林業に興味を持ち、何かできることはないかと考え始めた。学生も女子も、実家が林業営んでいるわけでもないのに、みんな関心を持ち続ける。

なぜ、林業なのか。

話を聞いていると今の世界でも、それなりに成功は続ける自信はあるらしい。しかし、面白くない。儲けなくてもいいから、ワクワクする世界で仕事をしたい。そんな気持ちが育った時、そこにあったのが林業なのだ。メールを寄せる学生なども、現在の経済社会に入るよりも、山の生活に関心を持っている。

何も、林業を俺の力でブレイクさせて見せる、と力んでいるわけではない。多少は自負するところもあるだろうが、儲けるビジネスとして見ていない。面白い世界だと捉えているのだ。

彼らだけでなく、たとえば森林関係のシンポジウムが各地で開かれているが、それに参加して思うのは、その賑わいだ。なかでももっとも賑わうのは、東京である。しかし参加者のほとんどは、林業に縁遠い人々である。それなのに森林や林業に関心を持っている、なかには森林ボランティアとして参加したがる。

こんなに多くの人々が心配してくれる産業は、ほかにあっただろうか。

これまで衰退する産業で、無関係の一般市民が支援の声を上げる業界はあったろうか。
たとえば養蚕業は、戦前は日本の基幹産業として盛り上がったが、戦後になると急速に縮小して、今や風前の灯火だ。しかし、当時、養蚕に関わることのない市民が養蚕のためにと立ち上がることはなかった。養蚕を守れ、と市民向けシンポジウムも開かれなかったし、ボランティアで手伝うこともない。市民は消費者として、輸入物の絹で満足したのである。
同じく、鉄鋼や造船が斜陽になっても、業界関係者以外は興味なかっただろう。

そう考えると、林業には政府がどかすか補助金を注ぎ込んでくれるし、市民は森林環境税みたいな金とられても文句言わないし、それどころか手弁当で手伝いたがる。こんな恵まれた環境にある産業がほかにあるだろうか。

林業ほど、幸福な産業はないかもしれない

2010/10/06

美林基準とハビタット認証

先に、健全森林率だとか、世界美林遺産なんて基準で森林を評価することを提案?したが、それに近いものがすでにあることを知った。しかも、ちょうど先月、認証を受けた森林が発表されていたのである。

財団法人日本生態系協会のハビタット評価認証(JHEP認証)である。これは、生物多様性の保全や回復に資する取り組みを定量的に評価、認証する制度なんだそう。生物多様性の価値を、客観的に数値化して評価しようという発想だ。ただし、主に企業対象で、しかも森林だけに特化したものではない。

ともあれ、三井物産(株)社有林(京都の清滝山林)が、日本の森林では初めてこのJHEP認証(AA+)を取得したという。

審査の内容は、「基準年(土地取得年あるいは申請年の30年前)以前」と「基準年から50年間」における生物多様性の状況を定量評価し、比較することにより、事業者における生物多様性の保全や改善への貢献を科学的に証明する、とある。

そして今から30年前と比較し、森林の量・質を過去よりも減らすことなく、可能な限り向上させる(森林管理が行われていることが必要。

もっとも、これはあくまで認証。定量的に健全な森林がどれだけどこにあるかを調べるものではないし、また広く日本全体の森林から美林を選び出すものでもない。あくまで取得しようという意志のある対象(森林)が審査を受けるものだ。

しかも気になるのは、清滝山林は、人工林を天然林に移行させていることが評価されたという文言がある点だ。ようするに人工林を多様性に劣るとしているのだ。この点は、根本的に発想が違う。私の考える健全な森林、生物多様性のある森林の意図とは、あくまで人が手をかけることによる健全性を評価するのだから。

やっぱり基準には、森林美学を使わないと(^o^)。

それにしても、主催が財団法人とはいえ、やっぱり認定ビジネスの臭いがプンプンするな(^^;)。この財団、ほかにもビオトープ管理士とかこども環境管理士なんて試験やってるもんなあ。

2010/10/05

ジオパーク認定より美林認定を

全国的にはどれほど注目されているのか知らないが、山陰海岸が世界ジオパークに認定されたことがニュースになっている。

ジオパークとは、地球活動の遺産を主な見所とする自然の中の公園と定義づけられている。2004年にユネスコの支援により設立された世界ジオパークネットワークが認定するものだ。ただし、これに加盟しているのは世界21カ国66地域だけ。また世界ジオパークとは別に、日本ジオパークもある。

これまで日本にある 世界ジオパークは、昨年認定された洞爺湖有珠山糸魚川島原半島の3地域がある。

また日本ジオパークは、日本ジオパーク委員会が認定するもので、2010年4月現在で、アポイ岳、洞爺湖有珠山、糸魚川、恐竜渓谷ふくい勝山、南アルプス(中央構造線エリア)、山陰海岸、隠岐、室戸、島原半島、阿蘇、天草御所浦の11地域。

つまり山陰海岸も、正確に言えば、すでに日本ジオパークだったが、このほど世界ジオパークの認定を受けたというわけだ。

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この写真は、都市緑化ならフェアに出展されていた山陰海岸ジオパークの展示。砂の彫刻から玄武洞の柱状節理の岩まで展示されていた。この出展時は、まだ日本認定だけだったのが、世界認定になればかなり賑わうのではないかな。

ジオパークへの認定条件は、いろいろな項目が定められている。地史や地質現象がよくわかる地質遺産を含むほか、考古学や生態学、文化的な価値のあるもので、しっかりした運営組織と運営が行われていて、教育・普及活動を行っているものだそうだ。

私は、こうした地質を見るのは好きな方だから、ジオパークという発想自体は歓迎する。

しかし、ユネスコも世界遺産で味をしめたのか、認定ビジネスが得意だねえ(笑)。また日本も、こうした認定とか資格に弱い。おそらく認定されるために、相応の資金を投入したのだろうし、また認定されたら観光客が増えるなど、採算が見込めるのだろう。

どうせなら、林業地域でも考えてはどうか。

世界美林遺産みたいなのを。もちろん人工林対象である。人が作った美しい森を認定することで、林業イメージをよくするのである。おそらく昔から人工林を育ててきたのは、欧米のほかは日本くらいだろう。否応なく日本で選定は数多いはずだ。
いやその前に日本版として、日本美林遺産とか美林一〇〇選も選んでもいいかもしれない。

いずれにしろ、人の手によって美しい森を作ることが、生物多様性にもよいとか、収穫量も増えるなどの理論を引き出して、森林美学を復活させる(笑)。

ああ、こんな提案が採用されると、また林野庁の仕事を増やしてしまう。ダミーのNPOが増えてしまう(^o^)。

2010/10/04

木材自給率と食料自給率

2020年に木材自給率を50%……これは、まだ民主党マニフェストから下ろしていないから、一応「公約」だろう。

ふと気づいたのは、同じく民主党は、2009年に「10年後に食料自給率50%を掲げていること。こちらもマニフェストから下ろしていないはずだが……。

木材自給率を50%にすることは無理があることは以前も記したが、食料自給率に関してはほとんど心配していない。いや、達成できるという意味ではなく、別に増やさなくて今のままでいいんじゃない? と思うからだ。

だって、食料自給率という場合は、人の摂取カロリーで計算しており、生産量カロリーとは別だからだ。実は生産量はもっと多い。私は、生産された食料の半分近くが廃棄されていることを聞いて仰天したことがある。

農家はかなりの作物を捨てている。規格外だったり、未成熟・あるいは過熟品は出荷しない。さらに出荷後も痛んだり売れ残ると捨てられる。売れたものや、加工の途中でも廃棄される分は出るし、完成した食品も残飯や売れ残りはゴミ扱いだ。素材を扱うスーパーマーケットでも捨てるし、レストランやコンビニの弁当なども半分は捨てられている。そして自家でも食べ残しは出る。冷蔵庫に入れたまま腐らせて捨てた経験はたいていあるだろう。

また自家消費に回す生産物は、生産量に入れられていない。農家には「おすそ分け」という名の消費もあるが、これもカウントされないはずだ。おそらく生産量の3割以上は、そうした見えない消費に回っている。

というわけで、生産したうちの半分が食べられていないのだから、もし食料危機が来て、食料輸入がストップしても、廃棄分を食べたらいいだけのこと。すると単純に2倍以上自給できるから、食料自給率は8割を越える。
さらに休耕田の再開墾などで増産も行われるだろうし、ほとんどの人が飽食をセーブするだろう。つまり、日本人が飢える心配はないのだ。(そもそも食料輸入がストップした時点で、食料自給率は100%になるのだが。)

だいたいカロリーベースの食料自給率なんて、馬鹿げている。和牛食っても、牛の飼料が輸入品だったら自給率に貢献しないことになる。

……というようなことを考えていたら、木材自給率なんてのも馬鹿げているように思えてきた。単に外材の輸入量を減らせば、自給率は上がるのだから。その外材の代わりに国産材を使うという当てはない。外材使った木の家を止めて、鉄骨の家が増える可能性はかなりあるだろう。コンクリートや鉄骨の家や建物が増えれば増えるほど、みかけの木材自給率は上がる

現在推進されている低層公共建築物の木造化も、下手すると外材の使用が増えて自給率を下げかねない。無理に国産材を使おうとすると不具合が出るので、高層化して鉄筋コンクリート製を望むことも起こりうる。

仮に外材が国産材に置き換わっても、おかげで禿山が増えるのでは本末転倒。いっそのこと、健全森林率とでもいう物差しをつくってはどうだろうか。ちゃんと動植物が育ち、生物多様性が維持されている森林は、全体の何%あるかを調査するのである。再造林や間伐が行われていない人工林は健全ではないし、暗い雑木林も失格。その割合の増減を毎年発表して、一喜一憂する。

こんなこというと、よし、それをやりましょう! と基準づくりに全国の森林調査という名の無駄な仕事を作って税金むさぼる林野官僚が出てきそうだな(笑)。

2010/10/03

園芸資材~緑化フェアにて

奈良県の馬見丘陵公園で開かれている、第27回全国都市緑化ならフェア

今日は、ここに1日いた。目的は、チェンソーアートのコンペなのだが、やはりフェアも見ておかねば。

というわけで、駆け足で会場を歩いてみたが、さすがに数多くの花壇・庭などが出展されている。都道府県や学校、造園会社、緑化会社……なと、みんなそれなりに趣向を凝らしている。昔風の枯山水あり、日本庭園あり、イングリッシュガーデンあり。あるいは草木を使わない庭だってある。さらに屋上緑化の技術紹介に、農園と結びついていたり、野菜工場まで登場していた。

さすがに庭づくりとなると、たいていのところで木材を多用している。やはり自然物には木材は相性がいいのだろう。園芸は、木材の一大需要分野であることを再確認した。

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そこで目を引いたのが、こんな風景。

このコーナーでは、小径木を並べているだけ。それが妙によい景観になっている。徐々に朽ちることで、土地に栄養をもたらすし、おそらく積み上げた隙間に動植物が育つから、ビオトープ機能も持つだろう。

ただ、どこの出展がメモるのを忘れた。

何も木材を凝ったエクステリアにしなくてはもよいのだ。こうして並べておくだけで絵になる。加工が少ないから、コストも抑えられるだろう。今では建築分野では使い道のありそうにない直径数㎝の小丸太も、このように使えば、デザイン素材となるのではないか。

ちなみにチェンソーアートでは、直径40cm程度のまっすぐな吉野杉を使用。樹齢100年~120年ものである。贅沢だ(笑)。でも,黒芯だったりするんだよな。

2010/10/02

限界集落のパン屋

鳥取で訪れたのは、某限界集落。人口は50人足らず。

そこでも、いろいろな村おこしの試みをしているのだが、目についたのはパン屋だった。

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なかなか賑わっている。

訪れたのは午後遅くだったが、パンをどんどん焼いている。菓子パンなどの種類も豊富。予約注文も入っているようだ。喫茶も併設している。自家製ジュースやジャムまで売り出した。

以前の勤め先で覚えたパン焼き技術を活かして、最初はガレージでこじんまりと焼いていたようだが、だんだん評判を呼び出した。遠くからも注文が入るようになって、拡張が始まり、とうとうログハウスまで建てた。さらにジャズ喫茶を設けたことで、縁来客が居つくようになったとか。

以前、田舎のカフェが人を呼ぶ原動力になる話題を書いたことがあったが、ここもその一つだろう。喫茶と同じく、焼きたてのパンを食べる機会のなかった集落の人に喜ばれ、集客力が生まれる。

田舎だからと言って、演歌ではなく、ジャズ(^^;)。そういえば、徳島の辺鄙な港集落に作られたレストランでも、ジャズを流していた。案外、相性がいいよう。

限界集落でも、地元指向の商売が成り立つかもしれないと思わせた。

2010/10/01

木の家の新しさと伝統の智恵

今日は朝から鳥取まで出かけた。

が、なぜか岡山で寄り道(^^;)。実は、株式会社西粟倉村・森の学校に顔を出してきた。昨年取材に訪れているが、その後の進展具合をおうかがい。突然の訪問なのに、歓迎していただいたことに御礼申し上げる。

そこで見せてもらったのは、モデルハウスである。西粟倉村の木で建てる家の見本だ。昨年はまだ基礎だけだったのが、ちゃんと建っている。当たり前か。

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2棟あるのだが、木の家とは言いつつ、ちょいとテイストが違う。

あまり和風ぽくない。かといって、無理して国産材で作った洋風でもない。

とくに気に入ったのは、ここ。

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わかかるだろうか。この一隅は、角に柱がない

構法自体は、軸組構法で、しかも真壁。つまり柱や梁を見せる構法なのだが、角に柱を持ってこなかったのだ。おかげで、戸を開くと、角から庭全面が見渡せる。

何も、これが素晴らしいデザインだと言いたいのではない。デザインは好き嫌いが人によって出るもので、一概に言えない。良い悪いとは別の次元だ。

また技術的にとくに難しいわけでもないと思う。

ただ、建築家は新しいタイプの木の家に挑戦したんだなあ、と感じたのである。

どうも日本の住宅は、木の家、とくに国産材の家というと、すぐに伝統構法が持ち出される傾向がある。すると、どうしても和風になる。いくらフローリングばかりにしても、ああ和風だな、と感じる(^^;)。約束事が多すぎて、パターン化するのだろうか。

ところが施主からすると、それがイヤなのだ。はっきり言って施主は、床の間はもちろん畳の部屋もいらないという人が多い。畳が嫌いなのではなく、伝統の和風ぽくなることを敬遠するのだろう。新味を感じないのかもしれない。

そうした暗黙の?縛りを打ち破らないと、本当に国産材の木の家は普及しないのではないか、と思う。

ただし、すこし不満も。このモデルハウスは、木が多すぎる。ちょっと気張りすぎたのではないか。まあ、あくまで木でどこまで作れるかを見せるためのモデルなのだと言えばそれまでだが、あんまり木が多く目に入るのも辛いよ。

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このリビングダイニングなど、目に入る8割がた木である。これはやりすぎ(~_~;)。

通常は、木の面積は視界の半分以下にしないと。だから伝統的な和風は、壁を全面的に板を使うのではなく、腰板と塗り壁にしている。それこそ伝統的に、導き出したパターンなのだろう。

この点は、伝統構法を真似てほしいなあ。

ちなみにこのモデルハウスは、実際に泊まれるそうである。一晩過ごして、木の家の良さなり問題点なりを考えてもいいかもね。

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