枚岡神社秋郷祭
昨日に続いて、枚岡神社のお祭。
まあ、私としては、このような巫女さん、もといしめやかな神事にも興味があるのだが、やはり祭の醍醐味と言えば、賑やかな方だろう。
それには昨日紹介した屋台のお店とともに、
たとえば、こんな風。
地域(町内会)ごとに布団太鼓という神輿を持っていて、その数や豪華さ、勇壮さなどを競っている。よく見ると、緻密な彫刻が施されていたり、錦の染め物をまとっていたり。
そして14日に順次宮入する。鳥居をくぐってから幾度か行きつ戻りつしながら、本殿下に成立。午後7時ごろが最高潮の盛り上がりだ。
写真のように持ち上げて見せると拍手が起きる。
なかには子供用の小さな布団太鼓もあって、若者中心で担ぐ。担ぐのも、上に乗るのも、また太鼓をたたくのも、選ばれるのは誇りだ。
見ていて思ったのだが、このような行事があり、地域の若者が集まる機会があるのはうらやましくもある。よく見ると、茶髪もレゲエ頭も、かなりやんちゃな姿の若者もいるが、この時ばかりは場の中心だ。こうした行事に参加することで、地域に溶け込むのだ。
実は生駒山の場合、奈良側には伝統行事そのものは多くあるが、地域上げての祭は意外と少ない。そして地域性が薄れている。むしろ、枚岡神社のある大阪側の方が濃い人間関係を残している。1年を、この祭中心に動いているという人だって少なくないのだ。
おそらく大阪側は人口が多いことも影響あるように思う。奈良側は、ニュータウンこそ増えているが地域に密着した人口は少なくなっている。
そして感じたのだ。祭は、やっぱり人がいるからいい、と。
過疎化が進むと、神輿の担ぎ手がいなくて、軽トラに乗せて運んだり、観客のほとんどいない中、踊りを披露したり……と苦労している話を聞くが、そこまでして保存すべきかどうかは微妙な気持ちになる。
もちろん、続けなければ伝統も途切れ、二度と復活させられないかもしれない。長年続けていた行事が中止になったことがきっかけで、集落は崩壊を始める可能性だってある。
ただ、行事を執り行う一義的な意味が薄れたのに続けるのは苦痛だろうな。
行事を続けるか止めるか。この線引きをどこに置くかも、大きな課題になる。
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