無料ブログはココログ

森と林業と田舎の本

« ゴルフ場で林業 | トップページ | 日本一の薪 »

2011/04/08

景観の真贋

昨日まで、郡上八幡を訪れていた。

オフシーズンだが、なかなか楽しく、街の見学をした。街の人々も観光客との接し方になれているようである。(ただホスピタリティとは違う。宿では???な部分もあった。)

郡上八幡と言えば、郡上踊りのほか、水と共生する街として有名だ。古い町並みが残る中、用水路が網の目のように延びており、生活に活かされている(いた?)。
そして、その景観も観光対象になっている。

5






こんな裏路地もある。ゴミ一つ落ちていないが、雑草が繁っていたり、隣接する民家の壁がトタンで覆っていたり、なかなかの風情だ。といかにも、水と生活が溶け込んだ感じがした。






1

で、こんな通りもある。
「やなか水のこみち」、通称美術館通り。
なんでも、手づくりで町並みづくりの表彰も受けたとか。



両者は、なんか、違うような気がする。いや、どちらも美しい景観を形作っているのだ。とくに下は、今風でオシャレでもある。しかし、どちらが落ち着くかと言えば、断然、前者だ。
後者は、いかに作りました!  という意図が浮かんでいて、生活感がない。いや前者だって、観光向きに整備したのは間違いないよ。ただ両側の家は、一般民家だし、そこには長く暮らしてきた人の歴史や生活感が滲む。

2

こんな小屋が設置されている水路もあった。
いかにも、観光的デザインに作られていたが、小屋が何かに使われているわけではない。景観のためのものだ。

実は、景観論を考えるに当たって、前から気にしていた違いである。

里山を例にとると

07_3

これこそ、典型的な里山の風景。周りの農地は本物だ。
手前の家屋は、お寺の庫裏らしい。





Photo


一方、こちらは大阪の高層ビルの合間に作られた「里山」。

畑や水田があり、雑木も植えられている。いかにも、な造園だ。
路は、計算し尽くしたように曲線を描き、しっかり舗装されている。背景の高層ビルは抜きにしても、何か違和感が浮かんでいるように思えた。

いつか、里山写真の第一人者・今森光彦さんだったと思うが、昔ながらの農業と結びついて生まれた里山と、森林ボランティアが整備した里山とは、ファインダーを覗くと違いが出る……といったことを語っていた。森林ボランティアが、どんなにていねいに仕事をしても、そこに生活感は生まれないのだ。

それと同じことを、郡上八幡でも感じた。街を活かそうと、生活に立脚した景観と、デザインをそれらしく水との共生ぽくした景観とは、どうしても違う。

それは、客への対応を洗練させることが、ホスピタリティの向上には直接的にはつながらないことに通じているように思う。

ちなみに街でもっともホスピタリティを感じたのは、街角で「今日は温かいね」と声をかけてくれたおばあちゃんであった。

« ゴルフ場で林業 | トップページ | 日本一の薪 »

地域・田舎暮らし」カテゴリの記事

コメント

機能は別にして,あくまで「景色」だけでいえば,最後は好みの問題ではあるのですが,私が「近自然工法で作られた景色」や「ビオトープ」に感じるのと同じ類のものなんでしょうね。倉敷の「美観地域」もピンと来ないんですよね—

 住んで、使う人が作れば(創れば)いい感じになるかも。使いながら、日常の生活パターンや仕事のパターンから。
 わが町にも、雪国を思わせるような公共建物があります。平成5年ごろ地域振興事業で出来ました。切妻屋根が多いわが町ですから、相当な違和感を覚えたのですが、設計した人や当時の担当の方はこれぞまさしく田舎の建築パターンだと思ったのでしょう。
 自分の家だったらそういう作り方するかなあ。
 
 でも、地域全体を人工的なまちづくりイメージjでやったとしたら、統一パターンで違和感がないかもしれませんよ。完成した時点以降に生まれ育った人は。
 でも、大人になってそういうセンスになっちゃうんだろうなあ。

おそらく人工物には、なにかしら不自然さがあるのでしょう。

人間には、必要ないものとか、理に適っていないものを感じ取るセンサーがあるのではないか、という仮説を立てています。
無意識に、五感に入ってくる刺激の中から、それをより分ける能力があるのではないか……。
不健全な何かを感じ取ったら、妖怪が見えるとか。

このセンサーが理論化されたら、面倒な生態調査なんぞしなくても、「この森、健全!」とか「この森は、●○が足りない!」と見破れる(^o^)。

 私たちは、学術的なレベルの調査ではないけれど、モニタリングをしたりします。
 適当モニタリングを繰り返していると恐らく感覚的に○×△がわかってくる。プロの皆さんもたぶん調査をしに入ったときに直感で検討がつく。
 でも、モニタリングの「モ」の字も知らない、初任者が心地よいと感じる森はやはり調査をしても同じ結果が出てくるような気がします。
 心地いいものは心地いい。なんか泉谷しげるさんのような気分になってきたりします。でも、林業行政マンとしてはNGなんでしょうねえ。

 しつこく追伸です。
  
 そういえば、改修したてとか、作りたてのハイキングコースよりも、何年か経って木製階段が腐りかけていたり、水ミチがチョロッと出来ていたりする歩道の方がなんか心地よく歩けたりしますね(ただし、人がいつも歩いているところ)。
 車道として建設した林道もそういう感じがします。
 特に、林道を歩いた場合には、そういう感じを強く受けます。
(私だけではないはずです)
 間伐施業地も間伐直後よりも、3年ぐらい経った山のほうが活き活きしているような気がするし。鹿やカモシカに下層植生をほとんど食べられているような林分でもそういう感じがする。気のせいではないと思います(木のせい、いや、木の精かも)。

違和感を感じたら妖怪。木の精を感じたら妖精(^o^)。

あやふやな感覚を、「これは信頼できる」程度に理論武装して、「心地よさ」を基準とした森づくりを広めたい。
「馴染む」という言葉も、人が心地よさを感じるセンサーの答のはず。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 景観の真贋:

« ゴルフ場で林業 | トップページ | 日本一の薪 »

December 2023
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

森と筆者の関連リンク先