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2011/11/10

宮脇昭理論の批判を試みる

森林景観と市民意識について考えると、これまで原生林至上主義というのが強くあって、そこに雑木林見直し論が広がった。そこに人工林再生運動(林業復興運動)も盛り上がってきた。

私は、なかなかよい流れだと思っていたのだが、最近になって、勢力を増してきたのが潜在植生至上主義である。これはヤバイのではないか。

……というようなことを、生駒山を歩きながら考えていた。

潜在植生至上主義とは、多くの場合照葉樹林至上主義であり、さらに言えばそれを唱えた宮脇昭氏の理論を盲信した結果である。もっとはっきり問題点を言えば、宮脇信者の暴走であろう。  ……ああ、また敵を増やしそうだな(笑)。

以前にも、宮脇昭・横浜国立大学名誉教授の活動に対する違和感、というか、立場の違いを記したが、単に意見の相違を超えた、問題点を感じだしたのだ。

冒頭の原生林至上主義というのは、人為を排した自然こそ素晴らしいというロマン主義思考だと言ってよいかと思うが、そこに雑木林のような遷移途上植生も美しいし、大切だよ、という声が高まってきた。また人は木材を必要とするし、人工林は手を入れないと健全に育ちにくいことも認知されてきたように思う。原生林を貶めるのではなく、その他の自然にも目を向けてきたのだ。

ところが、潜在植生至上主義とは、形を変えた原生林至上主義であり、基本的に人為を嫌ううえ、ある一種類の森林形態を至上のものとして他環境を排斥しかねない考え方ではないか、と思うのだ。しかも、素直な美意識にも反している。

実際、宮脇信者は、雑木林の間伐にも反対するらしい。そのまま照葉樹林に移行させるべきというわけだ。しかし、本当に落葉広葉樹主体の雑木林は必要ないと思っているのか。美しく感じないのか。
また人為を嫌うわりには、照葉樹(など潜在植生の樹種)を植えたり、埋土種子入りの土壌をまきたがるのだが、照葉樹林で暗くなった森を美しく感じるだろうか。

宮脇氏の文章や発言には、潜在植生とか極相林という言葉が多用されている。そして遷移途上の植生を軽んじているというか、嫌っているように感じる。

しかし、そもそも現代生態学では、極相という考え方自体に修正が迫られているのではないのか。植生は常に変化していて、極相のように「それで安定」という状態はないと言われ始めているからだ。数百年単位で見れば、安定した森林(変わらない植生)そのものが存在しない。

極相(潜在植生)は、手間いらずで強いから」という宮脇氏の言葉は怪しい。だって、極相植生も手を入れなければ成立しなかったり、破壊されることはままあるからだ。

たとえば深層崩壊のような土砂崩れや洪水には、どんな植生も破壊されるし、病害虫や獣害、火事などで森林が一変することも少なくない。そうした跡に、先駆種や途上の草木が育つのに、それを否定してどうする。

そして、いきなり遷移の最終段階の木々(たいてい照葉樹)を植えたのでは、環境に適していない草木を無理に育てることになり、生態系に反している。破壊された後の環境には、そこに適した草木を植えるのが順序だろう。時間軸を忘れて植生を求めるのは危険だ。

宮脇氏の提唱する潜在植生を重視した森づくりは小さな敷地(工場や都市公園など)の緑化技術にすぎない気がする。

地球環境を考えれば、さまざまな植生(生態系)を活かして、生物多様性をめざさなくてはならないはずだ。そして、植生だけでなく、菌類や節足動物、さらに鳥獣まで含んだ全体の環境を見渡す視点が必要ではないか。もちろん、その中には人間も、人間の活動の影響を受けた環境も含まれる。

と、まあ、これも遷移途上?の試論である。もう少し、考察を深めねばならないな。。。(~_~;)。

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森林学・モノローグ」カテゴリの記事

コメント

潜在植生至上主義は、森の原理主義?(笑)人がこの世に存在しなくてもよいなら、それもありかもしれませんが…。私は、宮脇理論?は、植林する際、なんでもかんでもスギ、ヒノキでなくその土地の植生にあった木も植えようよ、程度にしかとらえていません。(間違っているのかもしれません)
田中さんの「森林の新常識」を読ませていただき、いろいろと考えさせられることが多いです。自然というのは、数学・物理のように公式通りにいかないもの。広く長い目で見ていかなければならないと思います。人の営みも(行きすぎなければ)自然の一部。バランスをとるのが重要かと。

私も、最初は宮脇氏はそんなに無茶言っていないだろう、取り巻きの暴走だろう……と思っていたのですが、どうも御大自らの発言にアブナイ部分が多いことに気づきました……(-.-)。

なんか、EM菌の●○教授と似た感じ。

拙著をお読みいただきありがとうございます。私も、無茶言っていないか?

ついに・・・という感じですが、「しらかしー」って3回叫ぶことに次いでもなく、海から数キロ離れた大店舗の植栽の常緑広葉樹が倒れなかったから云々というようなことについでもなく、もう少し泥臭い話しについででもなく、”理論”として批判を試みたところが画期的です。おそらく植栽に集まってくる大部分の人は、シイやカシでなくコナラでもケヤキでもスギでもマツでも、イベントなので何か皆で植えるのが楽しいだけで深くは考えていないだろうと思います。また、少なくとも”日本一多くの木を植えた男”は絶対、植林を生業としている人と思います。くだらない話になってしまいました。まじめな話しとして、私は宮脇理論は植生の不毛な裁く、荒野ででやっていいかもしれないけれど、わざわざ街中で大々的にやる意味はないと考えています。宮脇イベントに参加して喜んでいる人も、仮に理論どおりいくと20年後にはこうなりますということで照葉樹林に連れて行くと考え直すかも・・・

>「しらかしー」って3回叫ぶこと

こんなこと、やってるんですか……。

そうそう、私の吉野の師匠は、「これまで植えた木の数を計算すると200万本くらいになるな」と言ってました。ひえ~。

照葉樹林の森づくりの成功例として上げられる明治神宮の森も、100年かけて照葉樹を伸ばしたのであって、最初はアカマツも含めた先駆種でした。ちゃんと遷移を見極めた本多静六などの偉業です。

「万歳三唱」ならぬ「樹の名前三唱」はTVで見てしまったことがあります。各人、植える前に苗を持って大きな声で「思いを混めて」樹の名前を叫ぶという儀式です。

イベントですか。まあ、それくらいなら笑って…引くかもしれない(-.-)。

iw@saki さんより
>私は、宮脇理論?は、植林する際、なんでもかんでもスギ、ヒノキでなくその土地の植生にあった木も植えようよ、程度にしかとらえていません。

私も21haを育林中ですが、そういう気持ちです。一昨年、鹿児島の霧島市に宮脇氏がおいでた際は講演を聞き、植樹教室(植林ではなかったな)に行ったのですが、そこまで気持ち悪いことはしていませんでした。今度は水俣にもおいでですが、時間が合わず行けません。。。

何本木を植えたとかいう話も、素人のどうでもいい関心事であって、私の21haの中では植えなかった木(萌芽も実生も多数あり)が成育中で、本数は無数といしか言いようがありません。

沢畑さんですね。

私も、改めて近くで宮脇氏の講演を聴いてみたいですね。
本当にそんなこと口にしているのか、という疑問というか、希望的観測もあります。

「日本一多くの木を植えた男」というのは、出版社か売り出し側の付けたキャッチフレーズでしょう。と信じたい。。。

 こんにちは。

私の知り合いが書いた文章です。
http://thinkaomori.cool.ne.jp/040518symposium/kensho01.html

 私は明治神宮の森に1票です。今年見に行った、神宮の遷移を意識した森作りは素晴らしく思えました。

 
 
 

 

おお、私なんかよりも的確に、しかも理論的にまとめているではありませんか。
鹿糠耕治氏とは、何者?ですか。どこか研究機関に属しておられるようですが……。

宮脇氏の手法や発言について考えるのは、彼に任せて私は離れようっと(^^;)。

通りすがりの者です。
おじゃまします。ちょっと季節はずれに暑かったですがι(´Д`υ)おととい、行ってきました。
霧島で、植林。

過去にも 大分での植林に 2回行きました。
10年以上 前だったと思います。

そのときとは
変わってました。

木の名前を 叫ぶことは、鮮明に覚えていました。
先生もきらっきらしてました。
わたしは単純なタイプなので、 そんな儀式も楽しかったのです(笑)

が、今回は 手弁当のボランティア[ファン]を何回も自慢する。
そして、 木の名前を叫ぶたびごとに
市長 副市長 教育長 観光協会長 のみなさんを前に呼び、 その方たちがまず自分の名前を3回づつ叫んでから、
木の名前を叫ぶんです。

ただでさえ先生は遅刻して
その間市長さんの話聞いてたのに 時間のムダ、、

権力に すり寄って 予算や場所を確保したいのだろうか
などと、下世話な勘繰りをしてしまいました。

ひとは 変わるものですが、
これはちょっと残念でした。

やってらっしゃることは わたしではできないことで、
植林も10年計画がまだまだ続きますし 
また行くかもしれませんが、
植えるだけにしてほしいなぁ、、

うひゃあ。
木の名前だけではないのですね。
どんどん宗教化しているな。

近寄らないようにしよう。バカがうつる(~_~;)。

私は手入れされた里山林が好きです。クヌギは炭材として、コナラはシイタケ原木として販売することにより、生活の糧とする。落ち葉やキノコ等も収入になればそれを活用する文化。生きていくために、当然のことながら「活用」する考え方が好きです。ただ、シラカシもナタの柄などとしての活用法もあるので、すべて除去すべきだとは思いません。ともあれ、儀式に参加する気はありませんがネ。

私は,宮脇氏はエセ科学者だと考えています。これには二つの意味があります。一つは「エセ」科学者。つまりインチキな科学者。そしてもう一つは「エセ科学」者。インチキ科学をする者,です。二つは似たり寄ったりなので,どちらでも構いませんけど。

彼は著述活動と講演活動で生業を得ています。科学的な研究活動は一切していません。彼の研究業績リストが公開されています(内容がなかったので覚えていませんが,インターネットで検索できるし,横浜国大のサイトでなかったかしら?)。ほとんどが「植生調査」です。どこに何がどれだけ生えていたか,という調査です。それぞれの生き物が,その場所でどのような生き方をしていたか,という研究はほとんどありません。

彼の講演録のいくつかはインターネットで検索できます。長野県自然保護センターとか(確か)。でも,加藤諦三の著作と同様,著作も講演録もほとんどが金太郎飴で,一つ覚えのように繰り言をしているだけなので,どれか一つでも眺めれば,大体のことがわかります。

森林の在り様は確かに複雑です。でも,科学的評価は必ずできるはずですし,そのために日々努力されている方が多くいます。でも,その一方で思い込みや希望的観測だけでエエ加減なことがまかり通ってしまえる分野でもあります。環境保護活動家や,一部の保全生態学者はそれを,「自然観」と呼んでいるようです。自然観は個人に属することなので,批判・批評しても改まるわけがありません。いわば,思想信条でしょうか。私はある種のマインド・コントロールと考えています。単純なストーリーで大掴みに説明してみせることは,科学的評価の訓練ができていない多くの人々の心を鷲掴みにするでしょう。そしてマスコミが煽れば,社会的現実感が増します。劇場型民主主義,あるいは思考停止という,近年の世の中に蔓延する風潮がそのまま宮脇理論とやらを受け入れる素地となっています。上記のことは,ヨーロッパでは移民排斥問題となって表れています。恐ろしい限りです。ちなみに,宮脇昭は「理論」と標榜していますが,理論はどこにも見当たりません。標榜するには個人の勝手ですけど,あくまで自称です。また,本人は「本物・偽物」を面白おかしく語ります。何かのジョークなのかもしれませんが,私には理解できません。

宮脇昭の書籍を学生・院生に読ませ,問題点を指摘させるのは,科学的評価の訓練のために非常に価値があると考えています。いわば,疑似科学への免疫をつけさせるのです。そういう意味では,利用価値がきわめて高いといえます。「毒物」ですので,取り扱いは要注意です。でも漆職人だって,免疫をつけるために漆を飲むではありませんか。

ついでに述べれば,生態学関連のMLで3.11後になされた放射能被害の話題や,外来種問題をなんとかするMLで外来種ニセアカシアが話題になったとき,「科学はエンターテイメントだ」とのたまったナチュラリストがいます。以前,深層崩壊の話題の時に,「広葉樹至上主義者」とレッテルを貼られた某氏です。「疑似科学入門(岩波新書,2008年)」という本を著された池内了氏は,「ゲーム感覚で楽しんでいる間は何の問題もなさそうだが,実は知らず知らずのうちに信じ込んでしまう危険性がある」と指摘しています。ゲームもエンターテイメントも同じですね。未来を背負う若い人たちが疑似科学に毒されないよう,手立てを講じることは私たちに課せられた責任かなと思います。

騙されるのが悪い,という意見もあるかもしれませんが,それはちょっとどころかかなり違うと思います。

宮脇氏に関して疑問を持つ人は少なくないようですね。実は、私も彼の「業績」を知らないのです。何を研究して認められたのか、を。

では、なぜ彼の意見がこんなに世間に受け入れられるのか…単純なストーリーだから、というだけでは理解できない、何か心の琴線に触れる部分があるのだと思います。同じことは、熊森協会の主張などにも言えますね。
それを見つけて実行したら、私の本ももう少し売れるかもしれない(^^;)…けど、気持ち悪そうだな。

疑似科学、似非宗教など全般がそうかもしれないけど、そうした一部の人の心をつかむネタに対して、社会は何ができるのか。その一つは、おっしゃるような疑似世界に対する「教育」でしょうね。

余談ですが。
「漆職人だって,免疫をつけるために漆を飲むではありませんか。」

は本当ですかね。知り合いが漆掻き職人をしている時に、それを信じて飲んだら死にかけたと言っていました。

 

花粉症の人がスギ花粉を食べて治す、という話もありますね。漆とも同じアレルギーに対する減感作療法?とかいうものですね。

ただ、微量からスタートして徐々に行わないと危険です。医者もついていないと。ま、安易に真似しないでください(^^;)。

漆の喩はちょっと不適切だったかもしれません。

免疫は個体差がありますから,ある手法や医薬品が効く人もいれば,ほとんど効果がない人もいるでしょう。免疫関係ではありませんが,ある医者に,医療はアートであって科学でないといわれたことがあります。極論を言ったのでしょうが,びっくりしました。患者の反応を定量的に表すことは困難な場合も少なくないでしょうし,上述のように反応は人それぞれなので,おそらく芸術品を仕上げるように個々の治療法を築いていくということかもしれません。職人技,でしょうか。でも,その前に医学である以上,科学的知見を踏まえているとは思うのですが。


サイエンス畑の人間です.

推測ですがその医師の言うartはscienceに対置するタームとして入れたのでしょう.この場合のartは芸術というよりは技芸に近い言葉です.scienceではない,という表現は確かに過激ですが,そのお医者さんの分野はあまりに先進的すぎてEvidenceが充分でなく,患者さんの身体と対話しながらの職人芸的な部分が多くを占めたのかもしれません.

#それでも科学ではないというのは極論だとは思いますが

もちろん現実の医学(トンデモ代替療法は除く)は,効くという証拠を基に有効な療法を提供する形で行われています.ただ,それだけでは通用しない分があってそこが各医師のウデ/artの勝負どころだと捉えられているのかもしれません.

なお,医学におけるサイエンスはたまに誤解されることがありまして,効く理由がわかっていない医薬品や療法でも,疫学的(統計的)に効くことがわかっていてその副作用も特定できているならば,条件が合えば現場で採用されます.極端な例だと,癌霊一号ですね.

なんか最初の話題からずれてきました.そもそも漆は疑似科学に対する免疫獲得のたとえだったし.

強引に話を戻すと(笑),林業技術も,scienceに基づいたartなんですよね.

森づくり・林業は、科学ではない。。。という意見は、実は根強くあるのです。結局、経験や勘に左右される。「林業芸術論」というのも、戦前はあったし。

そういや、今西錦司氏は、晩年、生態学とか森林学を否定したんじゃなかったっけ。そして自然学を提唱したのだけど、それさえ最後は否定して、学問じゃないと言い出したと記憶しているのだけど。

学問とか技術、そして経験・勘などについては、私も意見を温めているところです。そのうち記してみたい。(結論が出るものではないけど。)

>学問とか技術、そして経験・勘などについては、私も意見を温めているところです。そのうち記してみたい

これは楽しみです.田中さんは林学科にいたときには同級生と夜通し「林学とは何か?」「よい森林とは何か?」なんて話していたクチでしたでしょうか.あがたしがいたクラス(理学部地学科)は,地球科学の論理や科学哲学・科学史について徹夜で語り合う集団でした.もちろん結論が出たわけではないですけど.

林学とは? なんてマジメな議論にはなりませんでしたが、「どんな森が好きか」とかは話しましたね。たいてい私か袋叩きになっていた(笑)。ちょっと過激だったかな。

それより「探検とは」なんて話の方が多かったかも(~_~;)。

本題からずらしてしまって済みません。

>宮脇氏の提唱する潜在植生を重視した森づくりは、小さな敷地(工場や都市公園など)の緑化技術にすぎない気がする。

まさにその通りだと思います。植生学とか生態学とか言いながら森林造成を試みているわけですが,たとえば種多様性を説明する「中規模攪乱仮説」といった理論などについては知らないと思います。学生に対して森林生態学の基礎すら講義できないでしょう。

>実は、私も彼の「業績」を知らないのです。何を研究して認められたのか、を。

一応,たぶん,「日本植生史」を編纂したというところが一番の業績なのかとは思いますが,ただし,研究者として業績と認められる原著論文はほとんどないといえます。確かにいくつかは英文でも書いているのです。しかし,たとえば

Miyawaki, A., 1999. Creative Ecology:Restoration of Native Forests by Native Trees, Plant
Biotechnology, 16(1): 15-25.

は,研究ではなく,「ほら見てみろ,宮脇理論に基づいてこんなにいろんなところに植えたんだぞ!」といった内容であり,宮脇理論がなんなのかすら分かりません。これは「国際生態学センター業績目録第1号」にも掲載されています(http://www.jise.jp/PDF/gyouseki.pdf#search='宮脇昭 業績')。これを業績とする感性が分かりません。せいぜい,普及誌でしょう。でも知らない人が見ると,「業績」の一つにカウントされてしまうのです。ところで,宮脇が長となっている「国際生態学センター」とは一体,何なのでしょうか。これも不可思議なものの一つです。また上記の目録には生態学研修のコースが紹介されています。でも,中身を見ると,植生図の作成と解析方法の講義だけのようです。もちろん,生態学を研究するにあたって調査方法の習得は必要です。しかし,植生図の作成と解析方法の講義から,「学」は得られないでしょう。

ちなみに私の職場の近くにも「イオン」があり,敷地の周縁に宮脇理論にしたがって植えられた木がたくさん生えています。しかし,日本はそもそも降水量が植物の生育にとって十分すぎるほどあり,酸性土壌とか潮風の強い場所とか,雪崩常習地だとかでない限り木は生えるのです。生えて当たり前のところに植えているだけです。しかも,在来樹種を植えることがまるで宮脇理論のオリジナリティのように主張されていますが,在来樹種を植栽するのは別に彼のオリジナリティでも何でもありません。

最近,スギなどの針葉樹人工林は里山の辺りあれば十分といった主張も見られますが,広葉樹至上主義者の主張と同様に,この考えは今以上に木材を外国に大きく依存することを前提に成り立つものです。結局,自分たちの好みの回顧趣味的風景を作りたく,そのためには他国に迷惑をかけても構わないということなのでしょう。

結局,生態学だの植生学だのと言いながら,宮脇は何一つ科学には貢献しなかったと思います。せいぜい,森林再生について一般大衆の意識を盛り上げたというところが彼の業績なのかもしれません。そのような意味で似たような「研究者」を何人か知っています。しかし,やはり彼らの原著論文にはお目にかかったことがありません。


え、「中規模攪乱仮説」を知らない?? 私の本でも10年以上前から紹介しているのに。種の多様性を説明する点で、現在の主流ではないでしょうか。お年だから、新学説を咀嚼していないのかもしれない。

私が宮脇氏を知ったのは、苗を植樹するのではなく、森林土壌を散布するだけで埋土種子により発芽し潜在植生が復活するという記事でした。それを技術として面白く思ったのです。
でも、専門家からすると当たり前のことだと後に知りました。

宮脇氏は運動家として業績があるのでしょう。たとえば「沙漠緑化」に果たした遠山正瑛・鳥取大学名誉教授のように。彼は謙虚な人柄で、好感持ったけどなあ。

日本の森林は,攪乱によって多様な樹種構成やモザイク的な相観になっていると考えられていますが(逆にたとえば雪崩常習地では攪乱頻度が高すぎて植生も単調になっている),それを知らないからこそ「鎮守の森」を唱えて常緑広葉樹を植えろと言っていると考えて差し支えないでしょう。

彼の言う潜在植生というのは,気温や降水量が現在のまま過去から未来まで続き,攪乱を受けない状況下において成立するであろう植生のことを言っているとしか考えようがありません。だから植生図を描くのです。それしか教えないのです。でも,そんな潜在植生なんて台風などの気象害が多い日本においてはありえません。安定的に見えるような今の植生が,遷移の途上にあるかもしれません。たとえば貴重だと思って保護している湿原だって,人為的な干渉がなくてもいずれ埋まるでしょう。それは10年後かもしれませんし,1万年後かもしれません。

私の最初の投稿で「エセ科学」を書きましたが,潜在植生なんぞは反証不可能なのです。科学ではありません。

森林内で大小の被害を受けて多様なサイズのギャップがあり,前生樹や萌芽などにによる更新があり,そのような更新も種子散布様式や光の利用効率の違い,ギャップ内での発生位置に大きく左右され,そして光をめぐる個体間競争を経て,時々の攪乱の影響を受けつつ,病虫獣害に遭い,ときに林冠層への到達に失敗して別の個体に置き換わり,もしかしたら更新からやり直し・・・というような複雑なプロセスがあって多様な樹種構成やモザイク的な相観になっていると考えられますが,そんなプロセスに思いを寄せられないから幽霊のような潜在植生を持ち出すのです。

自然を理解しようというよりは,自分の自然観をむりやり「本物」の自然に無理やりあてはめ,偽物だの本物だのを言っているだけです。

近年の生態学では、「極相」という考え方を否定していますね。いかなる植生も、刻々と遷移を続ける……環境の変化に対応するということだと理解しています。
ということは、「潜在植生」という言葉自体が、否定されつつあるのかな?学界では。

とすると、学界から宮脇理論について反応があまり表に出ないことに問題があるのかもしれません。

市町村の林業担当職員です。

私のレベルでは、たとえ科学でなくても、ある一定の目安のようなものは欲しいと、思っています。

自分なりに努力をしているつもりなのですが、なかなか追いついていけないです。

あと、住民のみなさんなど山を案内するときやイベントの時も、自信なさげに案内説明するわけにもいかず、自分なりの解釈でエイヤー的に案内していちゃったりします。

甘い考えかもしれませんが、ある一定の理論というか指針というか目安がほしいと思っているのが、現在の私の状況です。

世間には、一定の理論を説明しないといけないと思うのは同感です。
だからこそ、宮脇氏の「潜在植生論」はおかしいのではないか、と思うのです。

むしろ、大づかみでいいから「自然界は常に移り変わる。今の環境に適した植物も、数年後には環境に適さなくなるかもしれない」ということをお伝えいただきたいですね。
砂漠も自然なら、草原も人工林も雑木林も貴重な自然。原生林だけが大切ではないのです……という理論を世間に広めたいなあ(^o^)。

山にせっかく来ていただいた人に説明ばかりするのも、なんだかなー、って思ったりもします。

ただ、あまり現場に行く時間もなくなっていて、
気がつくと、これまでシカ(多分ですが)に食べられないとしていた(種られることが少なかったのかもしれません)ヤマアジサイとかアセビとかが食べられていたり、案内している方が発見したりして・・・・。

やはり、それなりの知識や経験がある人が”ちゃんと!”案内するのが一番なのかもしれません。そうは言いながら、そんなスタッフは田舎には特にそうは多くないのも現実で。

私のような、「なんちゃって林業担当」も、それなりの立ち位置を自覚して、みなさんのお役に立てるよう、なるべく現場に行って、書籍とかネットで得た情報と照らしあわせて、自分のショバの状況をわかりやすく、しかもある程度満足いただけるレベルで提供できればと思います。自分なりに評価や解釈をして・・・。

でも、防護柵が倒木で下がったところからシカが入って、壊滅状態にあった杉檜の山が放置され、植栽木の樹勢が弱まったところに下刈放棄が加わったためか、良い感じの山になっている林分を見たりすると、モニタリングと観察と比較とか重要だなあ、って思ったりします。偶然にもうちの役場から見えるんですよね、その林分。

いやいや鈴木さんの方がよっぽど現場を知っているでしょう(^o^)。

でも、現場どっぷりじゃなくて、少し離れたところからの視点も大切ですよ。

いえいえ、
私にとっては、原木から先は闇です。
今だに。

連携してくれる事業者さん(個人、企業問わず)から、教えていただける範囲の情報を積み重ねて、分類整理して、対応しとります。

私らは、甘ちゃんです、とまだ素直にいえてしまう状況。
一刻も早く、対等とまでは行かないにしても、迷惑をかけなくなるぐらいまで行こうと思っています。
なかなかホントのところの事情を話してもらえないんですよね。
当たり前ですけど。

思い出したことがあります。

恥を晒すようですが、
私の町のある計画のようなものの策定の過程で、担当者としての意見を求められました。
委員会原案に「自然の森林」という表現がありました。
人工林も自然だから、という考えで、「自然の」を取るように修正したところ(理由も書いて)再度「自然の」が入って最終案になったようです。

自然環境保全地帯(だったかな)という自然林(天然林)と天然生林を特に重視したいからという思いに基づく表現(文章化)なのだそうです。

私は、そうか、と思いました。
林業地帯ですらそういう状況。
都市部はなおさらだと思うのです。

人工林と人間生活と人間以外の生物(植物も動物も)の関わりは、ちゃんと話をしていかねければなりません。しかも、わかりやすく。その責任の一端を担っているのはまさに市町村の職員でもあります。一番近くにいる公的な役割の仕事をする人だからです。

>学界から宮脇理論について反応があまり表に出ないことに問題があるのかもしれません。

誰も触れたがらないということがあるでしょうが、科学ではなく、「エンターテイメント」の一種とみなされているのではないかと思います。触れようにも、本人は生態学会にしろ森林学会にしろ、研究者の面前で発表することはありませんし、宮脇理論とやらは反証不可能な思い込み要素が大きいので、疑似科学として啓発書などで発信するほかないのではないかと思います。でも、「エンターテイメント」である以上、そんなに目くじらを立てなくても、という意見は多数寄せられそうです。誰も死んだり健康被害を受けていないんだし、という理由で。

>ある一定の理論というか指針というか目安がほしいと思っている

自然再生とかいうことがブームの昨今、「じゃぁ、どんな植物を植えましょう?」といったときに、日本では宮脇がつくった「日本植生史」以外に参考文献がほとんどなかったことが、宮脇理論の蔓延を許した根本要因ではと考えています。

ところで、「理論」ですが、広辞苑によると、ア)科学において個々の事実や認識を統一的に説明し、予測することのできる普遍性をもつ体系的知識。イ)実践を無視した純粋な知識(中略)。ウ)ある問題についての特定の学者の見解・学説、とあります。多くの人は研究者が「理論」といった場合、アを想起するでしょうが、宮脇理論にアは当てはまりません。せいぜい言えて、ウの「見解」でしょう。そこら辺も、世間の誤解を招く要因の一つになっているものと思います。

>「潜在植生」という言葉自体が、否定されつつあるのかな

否定するも肯定するもないと思います。論文内の調査地概況を記載する部分で、周辺はこれこれのような植生である、と述べるときに日本植生史が引用されることがあるという程度でしょう。カレーライスの福神漬けみたいなものです。

「日本植生史」については役に立つ部分は利用し、それ以外は切り捨てるというのが懸命なやり方かもしれません(利用する部分は植生リストのあたりで、切り捨てる部分は考察の部分)。でも日本植生史も所詮は「点」の情報に過ぎません。植生は局地的に大きく変わる場合がありますし、古生物学者の知り合いからは、地表に見えない地層の変化は植生から推定すると聞いたことがあります。「鎮守の森」からは絶対に聞かれない説明です。現場現場で判断して行く他ないです。過去には現場に精通した現業の方々がいましたが、合理化やら何やらでほとんどいなくなってしまいました。いても、担当区域が広くなって同僚スタッフも少なくなった中で肌理細やかな管理は難しくなっているのが現状です。現場を見たことがないという行政の現場担当者に会ったこともあります。

林業再生の掛け声も最近は大きくなりましたが、何を再生するのでしょう。

そういえば、海岸林学会という森林学会の分科会みたいな(というと怒られるか)ところに所属している知人から、やはり宮脇昭は問題視されているという話を聞きました。雑草の研究者が知りもしない森林のことに口を出している、とか言われているそうです。


※すみませんが、しばらく日本を離れます。向こうでももちろんアクセスできるでしょうが、仕事が大変なので書き込みできないと思います。

「森林のあるべき姿は何か?」、あるいは「森林保全のゴール設定をどうしたら良いのか?」という問いのニーズが大きいのでは?
学者は「地域の皆さんでよく相談して」と答えるかもしれませんが、「潜在自然植生」以外に選択肢がないのでは、と思います。

潜在自然植生が科学の俎上に載っていないことはその通りですが、現実には多く使われており、科学的に評価される必要があります(里海も同様)。
と同時に、科学的な対案(例えば様々な自然立地条件と人為影響による植生変遷を予測する総合植生モデル)が必要でしょうね。
その意味では、学者が怠慢と批判されても仕方ないのでは。

植生学は過去の学問みたいに感じていましたが、リモセンとGIS、そして複雑な統計モデルとコンピュータ容量が発達した現代こそ、ネオ植生学として生まれ変わり、そしてwebGISなどを介して活用されるべきなのかも。

「潜在植生」をあえて定義づけるなら、現在のその土地(土壌、水分、気象まで含む)でもっともよく生育する植生ということになってしまうのでしょう。環境条件は、どんどん変化しますからね。

とすると、痩せ地には痩せ地に似合う貧栄養土壌に会う植生があり、裸地には光を求める植物が合うことになる。将来を見越して照葉樹林を植えるにしても、それらの木が今の条件に合っていなければ、育ちが悪いはず。まずは今の条件に合う草木を植えるべきということになる。

やっぱり植生学にも時間の概念が必要だな。

ほんとに最後です。

>その意味では、学者が怠慢と批判されても仕方ないのでは。

いやはや、その通りです。面目次第もございません。
ただ、少し考えていただきたいのですが、なんでも白黒つける、手っ取り早い回答を求める、わかりやすい意見を求めるという世の習い性が疑似科学の下地のひとつになっていることはよく指摘されています。池内了も中西準子も、自分の頭で考えることを放棄している風潮に警鐘を発しています。※「か」さんを責めているわけではありません。

>潜在自然植生が科学の俎上に載っていないことはその通りですが、現実には多く使われており、科学的に評価される必要があります(里海も同様)。

反証不可能なものは科学の俎上には載らないと思います。また、皆が言っているから正しい学説とはなりません。「潜在自然植生」は、思想です。「広い世の中、そんな考えもあるよね」くらいに思っていたほうが無難だと思います。この辺は冷温帯だから、ブナとかミズナラとかあるよね、でかまわないですよね。わざわざ潜在植生という言葉を出す必要はないでしょう。森林帯区分で十分です。
周辺の野山を観察し、人の関与の程度などの履歴も勘案しながら、どんな草木を用いるのが妥当なのか考えてゆくほかありません。潜在植生という思想も結構ですが、パーケージ化された概念というのは融通が利かないものです。もしかしたら、潜在植生という言葉を出すこと自体が、何かの免罪符になっていることがないでしょうか。「潜在植生と考えられる樹種を使った、何が悪い?うまく活着していない?それは工事を受注した業者が悪い!」そちらの方が気がかりです。事業主体の設計の不備を棚に挙げて、指示に従うしかない現場の責任にしてしまう。潜在植生とは言っていませんが、そのような現場をいくつか知っています。気の毒ですね。


そういえば、以前科学雑誌の仕事をしていたときに、似非科学的な本がベストセラー入りしたことがありました。編集者に、なぜ、それらを批判する記事を掲載しないのか、と言ったのですが、あまり乗り気ではなかったようです。

どうも科学者および科学を扱う人間は、こうしたトンデモを扱うのを忌避するキライがあります。しかし、科学ジャーナリズムを標榜するなら、真っ先に検証記事を書くべきでした。

今またトンデモが増えてきています。スピリチュアルから始まり、原発問題に絡んだ放射線関係まで。様々な分野に増える似非科学を放置すると、結果的に自らに帰ってくることになるでしょう。

はじめまして。
宮脇昭さんの「潜在自然植生」理論の問題点について、Twitter上での議論をまとめたTogetterを編集公開させていただきました。
今後、宮脇理論の問題点に関心をもつ方の刺激になれば幸いです。

▼「森の防潮堤」構想と宮脇昭理論の生態学上の問題点(2012年11月19日) - Togetter
http://togetter.com/li/410096
▼「いのちを守るがれきを活用した緑の防潮堤構想」説明会@陸前高田市(2012年7月31日) - Togetter
http://togetter.com/li/348348
▼宮脇昭理論(「潜在自然植生」)による森づくりをめぐって。(2012年11月6日) - Togetter
http://togetter.com/li/403075

 もはや「宮脇昭問題」になりそうですね。
さまざまな意見や理論があってもいいし、それがトンデモぽくても、ある程度は受容すべきかと思っていますが、「緑の防潮堤づくり」に関わると、実害になりかねないので、要注意です。

私は現在、東北地方の被災地で復興事業の計画に携わっています。その過程で、宮脇昭先生があちこちで「命を守る緑の防潮堤」を提唱しておられる場面に遭遇します。しかし、この方が提唱する「手間いらずで強い森」という考え方には強い違和感をおぼえます。特に「手間いらず」のところが気になります。結局、自然まかせにして人為が介在しないこと、つまり「手入れ」をしないことは、その地域に住む人たちの森や風景への意識を希薄なものとし、結局はコミュニティの劣化につながる気がしてなりません。このことは、次に震災が発生した時に、かなりマイナスに作用するのではないでしょうか。私は、しっかりと手入れされて健全に維持されている植生(潜在自然植生に対して、これを潜在社会植生とでも呼びましょう。雑木の薪炭林などもこれに相当します。)のほうが、減災には役立つと思いますし、手入れを通じて地域の人たちに共有される防災意識こそが、災害に強い地域をつくるのだと思います。


そもそも「潜在自然植生」だとする照葉樹を植えても、手間いらずとは思えませんね。津波に前環境が破壊されたところなら、照葉樹は育ちにくいでしょう。全然「強い森」じゃない。


ただ薪炭林だって人工林だって、現在は人との関係が弱まってしまっているので、必ずしも「潜在社会植生」が成立するとは限りません。コミュニティを意識するなら、「住民が好きになる森」「美しく感じる森」にしないとねえ。

「潜在自然植生」というのは、何なのか実体がよくわからない概念ですね。
きちんとした学会はほとんど無視していますが、世間は迎合してます。
ようするに世間に受け入れやすい考え方なのでしょうが、科学的な研究成果は見られないので、信じようがないというのが実情でしょう。

どうも日本人は信じたいものを信じる傾向があるようです。

例えば、もともとウラン濃縮は原子爆弾を作るための前処理作業でした。
ところが、いつの間にか平和利用だから、いいという事になり反対する人はいなくなりました。
もし、ウラン濃縮が平和利用のための原子力エネルギー利用であるというなら、どうしてアメリカはイランや北朝鮮のウラン濃縮に反対するのでしょうか?
彼らは、ウラン濃縮は原爆製造のための前段階であることを知っているからです。
では、日本のウラン濃縮とそれの利用としての原発はどうして許すのか、と考えると日米同盟があるのでウラン濃縮したプルトニウムを利用して爆弾を作ることを認めているからでしょうか。

国外から日本の原子力政策をみると、大量に蓄積されるプルトニウムをどうするか大変気になるのだと、思われます。いつでも、原爆を製造する能力を持つ国だからです。
つまり、私たちは一方では「原爆反対!」といいながら、平和利用するから原発はいいのだと信じて来たわけです。その矛盾が、3・11により明らかになった訳です。

学問的な曖昧さが横行すると、被害者は誰でしょうか?
分かりやすいからいいと言っていると、困るのは国民です。

田中さんがおっしゃるように、里山とは人間が管理して正しく利用しないと荒廃しますね。


高桑先生、学者だったんだ(^^;)\(-_-メ;)! いや失礼。
「潜在自然植生」に研究者・学会・学界がどんな目を向けているか、もっと世間に表明すべきだと思いますよ。

いわば林業の法正林と同じで、実際には条件が整うことはない理論上の概念でしょうね。それを現実世界に持ち込まれても、原子力のような二枚舌になるだけかもしれません。

宮脇氏の緑の防潮堤に関する批評記事をさがしていたところ、ようやくまともなものにぶつかったというのが実感。多くの批判が、ガレキを基盤とした造林地の強度に関する問題を指摘しているのですが、もとより、土木構造物の代替として緑の防潮堤が機能するなんてことにリアリティがないことは自明。それよりも、より生態学的、景観的、あるいは環境管理的な視点からの批評がほしかった。その意味で、このブログに掲載されている諸情報は、私にとってはとても価値があります。ありがとうございます。ただ、宮脇氏をエセ学者と評されている方々が、学術的な観点から批評されているくだりには、やや違和感もあります。エセ学者相手に学術論をふりかざしてみても、いささか空疎に感じてしまいます。失礼しました。

宮脇氏の主張および行動は、調べれば調べるほどガッカリしますね。

ある意味、宗教家になってしまわれた(笑)ので、学術的に批判するのは「ぬかに釘」の気分ですか。。

  >人為を嫌うわりには、照葉樹(など潜在植生の樹種)を植えたり、埋土種子入りの土壌をまきたがるのだが、


お答えします。宮脇さんが潜在植生を植える場合は現場の気候風土がその植物にマッチしているからでしょう。

>照葉樹林で暗くなった森を美しく感じるだろうか。

宮脇さんにも誰にでも美観が有ります。それは千差万別です。

随分昔の投稿へのコメント(^^;)。
 
気候風土がマッチしていたら、あれほど宮脇植林地が悲惨なことになっていないでしょう。

めずらしくまともなこと言うね。

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