奉天会戦と土倉家
NHKの「坂の上の雲」がいよいよ佳境である。
日露戦争が勃発し、昨日の回は、黒溝台会戦と奉天会戦から日本海海戦への道のりを描いていた。
次回の「日本海海戦」で、日本軍は歴史的完全勝利を納めるのだが、実はその直前までの陸戦では、基本的に日本軍が劣勢だった。それでも結果的には目標奪取に成功していたのは、ロシア軍の戦略ミスのおかげだろう。
そして、重要なのは、日露戦争の戦場となったのは、ほぼ中国(清)領土内ということだった。
さて、長く手がけ、度々ブログでも情報を小出ししているにも関わらず、まだ姿を見せない「土倉庄三郎」(T-T)に関するネタの中から、日露戦争に関するエピソードを紹介しよう。
庄三郎の次女政子は、外務省の欧米局長内田康哉と結婚する(明治32年)が、その翌年内田は清国公使として北京に赴任する。
そこで政子は、西太后と出会う。そして気に入られるのである。西太后は、各国の大使館員の妻らと交流はあったが、もっともべた褒めしているのは政子であった。政子は英語のみならず中国語も学んでいたらしい。
そして日露戦争が勃発し、清は自国領土を他国が争って戦うという情けない状況に陥る。一応「局外中立」を宣言し、遼河以西を中立区域として、両国軍ともそこに侵入しないように申し入れをしていたらしい。
そこで奉天会戦が行われるのだが、日本軍は兵力・火力ともにロシア軍に劣る。にも。関わらず包囲戦を挑んだ。そこで重要だったのは、乃木大将の率いる第3軍に西方から迂回して北に回り込む命を下したことだ。
乃木大将が凡将であったことは旅順攻略戦でも証明されているが、非常に難しい作戦を与えられたことを意味する。
が、問題は、そのルートが清が設けた中立区域を突破することだった。国際ルールに反したとなると、戦後処理も難しくなる。
が、清は黙認した。それは政子が西太后に働きかけたからだとされている。
この件に関しては、まったく証拠は残っていないのだが、戦後、当時の外交官が「土倉伝」を執筆した土倉祥子に伝えたという話が残っている。
その後、第3軍は、全滅寸前まで追い込まれたが、最終的にはロシア軍の撤退に追い込んだことで、会戦の帰結につながったのは事実である。明治38年のことである。
日露戦争後の中国との講和条約では、内田が小村寿太郎外相とともに担うが、そこでは日本が清に不平等条約を突きつけた。このとき、西太后は、そして政子は何を考えたのか記録に残されていない。
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内田は無能な外交官であった。
という人がいますよ。
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=128
投稿: 高桑進 | 2011/12/20 16:44
内田氏は、後に地外務大臣を3回もこなすのですが、業績は判断に困りますね。
日中戦争拡大慎重派から積極派に転向したりしていますからね……。
ま、清国との関係は政子夫人に負うところが大きかったのかもしれません(^^;)。
投稿: 田中淳夫 | 2011/12/23 01:44