無料ブログはココログ

本の紹介

« 馬による木材搬出が可能なのは | トップページ | 15年前の著作 »

2011/07/13

明治林学と知られざる才女

早くも夏バテなのか、体調がイマイチ。

本当は、イマドキ流行りのドイツ林業と日本の歴史的関係うんぬん……という長大な論文を思いつきで書こうと思ったのだが、ダメだ、リキが湧かない。

で、ドーデモ話を書こう。

日本の近代林学の陰に隠れてしまった女性の話である。

日本の林学は、幕末にはフランス林学を取り入れようとした気配もあるのだけど、結局、明治新政府はドイツ(当時はプロシア)林学に傾倒する。そのきっかけは、岩倉具視の使節団に行き着くのだが、そこで留学生が送り込まれた。

その一人が、本多静六である。

そう、日本の林学の父なんてことも言われている。林学の基礎知識を持ち込んだだけでなく、実践につなげたことで、広く知られる。たとえば水源林や鉄道林、大学の演習林を設立したのも彼である。日比谷公園設計したのも、明治神宮の森を企画したのも彼だ。

彼は、埼玉県菖蒲町の折原家に生れた。つまり、当時は折原静六であった。父を早くになくして貧しかったものだから、学びたくても金がなかった。そこへできたばかりの官立学校で安く入学できる山林学校を選んだのだ。

最初は勉強に着いて行けずに落第し、自殺まで計るのだが、やがて猛勉強して首席になる。

そのことが人生を変えた。優秀な学生ということで、在学中に縁談が持ち込まれたのだ。

その相手がすごい。幕末の上野戦争で知られる彰義隊の生き残りの本多晋の一人娘本多詮子である。

この娘は、6歳の頃から宣教師の家に預けられて英語を学び、12~13歳の頃から公使館の通訳を務めたほどの才媛。女学校では常に首席で、皇后陛下に御前講義まで務めている。後に医学を学んで日本で四人目の女医となっていた。こんなすごい娘だからこそ、父親はそれに似合った男として静六に白羽の矢を立てたのである。

もっとも、静六は、この話が教師から持ち込まれた際、勉学中の身として断っている。

しかし、しつこかったので、「学校卒業後、四年間ドイツに留学させてくれたら結婚する」という高飛車な条件を出した。ところが本多家はそれを飲んでしまったのだ。それで渋々?結婚する決心をしたそうである。こうして折原静六は、本多家に婿入りして本多静六になった。23歳だった。

そしてドイツのターラント山林学校に留学し、さらにミュンヘン大学に編入するのだが、実は本多家は、このとき破産してしまった(@_@)。そのため4年の留学期間を2年に縮めて卒業するのだが……。

そしてドイツ林学に加えて吉野で土倉庄三郎に日本の林業を学ぶ

ともあれ、もし本多詮子と結婚しなかったら、林学の父としての静六はなかっただろう。日本でもかろうじて林学は学べただろうが、当時は留学もせず大学の教授になれなかったから、下級役人としてくすぶっていたか、あるいは実業家などに転進していたかもしれない。

ただ、女医だった詮子は、病院の助手を勤めたり女学校でわずかな講義を持つ以外は働いていない。結婚して引退してしまうのだから、こちらはもったいないなあ。

脱線するが、再来年のNHKの大河ドラマは新島八重を主人公にした「八重の桜」と決まったそうだが、彼女は会津戦争の生き残りである。若松城にこもって女子ながら鉄砲の腕前を武器に狙撃兵として官軍と戦った。その後、京都に出て、そこで出会った新島襄にホレられ、結婚するのだが……。新島襄は、アメリカに留学して、同志社を設立した男である。

そして新島が同志社大学を設立することに力を貸したのが、土倉庄三郎である。新島襄は亡くなる前に、庄三郎に八重の世話を頼んで植林をしている。八重は、その後看護士になって日清日露戦争に従軍している。

何が書きたいのかわからなくなったが、「八重の桜」の主人公を演じるのは、綾瀬はるかである♪

« 馬による木材搬出が可能なのは | トップページ | 15年前の著作 »

森林学・モノローグ」カテゴリの記事

コメント

分かりますとも。
書きたかったのは、最後の二行♪

夏バテにはゴーヤです。

見破られたか……。

ゴーヤ食べます。

自分の中のフレッシュな話題を提供していただき、有難うございます。

 蓄財の方でもいろいろ本を出しているようで、地元の本屋にも普通に文庫本がおいてありました。成功するために・・・は今読んでいます。
 
 少しずつ勉強してみます。
 

本多静六の林学的人生を追うなら、「本多静六自伝 体験的85年」がいいですよ。凄まじい人生だから(^o^)。

ともあれ上野戦争の彰義隊を戦った本多晋の娘と会津戦争を戦った山本八重というなんの関係もない、でも庄三郎に縁のある二人の烈女について書きたかっただけです(^^;)。あ、綾瀬はるかの名前もね。

本田静六、そういう結婚だったとは初めて知りました。家の中では尻に敷かれていたのでは?

いえいえ、かなり慎み深い女性だったようです。夫の3歩後ろを歩く…みたいな。

だから、もったいないと思うのです。明治の稀少な女医であり語学通なのに、それを十分活かさず家庭に入ったことを。

へええ。
3歩後ろ。。。

ワタクシなんぞ30歩くらい後ろを。。
(これでは一緒に歩いているとは言えんか。)

30歩も離れて歩いたら、そのうち違う道にそれると思う。
そして、見知らぬ道を歩く楽しさに目覚めてしまう。
その先にブッシュがあっても。崖があっても。
でも、そこを乗り越えると、きっと楽しい世界…。
あ、今日の朝散歩はさぼりました。

by 迷い道ジャーナリスト

いや、待てよ。
後ろじゃないかも。
30歩前だかも。
すでに道なき道をずんずんと。

外見は三歩下がっていたとしても、家庭内では

静六「うーむ、明治神宮(または日比谷公園)の設計がうまく行かんな−」
詮子「ちょっと私に見せてご覧なさい」
静六「私がドイツで見たベルリンの○○公園のようにしたいんだが・・・」
詮子「あなた、今度は東京ですよ。ベルリンと東京は違うでしょ−。気温も湿度も人々の求めるものも。」
静六「でもドイツでは・・・」
詮子「また『では』が出た−。出羽守は我が家には要りません!」
静六「そうか。。。それもそうだよなー。」

といった会話が交わされていたのではないかと思うのですが。

熊(♀)さんくらい突き抜ければ良かったけど、明治の女にはなかなか難しかったのでしょうね。

これ、沢畑家の姿ですか?
「でも、水俣では……」
「あなた、今度は福島ですよ!」とか。

日比谷公園は、ヨーロッパの各地の公園をつぎはぎして設計したらしい。詮子さんに怒られたかも~。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36391/52199143

この記事へのトラックバック一覧です: 明治林学と知られざる才女:

« 馬による木材搬出が可能なのは | トップページ | 15年前の著作 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

森と林業と田舎