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森と林業と田舎の本

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2011/04/20

ニッポンに底力ってある?

東日本大震災以降、テレビを始め、各所で大合唱されるのは「ニッポンの底力」であり、「がんばろう、ニッポン」である。次に「日本は強い国」と来た。そして幕末動乱や太平洋戦争後の復興を例に、日本は常に立ち直ってきたことを示す。

まあ、それが悪いとは言わん。少々ナショナリスティックだが、めげる気持ちを「国」という集合体の団結を示すことで奮い立たせる必要もあるだろう。

だが、本当に日本の国に底力はあるだろうか? 傾いた国勢を立て直すことはできるだろうか……。

私は、そこはかとない不安を感じる。不愉快かもしれないが、あえて語る。

それは、長く地方を見てきた経験から来る感覚だ。根拠はないが、精神的なものである。

それは……日本人の依存体質。とくに地方の……。

私の見立てだと、江戸時代から明治に入って、日本は大きく中央集権国家に切り換えられた。そして戦後はさらに中央集権が増したように感じる。とくに地方は、中央政府のばらまく金と官僚の指導(命令)に依存するようになった。

自分で決め、自分で動く意識がどんどん希薄になってきたように思う。

私が接触ある地方とは、主に田舎であり、林業がらみの山村が多いわけだが、そこでは何かにつけて依存体質を如実に感じる。林業だけでなく、道も観光も福祉もみんな「助けてくれ」の大合唱だ。

これが林業を衰退させたんだな……と常々(口に出さないで、心の底で)思っていた。おそらく、自民党政権時代からの紐付きバラマキが、日本人の骨の髄まで依存体質を植えつけたのではなかろうか。もはや戦後の復興を支えた日本人とDNAか違うのではないか。そんな気さえする。

たしかに今回の未曾有の震災は、一個人、一組織、一自治体レベルで復興できる規模を超えている。とくに原発災害は、桁違いで次元が違う。

とはいえ、テレビで「国は早くなんとかしてくれ」という言葉を聞くばかりだと、そこはかとない不安が私の心に広がるのである。

これで、本当に底力はあるだろうか。あったとしても発揮されるだろうか。……不安である。

まず、自分で動く。動く姿、悪戦苦闘している姿を周囲に見せつけて、周りの人や行政が応援する……というのが本来の政治だろう。首長や議員を通じたり、コネを活かして国に申し入れる、というのは古い依存型政治体質である。
提案も、国家が選んだ識者に任せず、現場からどんどん提案したらどうだろう。

国も人間がつくり動かしている機関だ。一生懸命頑張っている所には応援したくなるが、脛をかじる奴は蹴飛ばしたくなる(^^;)ものではなかろうか。

たとえば岩手県の住田町は、国や県を待たずに、自力で仮設住宅の建設に乗り出した。この町そのものは内陸部だから、あまり被害はないそうだが、隣接する大船渡市、陸前高田市、釜石市など甚大な被害を受けた海岸部の町に向けて動き出した。もちろん、使うのは町内の森から伐りだした木材である。
すると、NPOのmore treesが、地域の木材、地元の工務店が主体となる木造仮設住宅の建設に向けた支援をスタートさせている。町が自腹を切るつもりの建設資金を、援助するようになった。

http://life311.more-trees.org/

ほかにも集落で避難所を自主運営している地区もあるという。本来、田舎は、自主独立の気概が強かったはずだ。中央から遠いゆえの自立意識が行き渡っていたのだ。
それが戦後の情報社会の進展と交通網の整備で、自主的に行うより中央との直結が自慢になってしまった。

国の東日本大震災復興構想会議を待たずに、各県レベルで将来の絵を描けないか。それを見た国が焦って調整するくらいの気概で取り組めないか……と夢想するのである。

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