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森と林業と田舎の本

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2011/05/08

井の中の蛙

ずっと心に沈殿しているものがある。考えれば考えるほど、胸の底に溜まって、解が見つからない。

それに悩んでいる時に、不意に浮かんだ言葉。

「井の中の蛙」。

この言葉の後に何が続くか。

ほとんどの人が知っているのは、「大海を知らず」だろう。

井の中の蛙、大海を知らず。荘子の言葉らしいが、井戸に住んでいるカエルは、その外の世界には広い海が広がっていることを知らない、というのだ。

小さな世界にこもっていては、全体像がつかめない。さらに転じると、目の前の出来事、自分の周りしか見ず、自分に関係あることだけで行動していると、世界全体の動きがつかめなくて、結局、大勢を見失う……。そんな意味に取れる。

だが、この言葉の後にまだ続く言葉があることを知っているだろうか。

されど空の高さを知る」。ほかにも空の青さを知る」、「空の深さを知る」などともいう。なぜ確実な言葉ではないかと言えば、どうやら日本に伝えられてからの後付けらしい。荘子の言葉ではないのかもしれない。

井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る……。

井戸の底に住むカエルは、たしかに外の世界を知らず、視野は狭い。が、常に狭い空を見上げているゆえに、その高さや青さや深さを知っている……ということは、狭い世界の奥深さや緻密さを感じていると、解釈すべきだろうか。

もしかしたら、当時の先進国・中国の荘子の言葉に反感を持った日本人が、辺境ゆえに狭い世界で見つけたことがあるんだいっ! と言い返したのかもしれない。

今風に考えると、世界経済は知らなくても、小さな商店の商売の機微は知っているとでも言いたいのか。あるいは、職人的な専門技術は持っているが、いま作っているものが将来必要になるかどうか考えたこともない、ということか。

何を言いたいのか。って、私にだってわかんねえやい(笑)。

ただ、大きな世界観を持たないと、真実は見えない。が、大局ばかりを語っても情はなく、根源的な人の命運を見誤る。
そして社会的視野と、深い専門分野の洞察は、なかなか両立し得ないということである。

自分は、取材者、執筆者として、どちらの立場に立とうとしているのか。井戸から出て別世界を見るべきか、井戸にこもって空を見上げるべきか。

やはり、出たいのだろうな。

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コメント

うーん。
深い。
井戸が。

じゃなくて、
性に合うところに落ち着くもんでは
ないでしょうかね。

出たり入ったりすることも、ありかしらん。

そうか、井戸から出たり入ったり、も可能か。

やっぱり両生類。

荘子・外篇・秋水第十七だと

「北海若曰、井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也。」

ですから,続く言葉は「夏の虫に氷を語るなかれ」となるところなんだけどなあ・・・ 空の高さ(or深さ)を知る云々は幕末の志士がどうのこうのという伝説がありますが真偽はあがたしには不明です.

「夏の虫に氷を語るなかれ」ですか。
大局を知らないものに教えても無駄、という意味か、まず「夏」という現場を見ないと氷は理解できないだろう……と取るべきか。

こんなことを考え出したのは、実は福島の原発を巡る情勢からなのですけどね。
放射線レベルを県民の健康面ばかりから避難を呼びかけると、日常生活維持に支障をきたすこと。そして日本経済を根底から崩し、東北復興さえ危うくするという現実。
一方で、御用学者の唱える「安全」にすがる人への違和感。

西日本から見ることは、俯瞰的であるのか、他人事であるのか。阪神大震災の時と正反対の視点を感じます。

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