米カレンダー・高浜町の景色
富山和子さんよりいただいた「日本の米カレンダー」。
遅ればせながら5月のページを剥がした。そして先月の風景写真をまじまじと見た。
このカレンダー、美しい水田と山の風景写真を使っているから、終わった月の写真は切り抜いて保管している。これまで明日香村や吉野の風景も登場していたが、5月からは本格的な水を張った棚田が紹介されている。
で、5月は福井県高浜町の棚田だった。ちょうど田植え最中であるが、背景に海が見える。山間ではなくても、海と隣接した棚田であることが特徴なのだ。海の湾内には漁船や養殖筏が浮かんでいる。
……よく見ていると、湾の向こう側の岸辺には小さく原発が建っていた。
高浜町を始めとする若狭湾一帯と言えば、関西電力の原発地帯である。まさに、原発と棚田が同居した写真だったのだ。米は、原発の麓でつくられていた。
図柄としては、原発の特徴である丸い冷却塔?が景観に溶け込んでいる。もはや違和感のない光景になってしまったのだろう。
原子力というのは、ある意味、人類の巨大な挑戦として夢を持っていた時代もあるのだろう。私は、密かに思うのだが、本当は原子爆弾として持ちたいという潜在的欲望があったのではないか。人間には破壊願望があり、強い武器への憧れを持つ。とくに権力者とその追随者は。
しかし原発を保有することは世界情勢的にできないと気づき諦めたときに、欲望は原子力発電に向かったのではないか……と想像する。
昨日の「草刈り」の続きというわけではないが、原発があるからと言って、即自然に異変が起きるわけではない。仮に放射能をまき散らしたからと言っても、一定レベル以下なら「ただちに健康被害はない」と言われるのだろう。
低濃度放射線被害というのは、たしかに「ただちに」被害は出ない。出ても、数十年後、小児ガンが何%増えた、という形で表現される。全生物に異変が起きることはまずない。大多数は異変がないということもできる。
おそらく自然界では、何%か奇形が増えても、それらが排除されるなり自然選択で消えることで生態系は維持されるのだ。
実は、自然界全体のスケールで見たら、原発の放射線ごときに地球はびくともしない。
だが人間界は、そう簡単ではない。数%であろうと、消える生命が意志を持っている。黙して消えるのではなく、幾多の思いを本人と周囲に与えて存在している。
また、残された人々も異変を察して動く。
日本の米カレンダー。6月は、神奈川県の開成町。あじさいの里である。
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