里山シンポ~鎮守の森の変遷
先週末の30日、31日と大阪で「2010年代のための里山シンポジウム」が開かれた。シンプルな名称だが、実は研究者による学会並の内容の濃い代物。参加者も全国から集まっているらしい。そして私の知り合いも幾人かと出会った。
朝から夕まで長時間に渡って、凄く勉強になった。私は聞いているだけなのに、ヘトヘトになってしまった。興味深い点はいくつもあるが、ここではそのうちの一つを。
タイトルに付けたように、鎮守の森の歴史を地理学的に調べた発表があった。
里山は、人間が手を入れて作り出した二次的空間というのが一般的理解だが、その中でも神社の境内である鎮守の森(杜)は、神のいる場所として人が手を付けない空間とされてきた。だから、そこに広がる植生は、原植生・潜在植生が残されていると考えられるのだ。
とくに西日本なら、それは照葉樹林である。
ところが……ある時発表者が古地図を見て、鎮守の森に針葉樹林の印が描かれていることに気づく。そこで調べだしたのだが、戦前は鎮守の森でマツタケを採取して販売していたことがわかってくる。つまりマツ林だったのだ。
そして全国的にも鎮守の森は、幾度も伐採され草を刈って肥料にし、その後は植林していたことがわかってくる。
鎮守の森も、潜在植生=原生林ではなかったのだ。
なかなか面白い調査である。ホント、里山の鎮守の森幻想は崩れたのである。
では、いつから伐採が行われなくなり、原生環境に遷移していったか。照葉樹林になったのか。それは、どうやら外部から肥料が導入されて、草や落葉の堆肥づくりが行われなくなったことによると気づく。
そして、それは日露戦争後に、大陸から大量の大豆粕が輸入されたことに関係あるのではないかと推測する。南満州鉄道の主要な貨物が大豆粕で、販売肥料の首位になっていくからだ。
化学肥料が普及する前は、大豆粕肥料が非常に人気が高かったのは私も知っている。通常の堆肥より効果が大きく、散布にも手間がかからないので重宝されたのだ。しかし、その大豆粕が中国からの輸入だったとは知らなかった。
そして時期を同じくして、この頃から草山への植林が奨励され火入れがされなくなったことも、原生植生を回復させる要因になったと考えられるそうだ。
この点については、私も大いに意見がある。日露戦争後、たしかに植林が奨励されたのだ。
それは土倉庄三郎が関わっている。日露戦争では莫大な戦費と多大な人的消耗を費やしたが、その結果得られた領土や権益はわずかで(それも三国干渉で返還する)、賠償金も得られなかった。そんな戦争をするよりも、荒れ地に木を植えるべきだ。そうすれば毎年成長する木は、莫大な利益を生み出す。それは年々戦勝しているもどうぜんである……これは土倉庄三郎の年々戦勝論と呼ばれた。
そして全国を植林指導に回るのである。
なるほど、鎮守の森を始めとした潜在植生がとりもどすまでには、こうした運動や外来肥料の増加が関係していると考えられるのかもしれない。
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コメント
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私の住む久木野地区で、旧村有林に植林を始めたのは大正の始め頃と聞いています。日露戦争の終わるのが明治38年でしょうから、植林を始めた当時の村長さんが土倉氏に影響を受けていた可能性は充分にありますね。大変参考になりました。
投稿: 沢畑@林業地帯 | 2010/11/03 16:45
シンポお疲れ様でした
まあ、神社といっても十人十色、春日大社みたいな「超別格」で照葉樹林が維持された例、伊勢神宮みたいに林業?やってる例も・・・でも、大神神社なんか「山がご神体」ですけど、三輪山って針葉樹主体で、けっこうアカマツ(松食い虫で枯れましたけど)生えてた・・・ご神体の恵みを甘受していたということですかね。HPには「神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず」と書かれてますが・・・ (^^ゞ
投稿: とり | 2010/11/04 09:17
戦後の大造林はよく知られていますが、明治末から大正時代の大造林は意外と知られていません。日本の植生変化を考える際には、もう少し注目すべきだと思うのですが。
出雲大社や鎌倉大仏も過去は荒れていたそうですから、鎮守の森の扱いも、もっとよく調べる必要がありそうですね。
投稿: 田中淳夫 | 2010/11/05 00:50