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森と林業と動物の本

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2010年12月

2010/12/30

樹脂箸と紙コップ~残念な国

年の瀬も押し迫り、買い物へ近くのショッピングセンターに出かけた。

そこで昼食がわりにフードコートで注文したのが、お好み焼き。

「お箸はいりますか」と問われて、はいと応えると、出てきたのは樹脂箸であった。これは、ちょっと虚を衝かれた。ここで割り箸を持参していない。うなりつつ、席に付こうとして、水をもらおうと思うと、そこで使われているのは紙コップだった……。

なんともチグハグである。割り箸を樹脂箸に代えた理由は、少なくても表向きは割り箸は使い捨てだからもったいないとか、ゴミを増やすから、などであろう。が、そこで紙コップを使うとは……。

この1年、こうしたチグハグさを感じることが幾度もあった。

地域振興を掲げて取り組んだ事業なのに、いつしか自分たちの利益を最優先にして、同じような事業を旗揚げする動きに運営ノウハウを出し惜しんだり、異見を述べる仲間を排斥するケースがあった。

世の中に訴えたいことがあって始めたことなのに、自分が本家だという意識を振りかざし、同調して動き出した人々を押し止める(心の)小さい人にも出会った。

環境や地域を守るための活動している人が、自説の一部の間違いを指摘されると、逆ギレして環境・地域よりもプライドを守ることに熱心になる図もある。

ある目的で作り上げた印刷物を、自己満足のためにいじり回し、それでは手にとる人が減ってしまうと指摘したら「売れなくていい、読まれなくていい」とのたまう発行者もいた。

地球温暖化防止のためにバイオマスエネルギーを、と言いながら、海外から木質ペレットを輸入するエネルギー企業も増えている。

そして民主党政権も、林業再生を通して山村地域復興を掲げて森林林業再生プランを作ったが、内容は産業としての林業の活性化はめざしているものの、地域振興の視点はどこにも見当たらない。

残念な人」という言葉が少し流行ったが、その意味するところは、才能もある、努力もしている、でもどこかピントがズレていたり方向性が間違っているため報われない、それどころか周りを困らせている人のことらしい。そのような残念なことが社会に蔓延している気がする。

このままでは、日本全体が「残念な国」になるかもしれない。

来年は、もう少し物事や行動を俯瞰する視点を強めようと思う。世の中全体を見回し、時間軸で考えないと、自らの立ち位置を見失い穴に落ちてしまいかねない。
だから私も目先の林業から少し距離をおこうと思っている。さもないと、本当の「森林」を論じられない気がするからだ。それが目標。

それから、心地よくなりたくてお酒を飲んだのに、二日酔いに苦しむことのないように。

2010/12/29

地球の森林再生可能面積

CNNによると、人間の活動によって破壊された世界の森林のうち、再生が可能とみられる面積は15億ヘクタールあると、国際自然保護連合(IUCN)と世界資源研究所、米サウスダコタ大の共同チームの研究者らが報告している。

http://www.cnn.co.jp/world/30001318.html

すでに世界の森林の4分の3が破壊され、3分の1が完全に消滅してしまったが、そのうち都市や農地となっている区域を除いて再生可能な区域を調べた結果だという。
15億ヘクタールというのは、ロシアの国土とほぼ同じ面積なのだそうだ。ちなみに地球の陸上面積は、約153億ヘクタール。現在の森林面積は約40億ヘクタールである。大雑把に言って、森林面積を現在の3割増できるということになる。

ものすごい面積が再生可能だと示したことになる。これは希望を抱かせる話だろう。日本は、森林が多すぎる(~_~;)けど、減少させているところは多い。一度裸地になると、そう簡単に森林にもどらない、と脅かす輩は多いが、それを否定している。
しかも森林を成立させるには、意外と時間はかからないと私は思っている。経済的なことは抜きにして、技術的には裸地を森林にするには、数十年で可能だ。見た目だけ(地面を樹木に覆われる程度)なら10年でも森林は成立するだろう。

もっとも、考えれば当たり前かもしれない。だって、以前は森林だったということは、気象や土壌条件は樹木の生長が可能なのだから。

よく「沙漠を緑に」というが、これは間違っている。沙漠は、絶対に緑に、森にならない。だって、木が育たないほど水がないから沙漠になったのであって、そこにいくら木を植えても枯れるだけだ。(だから沙漠の沙は、水が少ないと書くのだ。)

今行われている「沙漠緑化」という言葉は、ウソである。本来は森林があったけど、人間が伐ってしまって木がなくなったから沙漠のようになっただけ。まだ降水量はあり、土質も植物の生育に適している。植えてちゃんと育てれば、また森林にもどるのだ。

いずれにしても、地球を緑化することは可能だ。

来年の国際森林年に向けて、ちょっぴり希望を持たせる情報としておこう。

2010/12/28

土倉翁の「隠居坂」

本日、来春出版予定の本の原稿を書き上げて出版社に送った。

これは、『いま里山が必要な理由』とは別の、もろガチガチの林業本。まだタイトルは付けていない。まだまだ出版までにはいくつもの工程があるので、これで完成、私の手を離れた、というものではないが、とりあえず本年までに書き上げられたのでホッと一息である。

そこで、というわけではないが、もう一つの課題である土倉庄三郎翁についてのご報告。

以前は、あれほど土倉翁について触れて、いかにも調べていますよ~書きますよ~という雰囲気を漂わせていたのに、すっかり落ち着いた(~_~;)。

まあ、次々と別の火急の仕事が入ってくるのでストップせざるを得なかった、というのが実情だが、まったく動かなかったわけではない。それなりに調査は続けている。

そこで、今年最後の土倉ネタを。

Photo

これは、川上村大滝にある坂道。

隠居坂と呼ぶそうだ。

土倉家は、現在の国道169号線沿いの大滝郵便局のあるところに屋敷を構えていたが、それとは別に大滝の高台に離邸を建てたという。そして、隠居後は、そちらに住んだとも伝えられている。

で、その本家と離邸の間を結ぶ道が、この隠居坂なのである。

年を取ってから高台に住むというのは、今のバリアフリー的発想からはおかしいのだが(^^;)、当時のお年寄りは元気に坂道を昇ったのか、それとも人力車などを使えたのか。

この道、今はコンクリート舗装されているが、当時は石畳でも敷いていたのだろうか。

庄三郎翁が病に寝込むと、この坂には、むしろが敷きつめられたという。坂道を下駄で歩くと、カラカラと音がするからだ。それが床に伏した翁にはうるさいだろうと配慮して、音のせぬようむしろを敷いたというのである。

当時、土倉家はかなりの財産を失っていたが、それでも大滝にとっては大事なお館様だったことの証かもしれない。

もう一つ、オマケ的な資料も公開しよう。

Photo_2


この写真は、土倉四郎である。

実は、土倉庄三郎の子息のうち、三郎と四郎に関しては、資料が少なく、あまり足跡がわからない。その中で、こうした写真が見つかったことは、結構貴重なのである。




2010/12/27

木馬の再現

寒い今日は、某所で木馬の再現計画。

014今日は、まだ構造や扱い方の勉強である。講師役は、40年以上前に木馬を曳いていた80歳のご老人。

それでも昔の木馬に小丸太を積んで曳き方を教わった。ブレーキのかけ方が難しいんだね。




来年には、木馬道も作る予定だ。そして、本物の丸太を積む。まあ、昔のように高さ2mくらい積み上げては、現代人には曳けないだろうけど。

しかし……木馬を再現してどうなるの? という気持ちは拭えないんだけどね(^o^)。

伝統技術? しかし、木馬が登場したのは明治になってからだし、昭和30年代には消えていった。おそらく歴史的に存在したのは50年ぐらいのことだろう。

そう考えると、現在持て囃されている林業機械なんて、そんなに長く続かないかもしれない。



2010/12/26

快食療法~足るを知る

前回はキリスト教的なことを記したから、今度は仏教的なこと。と言っても、取り上げたいのは「中庸の精神」(^o^)。仏教というより、儒教的な中国思想かもしれない。

実は、この言葉を知ったのは、高校生時代に読んだ「失われた地平線」(ジェームズ・ヒルトン)であった。このイギリス人が書いた小説には、チベットの奥地にシャングリ・ラと呼ばれる秘境の桃源郷が登場するのだ。そこで出会ったラマ僧に諭された言葉が「中庸の精神」。実は、このラマ僧の正体こそがシャングリ・ラの秘密でもあるのだが……。

う~ん、ヨーロッパ人に東洋思想を教わるとは。

でも、それで気になって、時分なりに仏教書なども読んだわけだが、なんでも極端に走ることなく真ん中、という精神こそが人にとっても社会にとってもよいという考え方だ。

なかなか、この域に達するのは難しいかもしれない。だいたい、どこが中庸なのよ、真ん中なのよ、と思ってしまう。それを知るためには一度は極端に走らないといけないかも……。

ところで「快食療法」というのを御存じか。

「脳疲労に克つ」(横倉恒雄著)に記してあるのだが、ダイエットに関して、たっぷり、心ゆくまで食べる、快食療法を提唱しているのだ。

簡単に言えば、食べ過ぎによる肥満は、脳疲労から起こる。それは、食べすぎちゃった、と思うことが脳にストレスとなって、健康に悪く太る元、そこで思いっきり食べるとダイエットができる……という画期的な説(^o^)。

だから快食療法とは、「お腹のすいたときに食べること」「好きなものを食べること」「楽しく食べること」「心ゆくまで食べること」である。ケーキが食べたければ、満腹するまで食べる。時間も量も考えずに食べる。ただし食べてしまったという罪悪感を持たない……というところにポイントがある。

すると、ある程度までは食べ続けるし、また太るのだが、完全に脳が満足したら、ピタリと食べたくなくなるのだそうだ。ストレスを除くと、本当に身体が必要な分だけ、必要な栄養素のものを食べたくなるという。

かくしてダイエットに成功する、、、というより、理想的な健康体になるそうだ。

私は、果たして快食療法で痩せることができるかどうかはわからない。が、人間って、本当に満足すると、欲望は減るのではないかと思っている。その点で「脳疲労をしなくなれば、食べる量が落ち着く」という考え方には共感する。

まさに快食という名の極端に走ることで、中庸の在り方を知るのだろうか。

こういうのを「足るを知る」というのではないか、と思いついた。これも「中庸の精神」と同じかもしれないと。
人間の欲望は果てしないというが、実は脳が疲れているだけかもしれない。だからストップかける機能が弱っているのだ。逆に脳を休めることで、欲望を制御できるかもしれない。

では、どうやって休める?

シャングリ・ラに行くことかもね。森の奥深くの。

2010/12/24

クリスマス・イブに思う環境考古学

クリスマス・イブである。

それがどうした、と言えばそれまでだが、ふと昔を回顧する。

意外と思われるかもしれないが、私はかなり長い間キリスト教の教会に通っていた。小学生の時分から高校卒業まで。では、キリスト教徒か、と問われれば、違うと断言できる。

きっかけはボーイスカウトではあるが、それが長く続いたのは別の事情があって……それは省くが、わりとマジメに日曜日の礼拝に顔を出していたのである。

ある年のクリスマス・イブの礼拝にも参加した。ほとんどケーキやプレゼント目当てだったかもしれないが……そこで新しく洗礼を受ける儀式が続いた。私はぼお~と眺めていたのだが、いきなり牧師が私を名指しして、洗礼を受けませんか、と衆人環視の中で勧められた。人々の目が私に集まる。みんな微笑んでいる。身動きできない私。

それでも、やっとの思いで断った。いやあ、ちょっとまだ決心できませんで、と。

なぜ、洗礼をかけなかったか?

簡単である。キリスト教の教義を信じていなかったからだ。

もちろん、幼少の頃から通っていたのだから、それなりに影響は受けている。生き方の指針とか、精神的な箴言として、あるいは中近東の古代史や伝説、ヨーロッパの文化風土を知るという点で興味深かったこともある。

でも、宗教的には、どうも心身に合わなかった。

何がって? それは、私が骨の髄から多神教徒だったからだろう(⌒ー⌒)。どうしても一神教は肌に合わない。そもそも神という概念も本音では受け付けない。それは今も同じで、実は神だけでなくカリスマ的なリーダーとか絶対的指導者なども嫌いだ。

脱線するが、今の日本をリーダー不在として嘆く人は多いが、私は案外今の状態を気に入っている。リーダー不在の方が性に合うのだろう。もちろん折々に的確な指導は必要だが、それは折々に現れた人がやればよろしい(^^;)。そして、その局面が終わったら消えてほしい。

さて環境考古学という分野があって、各地の環境・風土が人間の文化や性向を作ってきたと論じられる。その論によると、キリスト教やイスラム教は、沙漠の風土がつくった宗教であり、それが教義にも色濃く出ていると見る。
逆に日本は神道のほか、仏教が宗教文化の底流だ。仏教は宗派によって多少色合いが違うが、多様性を重んじる教義であり、本来は教祖の崇拝も禁じている。これも熱帯アジアで発生したからと説明する。

私も環境考古学の考え方が好きだったのだが、これを唱える中心人物は、国際日本文化研究センター教授の安田喜憲である。このセンセイが「外資が日本の森を奪う」と号令をかけた張本人であり、無茶苦茶な理論を振りかざすので、私は環境考古学に対して、すっかり腰が引けた(^^;)。だいたい彼の主張自体が、多様性を欠いた権力好きのゴリゴリの沙漠の論理みたいに感じるのだが……。

ともあれ、神道を奉る人や仏教徒が、ヘーキでキリスト教行事であるクリスマスを楽しむ日本は好きである(^o^)。

2010/12/23

時計型ストーブ、ゲット!

かつて生駒山で行っていた焚火が、クレームによりできなくなったことは、本ブログでも書いた。

しかし、せっかくの冬なのに焚火ができないのは悲しい。そこで薪ストーブを設置することを考えていた。あくまでストーブだ、と言い切ることでクレームに対抗する(笑)。

とはいえ、本格的なストーブなら何十万円もするが、そんなものを購入もできなければ野外に設置できるわけない。

それで目をつけたのが、時計型薪ストーブ。わずか数千円の鉄板製のストーブだ。もちろん長持ちしないが、これなら野外設置に向いている。薄いから、火の立ち上がりも消火・鎮熱も早い。それでいて、煮炊きもできるし、何より炎が見える。趣味の薪ストーブではなく、北国ではフツーにある実用品である。

ただ、生駒のホームセンターでは売っていなかった。そこで、吉野か、もっと寒い田舎に行った際に調達するか、それともネット購入か……と考えていた。

ところが、今日。

ふらりと散歩のついでに寄ったリサイクルマーケット。いわゆる古道具屋の前に、このストーブが置かれているではないか!

003

よくよく見ると、やはり中古で少し錆も浮いている。だが、とくに欠陥はなさそうだ。あえて言えば煙突がついていないことくらい。

持ってみると、その軽さにびっくり。ホント、ペラペラの鉄板だ。
持ち運びにいいのは歓迎である。

よし、これいくらだ?

ところが、店のにいちゃん、値付けをしていなかった(^^;)。

そもそも「時計型ストーブ」という呼び名も知らなかった。どんな経緯で引き取ったか知らないが、売れると思わなかったようだ。なんでも、これまでも野外に置かれていたらしい。

それで私が新品の価格を教えて、1000円ということで手を打った。500円でもよかったかもしれんが、あまり値引いても後味が悪くなってはいかんだろう。

近く、煙突だけ買いに行こう。そして庭で点火実験をしてみる。そのうえで、山に設置することを考えるつもりだ。ちょっぴりワクワク。

2010/12/22

森づくりは芸術か?

以前、もっとも高度な芸術は何か、というドーデモよいことを考えたことがある。

絶対に答は出ないし、また好き勝手な思い入れも入る、異論反論が続出する命題である。

が、あえて考える。

たとえば音楽と絵画を比べる。これは聴覚と視覚の芸術だが、視覚の方が情報量が多いから上とする。(ほらほら、早くも反論したい人、多いでしょ。)

では絵画と彫刻は。彫刻の方が立体的だから上だ。(おいおい、というツッコミあり。)

彫刻と演劇は? う~ん、演劇の方が動くのだから上。(またブツクサいう人、いるでしょ。)

演劇と映画は? 生の方が訴えるものがありそうだけど、映画は、音楽や肉眼にはない視覚効果も加えられる要素が多い。舞台だけの演劇よりシチュエーションも広くなる。

やっぱり、実物が動く演劇にする(^o^)。  ←文句いうな。

……という風に考えていくと、建築という分野に行き着く。これは立体的であり、視覚要素も聴覚、触覚、とみんな入るのではないか? その中には住んだり活動する人も含まれるのだ。そこに機能美も生まれるだろう。

では、建築こそが、総合芸術としてもっとも高度なのか。それも発展すると、土木の方が壮大 な芸術かもしれない。巨大なモニュメントとしてのダムとか。海を干上がらせる干拓とか。沙漠緑化も。自然界に人類の力を刻んでみせるのだ。(ほれほれ。カッカ頭に血を昇らせた人もいるかな。(⌒ー⌒)

だったら、森づくりはどうだろう。自然界を取り込んだ芸術である。景観の創造である。
しかも完成まで時間がかかる。いや、いつが完成かわからない。
時として人間の意図を超越した発展を遂げる。ときに期待を裏切る。しかもデカい。視覚も聴覚も嗅覚も触覚も、味覚さえ含むぞ。もしかしてパワースポットとかの第六感だって含んでしまうかもしれない。

ま、ここで天然林と人工林のどちらが芸術なんだ、とかまたイチャモン付ける人もいるだろうが、人工林を芸術とするなら「林業芸術論」が成り立つかもしれない。なんだか実際に明治の頃、論争があったらしいけど。

いっそのこと、森林だけでなく多様な景観、多様な生態系そのものを取り込んだ「里山」こそ、芸術だあ~! と叫んでしまうのもいいかもしれない。すると、まちづくりまでが芸術になってしまう。

が、意図的でないものまで芸術にしてしまうと、最後は宇宙まで行ってしまうから、これくらいにしよう。

森林の美的価値を論じるなら、ここまで行ってしまわないかね。

2010/12/21

『いま里山は……』

先日の朝日新聞土曜版によると、環境省は里山の定義をしているそうだ。

「集落を取り巻く農地、ため池、二次林と人工林、草原などで構成される地域で、自然性の高い奥山地域と人間活動が集中する都市地域との中間に位置する」

そして①農耕地、②人手の加わった二次草原、③二次林、のうち二つ以上の要素を持っていて、それらの合計が面積野半分以上を締める場所……を里山と呼ぶらしい。

しかも里山は山だけでないことから「里地里山」と表記する(国際会議ではSATOYAMA)と決めている。

知らなかったなあ~。

でも、私が定義づけた里山と、ほぼ同じだ。里山は山の部分だけでなく、農地やため池、小川、草原、そして建物のある集落まで含んだ概念と私はしているからだ。

というわけで(何が?)、手元に『いま里山が必要な理由』が届いた。

Photo




「理由」は、「わけ」と読んでくれ。

写真は、生駒山の一角の空撮である。




特徴は……帯が異常に太い(~_~;)。

この本は、8年前に出版した新書判の『里山再生』を元に作り直した単行本である。改定を機に新書から単行本に移るなんて、あんまりないケースだと思うのだが。

まだ見本刷りなので、書店に並ぶのは、おそらく来年になるだろうということだが、まずはご報告。内容については、また改めて。

2010/12/20

こんな山主

今夜も飲み会……。連日だけにバテ気味。しかも仕事も詰まっているというのに……。

今夜は、林業について聞きたいという某山主が相手であった。初対面だが、強引に今夜を設定されていかざるを得なかった。

とにかく親か亡くなって相続した山が故郷にあるそうだ。それをどうすればよいか……?というのが相談の趣旨。

「どの程度の面積があるんですか」

「いや、それがわからない」

「大雑把で結構ですが」

「いやあ、それが……5、6町歩かな」

ずっこける。この程度の面積で林業を行うのは無理である。

「でも、間伐しろと地元から言われたから依頼したら、100万円ほどかかった」

それなら、5,6町歩ではないだろう。それともボられたか?

「30年生のヒノキがこれぐらい育っていて」と広げる手は、直径3,40㎝を示している。ヒノキが30年でそんなに生長しませんぜ。

故郷の山を気にかけつつ、実はまったくというほど知識はない。というわけで、林業の話をするレベルに達していないのであった(笑)。

とはいえ、境界線はちゃんと確定させているそうだし、名義変更もしっかりやっている。間伐したのというのだから、それなりに手入れも地元にやってもらっているのだろう。

「いっそ、売ったらどうですか」

「買い手がいるの? 金になるかね」

「大丈夫です。山林を欲しがっている人はわりと多いですよ。私に任せていただいたら、ちゃんと中国人に売り飛ばしてみせます」

2010/12/19

現在・過去・未来

今年の年末は、いつもに増して忙しい、というか気ぜわしい。昨年は、20日過ぎたら仕事納めだったはずなのに……。

おかげで毎日更新を掲げている本ブログも途切れがちだが、せっかくだから「自分は何を(仕事で)しているのか」、この1年を振り返るという意味もこめて分析してみた。

すると林業の現在と過去と未来が入り交じっていることに気づいた。

まず、来年早々2冊の本を出版する。

すでに入稿済で、年末にも見本が刷り上がるのは、里山の本。これは、正確には8年前に出版した『里山再生』の増補改訂版である。以前の内容を今に合うよう全面的に見直して、その上で増補記事を付け足し、また前書き・後書きを書き足した。
この秋に急に決定した出版なので、11月は目の回る忙しさになった。ほとんど休みなし。

タイトルは……まだ隠しておこう(^^;)。

この本と、同時並行的に手がけていたもう1冊は、林業の現在を描いたもの。春から進めていたが、なかなか難行した。激動の林業! を描くはずが、なんか暗い現実に包まれたかもしれない……。でも、官政権成立や、森林林業再生プランまで、世間が林業に目を向いている今だからこそ、出したい。
内容としては、今、日本の山に何が起きているかをルポするとともに、その意味を考える。これが悩ましい。日々意見が変わる(^^;)。資料を漁って新しい情報を得るたびに、別の考えが浮かぶ。まだ完成していない(^^;)。やばい。締め切りをすぎているぞ。

一方で、産業的には日本最古の林業地帯とでも言える山国林業を追いかけている。これも、意外と資料がなく、また地味なせいで困っているが、古い林業に目を向ける機会にはなる。木馬や筏流しの再現なども行う予定なのだ。が、古き良き林業、なんてのは私の好みではないので、これに現代林業とつなげることを策動中。1000年前の林業にハーベスタを紹介しろ、と言っているのだけど。
ただ、担当者と本づくりの認識が大きくズレているので、やりにくい……。一時はちゃぶ台ひっくり返して投げ出そうかと思ったよ。

そして、未来の林業づくりに関わるプロジェクトも動き出している。文句垂れていても仕方ねえ、新たな林業を提言しなくちゃ、というわけだ。こちらも、いろいろ声をかけていただいているので、来年に向けて大きく動き出す。そのための準備を今進めている。

多分、来年はこちらの分野がかなり忙しくなるだろう。

というわけで、物理的に忙しいのに加えて、精神的にも過去に行ったり未来に飛んだり、現代を分析したりで、混乱状態。たまに混ざって、今やっているのは過去?現在?それとも未来?と焦る(^^;)。

以上、ブログ更新が滞りがちな言い訳でした。

2010/12/17

農地は余っている、林地は?

先進国が途上国の農地を買いあさっている……そんなニュースがよく紙面を飾っている。その対策会議も開かれているようだ。

だが、どうも違和感がある。なぜ、先進国が自国以外まで農地を求めなくてはならないのだ? 食料危機に供えているとも言われるが……。

実は、世界の農地は余っている、という説がある。世界に今ある農地は約15億ヘクタールだが、そのうち休耕地が3億ヘクタールだというのだ。日本の休耕地は約40万ヘクタールだから、その750倍の農地が耕作されずに打ち捨てられているらしい。

その休耕地は先進国も途上国にもある。その原因は、農産物が余っているから。だから耕作の不利な農地は捨てられるのだ。

なお、穀物生産量は22億トン。ところが、食用は半分にすぎない。つまり残りは飼料用だ。本当に食料危機なら、これらを人間に回せば済む。
それどころか耕地の6割で穀物を生産すれば、60億トンは可能とされている。すると人間も家畜も飢えることはない計算になる。

結局、現在の農地の奪い合いは、「条件のよい農地」を奪い合っているだけにすぎない。
それは食料を投資商品と考えるから、コストと引き合う農地を求めるのだ。食べるものを得る場として自分に引きつけて考えると、儲からなくても自分の農地は耕す。そこで幾ばくかの食料を生産する。

さて、外資が日本の森を買いあさっている、と騒ぐなら、日本に必要な森林面積はどれくらいかも計算した上で問題の要点を示してほしい。そして木材生産の観点から、森林はどれほど必要なのか計算されているのだろうか。
森林は、本当に減っているのか。本当に危機的に減少しているのか私は疑っている。日本の場合は蓄積が増えているし、世界的にも言われているほど日々森林が消えているのか妖しく思う。

木材は食料ほど明確な使い道を示せないから、樹種や生長量、製材歩留り、廃材商品化など不確定な要素はあるが、ちゃんと出して、木材生産林は足りている、あるいは確実に足りず、原生林という貯金を下ろしているのか。将来、木材不足になるのだろうか。数字で示してほしい。さもないと木材自給率の意味もはっきりしなくなる。

もちろん森林全体となると、生物多様性やら森林保養やら景観やら、さまざまな利用が見込めるから、地球上に必要な森林面積を出すのは難しいが、少なくても人工林面積ぐらいは導いておいてほしい。そのうえで人類の木材利用可能量を割り出し、世界の林業の在り方を示してはどうだろうか。

2010/12/15

クニマスと諫早湾で「時間」を考えた

今日は、大きなニュースが二つ。

一つは絶滅したはずのクニマスが西湖で発見されたこと。これは、70年前に移入したクニマスの子孫らしいが、本家(田沢湖)で滅んだ種が人為的に持ち込んだ場所で生き延びていたわけである。

本家が滅んだのも人為的な工事のためだが、今回命脈を保てたのは、生物の移植という人為が種を救ったことになるか。西湖に運び込まれた当時は、クニマスも西湖の生態系の中では移入種であり、忌むべきことだったのかもしれないが……。

しかし、70年間分家(西湖)で血統を守ってきたクニマスは、もはや西湖の種だろう。西湖の生態系に馴染んでいるはずである。

実は、同じような例はほかにもある。

たとえば淡水魚ニッポンバラタナゴは、野生の純血種が絶滅寸前で、大阪の八尾市のある池にしか生息しないというが、実は生駒山の溜め池や、奈良公園の池にもいる。あきらかに人が持ち込んだらしい。池だって人工的に作った溜め池にひっそりと命脈を保っている。一部はタイリクバラタナゴと交雑しているというが、純血種も見つかっている。

時間が人為を自然に変えた、馴染ませたような気がする。

もう一つのニュースが、諫早湾の干拓地の排水門の開門が決まったこと。

私も諫早湾のギロチンが下りてから現地を訪ねたことがあり、干拓地を長靴で歩いた。水門を締め切ってから何カ月かたってからだったが、干潟は干上がり固まりつつあった。それにしても歩いても歩いても、泥の海。広いなあ~というのが印象だった。

当時の官直人議員が、民主党が政権取ったらすぐ門を開けるというのを聞いていたが、政権奪取後1年遅れくらいでようやく開門が決定したことになる。実際に開けるまではあと1年以上かかるらしいが。

私は、基本的に開門に賛成だが、締め切ってから10年以上立つだけに、開門したからと言って以前の海の生態系が取り戻せるとは思えない。むしろ、汚れた淡水が海に流れ出すことで、海の生態系も攪乱かねない。それが、逆に魚介類に被害を与える可能性だってある。
干拓池にも、おそらく新たな生態系が成り立っているだろう。開門は、それを破壊することでもある。

北海道の標津川では、何十年も前に湾曲した川筋を直線化した工事が行われた。そのため人工的な三日月湖がたくさんできているが、そこに珍しい陸封型イトヨが見つかっている。回遊魚であるイトヨが狭い三日月湖に閉じこめられたことで、形態が変わってしまったのだ。川を再び屈曲させる工事を行う際に、三日月湖をつないで川筋にしてしまうと、陸封型は滅ぶことが心配されていた。

ここでも、時間が人為を変えて新しい自然を作っている

そんなことを考えているうちに、野生だ人工だと区別するのが馬鹿馬鹿しくなるのである。

2010/12/14

ゼロエミッションの林業

昨日の京都の老林業家の取材話の続き。

御大が林業を営んだのは、戦後すぐ(家は代々林業を行ってきた)から、最後の植林が1990年代だったそうだ。とはいえ、最後は崩壊地への植えつけだから、正確には林業と言えないかもしれない。

いずれにしろ、もっともよかったのは昭和40年代~50年代。

木の苗を植えるために雑木を伐ったが、それらはみんな薪として売る。

伐採は正面積皆伐だったらしく、いろいろな太さの木が出る。それを全部売ったという。それこそ直径数㎝のものは杭に、少し太くなったらまずは稲木。これは6尺ほどの長さで先を尖らして売る。次は20尺ほどの長さを保って足場丸太に。枝葉など柴も、近隣の寒天農家に燃料として売った。ときには太いスギ丸太の皮を剥いて売り物にしたし、炭焼きもした。

みんな、向こうから買いに来た。山のものは何でも商品になった。

そして太い木は、高く売れる木材市場を求めて、自分で荷車に乗せて運んで行った。三重の松阪や鈴鹿まで行ったこともある。

一方で田んぼで米や麦を作ったし、山菜採りも行く。松林ではマツタケを取って売った。昔はクリ林もあり、クリも収穫して食べたし売り物にもする。たいていのものは自分で作った。

田んぼ仕事は草刈りが大変。その点、山の草刈りの方が楽だったから、田畑を手伝わないで山に逃げていた。

若いころから家で働いていたので、年金は払っていなかった。でも、山の木を育てたら、自分が老年の頃には金になる。だから山が年金だと思っていた……。

それが、今や金にならない。将来受け取るつもりでしんどい目をして働いたのに、年金をもらえない、と繰り言になるのだが(~_~;)、ともかく山は財産であった。

太った木を見ると、よく育った、とお金になる可愛い娘のような気持ちでなでていた。

ここで私が注目したのは、捨てるところがない山の産物、という点である。

当時は切り捨て間伐など考えられなかったのだ。雑木も、細い木も、柴だって商品になったのである。ここは、私が以前から唱えていた無駄なく商品化する林業論の大きな実証になる。林業に限らず、いかなる製造業も無駄に捨てる部分が多いものは利益率が低くなり、やがて壁にぶつかる。廃棄物なし(ゼロ・エミッション)こそ、優れた産業だと思うのだ。

もっと「商品としての林産物」に目をむけるべきである。たくさんの生産物の中から、もっとも優秀な部分(売れ筋)だけを選んで、残りを捨ててしまうようでは環境的にも経営的にもおかしいのだ。

006

干し柿も手づくり。柿の向こうの山も手づくり。

ただし、ここで商品化するのは、山の仕事ではなく、街の仕事だろう。街で商品需要を見つけ、生産を山に求めるようにしないと、林業家に過重な負担となる。一方で林業家自らも価格を上げる努力もしないといけない。そのためには自分で売りに行く必要もある。
このシステムを復活しないと、選ぶ道のない一方通行の一本道林業になってしまう。

2010/12/13

自宅を自前の木で建てる

今日は、京都府下の某林業家を訪ねた。

御年、82歳の老林業家である。彼は、学校を出てからずっと家業である林業に携わってきたという。戦後最初に始めたのは植林。来る日も来る日も木を植え続け、夏は下刈りに汗をかき、やがて伐採も始めた。

「先祖が植えた木を伐って、その代わりに木を植え続けた。しかし私が植えた木は、まだ伐採していない」

「ずっとしんどい仕事ばかりやってきた」と何度も繰り返し、苦労したのに今や木は伐っても満足な価格では売れないため、放置せざるを得ないと嘆く。

ところが、話の中で、今の家は、自分の山から伐りだした木で建てた話になった。いい木があると、それは売らずに残したという。

「山にいいヒノキが2本並んで生えていたので、これを大黒柱と小黒柱にしようと決めて伐りだしたんだ」

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これが、大黒柱。一辺30㎝を越す。おそらく丸太では、直径50㎝くらいはあったのだろう。

小黒柱は、奥の台所にある。こちらは多少細いが、それでも一辺20㎝は優に越す。

自分の家になっている木材が、山に立っていた姿を知っているなんて、すごい贅沢なことだ。

コツコツ木を集めて、1年以上かけて建てたのだという。2階建てで離れもあるから、使用した木材の量もかなりのものだろう。

「全部、自分の山の木で家を建てた。スギとヒノキとマツ全部使ったな」

そういうので、私も部屋を見回した。ものすごく立派な鴨居がかかっていた。曲線を描いた木目が素晴らしい。

「こんな木もあったんですか!」と私。

「ああ、これは屋久杉だ(笑)」

ちゃんちゃん。

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2010/12/12

奈良県庁の食堂で割り箸を

奈良県版のニュースかと思っていたら、ネットには掲載されたみたい。

http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201012100112.html

そう、奈良県庁の食堂に、吉野産の割り箸が使われるようになったのだ。

以前から腹立たしかったのは、奈良県庁の食堂では、樹脂箸が使われていたこと。割り箸を地場産業として抱える奈良県のお膝元でそれはないだろう、と幾度も指摘していた。

それが先月から吉野のヒノキ割り箸に変わったという。

記事によると、さいたま市の「マイ箸運動」による「割り箸一掃」作戦に対して、吉野町製箸工業共同組合が抗議文を送ったことを県の幹部が知って、採用を決めたという。

使用後は製紙会社まで送ってリサイクルまでするらしい。

ということは、本ブログでさいたま市の運動の問題を指摘して、それに呼応して埼玉大学のあさださんが動き、そして吉野の組合も抗議して……という一連の流れが多少とも影響を与えていることになる。

めでたい(^o^)。

まあ、それまで県の幹部は食堂で樹脂箸を目にしても気にしなかったのか、とツッコミを入れたいところだが、イジワルは止めよう。

ただ気になるのは、県が割り箸の使用を決めて、組合に発注したとあることだ。とすると、食堂の経営している事業体はどうなるの? 国産割り箸が割高な分、負担は負わないのか。使用量は年間で約10万膳程度だが、箸代を1膳2円として20万円を県が支出したことになるのかなあ。

ともあれ、割り箸産地を抱える県としての、最低限の面目は保てたはず。

次は、本丸、霞が関の林野庁……。

2010/12/11

「森林の時間、社会の時間」講演会

昨日、京都で「森林の時間、社会の時間」という公開講演会があった。
サブテーマは「長い時間をかけて育っていく森林と、目まぐるしく変化する社会の関係について、少し立ち止まって考えてみましょう」。

主催は、森林総合研究所関西支所。ようするに、研究発表である。その割にはオシャレなタイトルだが、内容は地味~で、会場の聴衆も少なめであった(^^;)

実は、同じ日時で大阪では「木のまち・木のいえリレーフォーラム」というのがあったのだが、なんだか押しつけがましい伝統構法だとかの木の家を売り込むフォーラムみたいな気がして、こちらを選んだ(^^;)。

だから比べたわけではないが、こちらを選んで大正解。非常に面白かった。

せっかくだから、プログラムを紹介しておこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
趣旨説明

(講演)
1.森林と施業 -80年に及ぶ人工林の長期モニタリング- 

2.森林と地域 -沖縄やんばるの森と地域の歴史的関わり-

3.森林と投資 -日本国内で見られる最近の動き-

4.森林と産業 -日本と世界の経験から考える-

質疑応答   

ここでいう「森林の時間、社会の時間」とは、4つのテーマに沿っている。

案内文によると、

「人の管理の有無(間伐・無間伐)による収穫量の違い」、
「沖縄やんばるの森でみた森林と地域との歴史的関わり」、
「木材価格の低迷から林業経営が成り立たない時代における新たな森林投資の現状」、
「近年の世界と日本の森林事情からみた森林と産業の関係変化」
の4つの視点から話題提供します。

とある。

いずれも、自然の変化と人間の社会活動両者の時間の尺度の違いがもたらす齟齬が隠れたテーマになっているように思えた。この問題意識は、まさに私が今抱えているものなんだよなあ。

1番目は、樹木の生長に関する時間。88年間も調査し続けてきた人工林があることが自慢だが、人間の尺度では長すぎて調査結果をすぐに反映できない。
間伐した方が林分全体の生長量が増すよ、という、ある意味当たり前の結果。でも、同一面積に育つバイオマス量は基本的に同じはずだから、結局は人間の利用する木材は、というのが前提になるのか。

2番目は、人の歴史的な時間。なぜ沖縄を舞台に? と思ったが、日本列島の縮図になっているのは面白い。もっとも森林を荒らしたのは、明治時代とのことだが、これも全国に通用するだろう。
昔は、人力ゆえに守られた奥山が戦後の機械化で急速に破壊されたことになる。そして近年の「放置」によって回復してきた点などは、本土にも通じる皮肉だ。
私は国頭村やんばるには幾度か訪れて、同じような話を聞いていた。話の中に登場する人々も、知っている人のようだ。

また3番では、投資に関わる未来の時間がテーマ。3つの森林への投資例を紹介しているが、みんな知ってる(^^;)。
とくに5年間で1万ヘクタール以上の森林を取得したA社については、もっと突っ込んでほしかったよ。この会社こそ、もっとも現代の森林投資の参考になると思っている。いろいろ裏事情も聞いているからなあ。
B社は誰もが知っている自動車メーカー。経常利益の0,05%ほど使いましたとさ。
C社は投資ファントだけど、リーマンショックで原資を減らしたそうだから、そのうち破綻するんじゃないか。

ところで、AB両社の森林取得元である島津山林や諸戸林産(だったっけ)ともに明治に入って林業を始めたという。歴史的にたいした昔ではない。それを100年後に売り払ったといっても、驚くほどのことではない。だから「かつては長く所有していた森林を、現代は短期間になった」という見立ては成立しないんではないか。今も昔も、ほかの業界で稼いだ人が、山に投資する、そして転売するという構造なのだ。

ちなみに質疑の際だけど、案の定「外資が日本の森を」の件に関して、質問が出た。そこで実際に森を購入した中国人の言葉として「だって、景色がいいじゃないか」だったそうだ。これが一番、正解に近いと思うぜ。

そして4番は、グローバル化の進む世界経済に対峙する日本の林業の時間……というヨーロッパ型林業に近づこうとする現代日本の姿を描きつつも、その危なっかしさを紹介している。森林林業再生プランについての意見が聞きたかったね。はっきり「ダメでしょ!」と言わないのは、独立行政法人の限界か(笑)。

どうせ森林純収益説と土地純収益説を登場させたのだったら、恒続林思想にも触れてほしかったね(^o^)。

全体として面白かったけど、やっぱり結論はないんだな。
林業を営む根本原理までたどり着けないもどかしさがある。
コツコツ考えるしかないのか。

最後にあった
「    なぜ、人は森林を所有し続けるのか?
     なぜ、人は木を植えるのか?
               」

という命題の答がほしい。

 

2010/12/10

「ぶらタモリ」と異なる時間の街

このところ、ずっと考えているのが、社会に流れる時間の速度?の違い。

すでに林業界の改革に伴う時間差とか、「減速社会」とか「TPP」などで異なる時間の概念が物事を複雑化させていることには何度も触れてきた。

高齢化が進み減速する日本社会と、グローバル化する世界との棲み分け。あるいは木の成長する森の時間と、人間の経済活動の時間の差が生み出すひずみ。

まだまだ悩みは続きそうだが、ふとみたNHKテレビの「ぶらタモリ」。

この番組、タモリが主に東京の街をぶらつきながら探索する……という趣向(もっともNHK的仕込みは随所にあるので、ぶっつけ本番とは言えないのだが)である。

今回は、三田・麻布を探索して、大名屋敷の庭園が今に残るイタリア大使館からその周辺の庶民の街、そして向こうに広がる高層ビル街……などを歩いた。

そこで案内役となったセンセイが、「東京は、いくつもの時代が重なり、それぞれが今も残されている」というような説明をしていた。

これをヒントにできないか?

異なる時間が流れる地域をモザイク状に配置したまちづくりを行うのだ。

減速して老人でも暮らしやすい一帯と、一瞬を競う情報化社会を隣接させる。それぞれの街は、租界のように壁を作って断絶させるのではなく、人は両方を行き来できる。だが、絶対に混在させない。あくまで違う町とする。好きな方に住んで、他方に通勤するという手もある。物とシステムは相互に侵入させない。

グローバル化で安く大量に入る輸入品で暮らす街と、地産地消的なスローなモノがある街。一方ではコンビニが社会の物流を支え、その隣にはリヤカー引いた豆腐屋さんが行き交う。減速町にファーストフード店や大量販売型の電器店は開店できず、グローバル町では速度で勝負する。のんびりしたビジネスをする会社は、すぐつぶれる。

それらは税制とか地価や不動産取引の許認可で分ける。法的には、スロー特区とかファースト特区を設けることでできないか。

これは、住宅地、商業地などといった昔ながらのゾーニングとは違う。ライフスタイルで分けるのである。ただし、近接することが重要。だって、人間はときにどちらも味わいたいからだ。

……まだまだ夢想の段階である。

2010/12/08

デイケアサービスの思い出資源

先日訪れた某山村。そこに旧家を改造したデイケアサービスのNPOがある。

実は、そこで講演を頼まれた。

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その講演は、おそらく私にとって記録的であった。聴衆の年齢が。
スタッフを除くと、おそらくほぼ全員が60歳以上で、大半か70歳以上、そして最高齢は92歳だとか。

そうした相手にまちづくりを説くのは至難の業だ(笑)。

そこで「まちづくりの前に……」と題して、地域の元気とやる気を出す方法として、地元学の話をした。いかに普段の何気ない自分たちの住む家や地域や自然、歴史、文化……が資源であるか、それを発掘することで「自慢」ができ、元気をつくるか……。

「調査なら、(学者によって)すでに行われた」

という会場の反応もあったのだが、いやいや調査結果を求めるのではなく、手段なのですよ……自分たちでやる過程で自分たちに力をつけるのですよ、とまた辛抱強く説く(~_~;)。

すると、デイサービスの拠点とした古民家は、少なくても築250年は経っているそうだ。昔の村長の家で、旅籠屋や庄屋などもやっていたそうだが、5つの釜をおけるおくどさんが残るという話題が出た。これほどの規模は、そんなにないらしい。さらに、どこそこの柱には刀傷があるという。そして家の前の道は、昔の伊勢街道だという。わずか数10メートルだけ痕跡が残されている。

ほかにも、記憶の中には、いっぱいの貴重な情報が隠されていたのだ。

そこにNPOの理事長であり、デイケアサービスを始めた人が
「毎日迎えているお年寄りの皆さんは、本当に面白い昔の仕事や遊びや出来事の話を聞かせてくれるんですよ。しかも話が上手くって」

おおお、と思った。そうだ。聞き取りにいかなくても、毎日向こうからやって来る(笑)場所があった。地元学と言っても、こちらから出かけて地域を歩く方法ばかり紹介したが、向こうからネタを持ってやってきてくれるところがあるのだ。それを聞き取り記録を取れたら、どんなに貴重な情報を得られるだろう。

一人一人の思い出話は、とるにたらないことでも、数を集めたら力になる。デイケアサービスが民俗学の拠点になったり、村の情報ターミナルにある可能性だってある。

その話を聞く方は、地元学として地域を元気にするネタを集めることができる。
話す高齢者は、話を聞いてくれる人がいることで元気になれる。

デイケアサービスを通じて、すごい資源を発掘できるのではないか。

それを、思い出資源と名付けよう。

単なる感傷として昔話を収集するのではなく、学問の素材として聞き取りをするのでもなく、役立てるために。資源として。そうした情報を利用する手だてを考えられないだろうか。

お年寄りに将来の地域づくりを考えてもらうのは大変かもしれないが、お年寄りこそ地域づくりのネタの提供をしてくれる大変な資源であった。

2010/12/07

WiLL新年特大号の「外資が日本の森林を」記事

実は、月刊ウィル(WiLL)新年特大号を買って読んでいる。

実は、と付けたのは、こんなソープ・ナショナリズムの右翼雑誌読んでるの? と思われると恥ずかしいからだ(笑)。

が、この号の特集は「中国の日本侵略を許すな」なのだが、そこに3本の「外資が日本の森を買っている」関係の記事があるのだ。これを読みたくて買ったわけ。

そして、読んだ結果、なかなか面白かった、というのが感想だ。

まず有本香の「中国が北海道を買っている・全調査」という記事。
これは、なかなか掘り出し物であった。これまで出回っている「外資が日本の森を買う」という雑誌や新聞、そして書籍の記事は、どれも薄っぺらで箸にも棒にもかからなかったが、この記事は現地調査もしたうえで事実に則して論じているうえ、中国事情にも詳しい。

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たしかに森林はたくさん買われているが、木材目的でも水目的でもあり得ないことを説明している。一方で、「自衛隊基地を臨む土地」を買ったという報道に関しても、8キロほど離れていて、監視とか攻撃には向いていないことを専門家のコメントとして紹介している。
むしろリゾート目的の可能性をうかがわせる例も紹介しているが、それさえも杜撰であるという。

そして、中国人は目的に向かってしたたかで貪欲な執着性を示す一方で、信じられないほど杜撰で戦略性に欠けることを指摘した。無勝手流に、思いついたら先を考えずに手を出すのだ。そして一か八か、リスクを取りつつ狙う。成り金趣味的というか、とりあえず、唾を付けとこう的な発想だ。

今回の森林買収も、そうした動きの一端であることを感じさせた。

もっとも感心したのは、最後の締めとして指摘している点だ。

この買収騒動が、ミニバブルを作り出しかねないことである。外資の脅威にさらされている土地を、公有化するなど言い出したら、外資は、安値で買い取った森林を高値で売り抜けるだろう……という推測だ。
超安値の物件を「宝」に見立てて投機ゲームを始めているのだと見えなくもない

実は、私の想像も、ここに落ち着いているのだ。ただし、そのゲームは中国人だけでなく、自分の土地を持て余している日本人所有者まで、恩恵を及ぼす。売るに売れなかった森林を、高値で売り抜けるチャンスなのだ。ブローカーが蠢き、許認可を持つ輩が漁夫の利?を得ようとする。ババを引くのは、投機ゲームの参加者であり、最後は国や自治体かもしれない。

さて、2本目は、北海道議会議員の小野寺まさる氏の記事。彼は、北海道の森林・土地が主に中国資本に買われていることを調査して告発した人だ。まあ、危機を煽っているのは想像どおりだが、事実関係の調査した内容的には悪くない。ただ、中国人の北海道合法的入植計画?には、引いた(笑)。

そして3本目が、高市早苗自民党代議士の「日本の水源林を守る議員勉強会」を発足させ、外国人の森林取得を制限する法律案2本を国会に出している。まあ、一連のソープ・ナショナリズムにもっとも踊っている議員の一人だろう。

実は高市議員は、私の住んでいる奈良2区選出(近畿比例区)なのだが、この記事も予想外に面白かった(~_~;)。

内容は、法律案を作るまでの苦労話みたいなもので、国会で法律つくるのに、こんな手続きやら動きをするもんなんだな、という点で感心した。とくに私案を出したら、法制局に見るも無残に打ち破られて玉砕した話は面白い。一つの法律を作る場合、さまざまな角度から検討して問題がないかチェックが入るのだ。外国人というだけで土地所有制限したら、どんな事態になるか、各種の条約も絡んできて、ことによると国際問題にさえなるそうだ。

ただ面白いのは、法案づくりの過程で、日本の地籍のいい加減さや、森林所有者への新たな義務づけまで浮上させたことだ。
たとえば法案では、森林の無許可開発とか植栽命令違反の罰金などを50万円以下から100万円以下に引き上げることにしている。この点は、ぜひ実現させてほしい。いや、もっと罰則高くてもいいんじゃないか、と思う。無届け伐採も、30万円以下を50万円以下に引き上げても、効果あるのだろうか? 300万円くらいにしてほしい。

森林所有問題って、本当は外国人の購入ではなく、日本人所有者の問題なんだよ。

感想を総括すると、WiLLって、なかなかよい雑誌かも\(^o^)/であった。

2010/12/06

TPPで、林業を先進事例に

岡山の友人が大阪に来たので飲んだ。

話題に上がったのは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)。加盟している国同士は、基本的に(10年以内に)全品目の関税を撤廃しようというものだ。
もっとも反対しているのは、農水省と農業団体。一方で経産省と経済団体などは推進の立場。TPPを始めとする自由貿易関係の協定は、農業者にとって常に敵対視されている。

友人だって農業は親に任せているとはいうものの農地を持っている。だから「これが始まったら、山間部の農林業は全滅だ」という。

まてまて。私もTPPについて、さほど詳しいわけではないが、そんな単純なものか。

まず、関税に関して農業と林業はまったく違う。(漁業は、この協定に関しては農業寄りかもしれない。)

農業の中で、米は778%もの凄い関税をかけている。ただし、その代償としてミニマムアクセスとして外米の輸入もしている。

ところが農業だって、実は米以外はほとんど関税がかかっていない。野菜や花卉に、関税はない。それでも自給率は高い。国産小麦には莫大な補助が付く。そもそも国産小麦の生産量は微少である。

一方で林業だが、はっきり言ってTPPに関係ない。もともと外材に関税をかけていないからだ。何十年も前に関税を撤廃している。
わずかに合板にはかけられているが、近頃は国産合板が大いに伸びているし、価格差はたいしてない。10年間のうちに努力すれば、競争力は十分保てるだろう。

某経済評論家は、TPPに加盟すると「農業も林業のようになる」と発言
している。ようするに食料自給率が2割まで下がるというのだ。しかし、日本の木材市場を外材が席巻したのは、価格差ではないことは、常々指摘していることだ。それに自給率と日本の食料調達能力は、つながっていない。

むしろ、関税のない貿易を行っている木材は先進事例にならないか。外材を解禁した後に、どのように対応すべきだったか、詳しく当時の市場と政策を検討すれば、今後の農業の立ち回り方の参考になる気がする。つまり反面教師として林業は使えるのではないか

そして、これは林業を再生しようという、現在完成直前の「森林林業再生プラン」を考えるうえにも役立つだろう。

私が怖いと思うのは、TPPは関税撤廃ではなく、政府の調達や金融や人の移動の自由も含まれていることだ。政府調達が自由化されたら、公共事業に国産材を使いましょうね法も吹っ飛ぶだろうね。

ところで気になる点を二つ。

TPPがない今でも、日本の農業は崩壊への道を歩んでいる。
とくに山間部の水田でできる米は、ほとんど自給用である。販売に回されるのはごく一部だ。米もスーパーで買ってきた方が安いと言いつつ、棚田を耕しているのが現状だろう。
彼らは、さらにスーパーの米が安くなれば、耕作を止めるだろうか。おそらく、そんなことはない。耕作を断念するのは、後継者がいないとか、高齢で身体がきつくなったときではなかろうか。つまり、現在進行中。

とはいえ、私はこうしたグローバル化とか自由貿易体制は、正しいかどうか、ではなく、歴史の流れとして否応なく進むものと思っている。いかに裏でアメリカが陰謀を巡らせていると主張して反対しようが抵抗しようが、じりじりと進む。この流れに棹さしても、止まるまい。たまに逆流させても、すぐ元にもどる。TPPをつぶしても、また別の提案で出てくるだけだ。

まあ、この点については、もっともっと考えないといけない。

2010/12/05

都会のネオン

友あり、遠方より来る、大阪のネオン街にて会食す、また楽しからずや。

やっぱり都会の楽しさは捨てがたし。今日は此れにて。

2010/12/04

フロントガラスの紅葉

昨日の嵐から一夜明けて、今日は青空。

生駒山の紅葉も最後だ。

車から下りて、ふと振り向くと、ここにも紅葉が広がっていた。

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クリックしてね。ちょっと写真は大きめ。

2010/12/03

就森集会の会場は中学校

就森集会報告、だんだん連載化しつつある(笑)。閑話休題は、さすがに打ち止め。

この集会を開いた場所は、久木野中学校の音楽室だった。ピアノのある部屋、それも段差のある教室に音符の描かれた机とイスに座って行ったのである。なかなか風情がある。

が、この久木野中学校に、来年度はない。

Photo

学校前掲示板には、「久木野中最後の1年」とある……。

校舎の階段には、いろいろな張り物がある。なかでも胸を突かれたのは、こんな言葉。

2



昨年度は、生徒数17名。

                                                      

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生徒数は少なくても生徒会はある。生徒総会も開くそうだ。そして、

<最後の1年、
久木野に誇りをもって
有終の美を飾ろう>

ここで、休校することに月並みな感想を述べるつもりはない。全国に姿を消していく小中学校は山ほどある。それは過疎地だけでなく、都市部でも頻発している。実は、私の出身校も姿を変えている。
生徒数が少なくなれば、学校といえども維持は難しくなる。コストはかかるし、少なすぎることで教育環境も悪化する。だから、ある程度統合はやむを得ないというか必然でもあるだろう。

とはいえ、小さな集落ほど学校がなくなることの打撃は大きい。子供らは確実に外へ出て行く。まだ久木野には小学校は残っているが、地域で中学生の姿が見られなくなる。

Photo_2
愛林館の前でも、子供たちは遊んでいた。



今回の会合には、小さな子供連れの家族もいたのだけど、幼い子を見るお年寄りの目はなんとも優しかった。

ところで、私が就森人へ訴えたことの一つに、「副業の積み重ね」という考え方がある。林業だけで食っていこうとすると、厳しくなる。さまざまな仕事を小さく掛け持ちすることで、あるいは共稼ぎなどで収入源を複数にして、、全体の収入を得るという発想である。

そして、それはセーフティネットにもなる。一つの仕事が失われても、打撃を最小限に押さえることができるからだ。実は、私のようなフリーにとっても同じであり、いかに仕事先を分散させておくかが重要なのだ。

これは決して新しいことではなく、そもそも農林業は昔からそうだったのだ。一つの仕事を専業にするのが増えたのは、戦後である。もっとも、今はまた兼業農家などが大半になっているのだけど。

そう考えていると、ふと、学校も副業を持てないかと思いついた。小学校、中学校だけと行き詰まる。そこで幼稚園・保育所やデイケアなどの高齢者施設、公民館、いやいや役所だって一緒にしてしまう。地域の人々を丸ごと集う場所として設定する。いっそ、レストラン(食堂)、コンビニ(よろず屋)だって誘致する。

そうだ、宿泊施設も作ろう。すると旅人がやって来る。そもそもユースホステルとは、学校を利用した宿泊施設としてスタートしている。

常に誰かしらが出入りし利用することで、お互いを支え合う。こうなると、すると生徒数が減ったことを理由に休校するのは難しくなる。それは異年齢集団であり、働く人を間近に見ることで、生徒にも教育効果があるだろう。生活こそが、教育だ。

……今の縦割り行政では無理だろうけどね。

でも、ローカル鉄道が赤字で存続の危機にあるとき、センベイを売って凌いだ実話もある。本業で稼ぐより副業の方が利益を出していたから、支えられたのだ。

それで思い出した。愛林館は、そもそも駅だったのだ!

そもそも愛林館は、久木野を走っていた山野線が廃止された駅跡に地域づくりの拠点として設立されたという。

だから愛林館前には、ちゃんと駅のホームが残されている。

5

機関車まであるのだよ。

愛林館の2階には、時刻表まで残されていた。

そうか、やっぱり愛林館は駅として副業できるはずだ。鉄道ならぬ就森を支える副業を。
ちょうど朝市も始めたし、ランチも出す。キオスクみたいな売店もある。バス停もある。

でも、愛林館を飛び出した方がいい。

日本一の棚田もあるのだから、この景色を眺めながらお茶を飲みたい人は、たくさんいるはずだ。棚田分譲の不動産業もいい。農地を売るのではなく、景色(の見える土地)を売る。耕作断念地を花の名所にして人を集める手もある。

……と、音楽室から話は飛んで、広げて、汽車に乗ったかと思えば脱線して、棚田を歩いて、どこか旅に出てしまいそうだ(笑)。

2010/12/02

九州新幹線つばめの内装

就森集会・閑話休題編、第二弾!

というほど大袈裟なものではないが、空の移動の続きで鉄道も。

実は、熊本空港から水俣までは、新八代-新水俣間を九州新幹線に乗った。来年3月には全線開通して福岡からつながるが、その前の新幹線を体験する最後のチャンスだ。(こんな書き方をするから、鉄ちゃんと思われる……。断固、違うからね!)

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これが、九州新幹線「つばめ」だ。天井が低くて、新幹線共通の長い鼻。

新八代から北には、「リレーつばめ」が走る。こちらの方がクラシックな感じでデザイン的にはよかった。

さてさて、乗ってみると、たった一駅、時間にして13分。そして車窓の景色は、ほとんどトンネルの中なのである。たいして感激することもない。ただ、在来線(オレンジ鉄道)が1時間以上かかるのだから、時間短縮効果はある。

むしろ、私の目が向いたのは、車両の内装だ。

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見よ。木調仕上げなのだ。高級感とまではいかないが、かなりシックで、落ち着いたつくり。

座席以外にも、壁も木調。だいたいが合板だったが、もしかして印刷もあるだろうか。

九州新幹線は、このデザインを売り物にするのか。かつて近未来的なデザインをほこった新幹線(東海道や山陽、東北……など)との差別化もあるのだろうが、時代が木調を受け入れるようになったとも感じる。昔だったら、年寄り臭く感じたかもしれない。

そういえば、大阪-鳥取間を走る智頭急行も、たしか木調座席だった記憶がある。鉄道と木は、接近中なのだろうか。

2010/12/01

スカイマークのCA

タイトルだけなら、裏ブログのネタぽいのだが……。

ともあれ、就森集会から閑話休題。

今回の愛林館への道には、スカイマーク・エアラインを利用した。実は、初めてである。神戸-熊本間に飛んでいたことに気づいたので初挑戦というわけ。

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これは、ボーイング737だったかな。スカイマークの機体。



スカイマークのキャビンアテンダント(CA)は、いわゆる制服ではなく、上が紺のポロシャツというだけ。下は、スカートやパンツが混じっており、色も人それぞれだから私服なのだろう。こんなところから経費節減か?
でも、スレンダーな人に似合っていた。

それよりも私が注目したのは、登場後離陸前の非常時ガイドである。酸素マスクやライフジャケットの使い方を説明する、あれ。それを、CA自らがやる。

これが新鮮だった。最近のJALもANAも、大きな機体では、たいていビデオなのだ。機内の天井?からビデオが下りてきたり、前面のパネルにCAが映し出されて説明する。(子会社の近距離区間小型機の場合は、いまも実演だが……。)
これが味気ない(^^;)。私は、ほぼ見ないよ。

それをスカイマークでは見られるのだ。まあ、見たって面白いものではないし、幾度も飛行機に乗っていたら内容も覚えているのだが。

何も私の好き嫌いを趣味で語っているのではない。いや、好き嫌いかもしれないが、妙に自動機械化することで人件費削減していることを感じて、ちょっと違和感があるのだ。勝手に見ておいてね、スタッフは忙しいのよ、といわれているような感じ。

もっともコスト削減を推進している格安航空会社であるスカイマークが人力に頼っているのが、新鮮。どうせなら、もう少し演技をオーバーにやっててほしいね。セリフも話し言葉にしたらどうだ? 棒読みより注目度が上がり、ちゃんと聞く人が増えるだろう。

だいたいビデオ機材を設置するコストを考えると、人がやった方がいいのではないか。ビデオ製作にも金がかかるし、この案内をビデオにした分、搭乗CAを減らしているとしたら、本当の非常時の安全が心配になる。
海外便などで、乗客を退屈させないために映画上映するためのビデオデッキを使っていると言われるかもしれないが。

それで思い出したのが、福井県のえちぜん鉄道のアテンダント
小さな電鉄会社にあえてアテンダントを乗せたのは、単純なサービス向上ではなく、お金がなかったので、駅などのバリアフリー化ができなかったからだ。そこでアテンダントという名の女性を乗せて、老人や子供たちが安全に乗降できるよう気を使った。その方が安上がりという判断もあったのだろう。さらに、彼女らの自主的な思いからサービスも向上し、それが収益の向上にもつながった。

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えちぜん鉄道のアテンダント。

コスト削減とサービスは相反するように語られるが、あえて人力の方が安く、そして客の評判もよくなる場合もあるのではないか。

……CAを見て、ここまで考える乗客って、きっとうるさいのだろうな(^^;)。

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