ゼロエミッションの林業
昨日の京都の老林業家の取材話の続き。
御大が林業を営んだのは、戦後すぐ(家は代々林業を行ってきた)から、最後の植林が1990年代だったそうだ。とはいえ、最後は崩壊地への植えつけだから、正確には林業と言えないかもしれない。
いずれにしろ、もっともよかったのは昭和40年代~50年代。
木の苗を植えるために雑木を伐ったが、それらはみんな薪として売る。
伐採は正面積皆伐だったらしく、いろいろな太さの木が出る。それを全部売ったという。それこそ直径数㎝のものは杭に、少し太くなったらまずは稲木。これは6尺ほどの長さで先を尖らして売る。次は20尺ほどの長さを保って足場丸太に。枝葉など柴も、近隣の寒天農家に燃料として売った。ときには太いスギ丸太の皮を剥いて売り物にしたし、炭焼きもした。
みんな、向こうから買いに来た。山のものは何でも商品になった。
そして太い木は、高く売れる木材市場を求めて、自分で荷車に乗せて運んで行った。三重の松阪や鈴鹿まで行ったこともある。
一方で田んぼで米や麦を作ったし、山菜採りも行く。松林ではマツタケを取って売った。昔はクリ林もあり、クリも収穫して食べたし売り物にもする。たいていのものは自分で作った。
田んぼ仕事は草刈りが大変。その点、山の草刈りの方が楽だったから、田畑を手伝わないで山に逃げていた。
若いころから家で働いていたので、年金は払っていなかった。でも、山の木を育てたら、自分が老年の頃には金になる。だから山が年金だと思っていた……。
それが、今や金にならない。将来受け取るつもりでしんどい目をして働いたのに、年金をもらえない、と繰り言になるのだが(~_~;)、ともかく山は財産であった。
太った木を見ると、よく育った、とお金になる可愛い娘のような気持ちでなでていた。
ここで私が注目したのは、捨てるところがない山の産物、という点である。
当時は切り捨て間伐など考えられなかったのだ。雑木も、細い木も、柴だって商品になったのである。ここは、私が以前から唱えていた無駄なく商品化する林業論の大きな実証になる。林業に限らず、いかなる製造業も無駄に捨てる部分が多いものは利益率が低くなり、やがて壁にぶつかる。廃棄物なし(ゼロ・エミッション)こそ、優れた産業だと思うのだ。
もっと「商品としての林産物」に目をむけるべきである。たくさんの生産物の中から、もっとも優秀な部分(売れ筋)だけを選んで、残りを捨ててしまうようでは環境的にも経営的にもおかしいのだ。
ただし、ここで商品化するのは、山の仕事ではなく、街の仕事だろう。街で商品需要を見つけ、生産を山に求めるようにしないと、林業家に過重な負担となる。一方で林業家自らも価格を上げる努力もしないといけない。そのためには自分で売りに行く必要もある。
このシステムを復活しないと、選ぶ道のない一方通行の一本道林業になってしまう。
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>商品化するのは、山の仕事ではなく、街の仕事だろう。
街で商品需要を見つけ、生産を山に求めるようにしないと
>選ぶ道のない一方通行の一本道林業になってしまう。
製材所や林業家はじぶんの努力で利益率を上げていくこと、
商品開発などで、売上を伸ばすことは可能でしょう。
でも、市場にあるものを流すだけの
漫然とした流通をしている材木屋さんが
一番大変な時代になって行くような気がします。
林業・製材・加工・流通、それぞれが源流から河口・海(消費者)まで見通して行かなければ。
※上流から下流という言い方はおごった表現だと思いますので、
「源流から河口(海(消費者))」という表現を提唱したい。
投稿: スポット | 2010/12/15 08:18
これは林業家であろうと製材屋であろうと、すべての働く人に共通ですが、頭使って、努力して働いたものが生き残るのです。努力しても生き残れない場合もありますが、努力しないで生き残る確率は極めて低い。
林業の流れを川上から川下まで、と言いますが、その語感は難しいですね。上流・下流か、源流・河口か。だから「大林業」と呼ぶ(笑)。
投稿: 田中淳夫 | 2010/12/15 11:40