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森と林業と田舎の本

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2011/12/03

「照葉樹が潜在植生」という嘘

現在書いている原稿のための調べごとで、潜在植生そのものに疑問が出てきた。

宮脇昭の潜在植生至上主義(^^;)では、照葉樹林こそ日本の潜在植生である、としているようだ。正確にそう発言・執筆したかどうかは確認していないのだが、潜在植生を復元すべきと言って、植えているのが照葉樹の木々ばかりなのだから、そんなに外れていないだろう。

たとえば
「本来の植生は内陸部ではシラカシなどの常緑広葉樹、海岸部はタブノキ、シイ等のいずれも照葉樹林が本来の姿である」
という言葉を発している。

この「大抵」の場所がどこを指すのか明確ではないが、基本は日本列島全域だろう。北海道、東北や南西諸島は外すかもしれないが。。。

しかし、最近の古生態学や考古学的な研究によると、弥生時代には温帯針葉樹林が種類・量とも多いという結果で出ているのだ。
西日本の日本海側では、スギの優占する針葉樹林、内陸部でも照葉樹にスギやヒノキが多く混じっていたらしい。

実際、近畿の山々では、戦後の植林が進む前は、スギのほかモミやツガ、トウヒ類も多かったらしい。多少標高は高いが、1000メートル以下であり、高山を理由にするには無理を感じる。

そして1000年くらい前から人為が入って植生が変化してくる。主にアカマツ林や落葉広葉樹林が増えてくるのである。

となると、潜在植生至上主義(^^;)の立場からは、もっとスギやヒノキを植えるべきではないか。照葉樹ばかり植えては潜在植生にならないのだ。

「その土地本来の潜在植生は、『鎮守の森』を調べればわかる。大抵、シイ、タブノキ、カシ類の木々が茂っているはずだ」

鎮守の森、つまり神社などの境内の神の森は、人が畏れを感じて手を付けなかったから、昔のままの植生(これを潜在植生とする)が残っているというわけだが、これにも疑義がある。

なぜなら、鎮守の森も、案外最近まで平気で伐採してきた記録が見つかっているからだ。

それどころか、境内の木を伐ったり、草を刈る、落葉を集める権利を、近隣の農民などが取り合ったらしい。木材はもちろん、草や落葉は堆肥にするためだ。そして、マツ林の場合は、そこで採取できるマツタケも入札で販売していた。

そうした神社仏閣は、決して例外ではなく、かなり大きな寺社でも行い、収入源にしていた。これは寺社に残る文献のほか、明治大正時代の土地利用図にも乗っているという。

だから、鎮守の森の植生も、照葉樹林どころかマツ林のほか落葉樹も多く、結構「荒れて」いたらしい。その反動からか、そこでは造林もしていた。

なんだ、これでは何が潜在植生かわからぬではないか。

では、なぜ今、鎮守の森は照葉樹林と思い込むようになったのか。それは、日清日露戦争後、満州など大陸部から大豆粕が肥料として輸入され始め、落葉の堆肥の需要が減ったからではないか、という仮説も立てられている。ほかに魚肥もあるだろう。

こうした仮説が正しいのかどうか、私には十分に判定できる材料はないが、私の小学生時代は、畑の肥料としての大豆粕について語られていたのに、現在は忘れられて、堆肥からいきなり化学肥料になってしまっているのは感じている。

いずれにしろ、戦前は結構荒れていた鎮守の森が、戦後は一般の里山よりも早く「放置」が進み、その結果遷移が進んで、登場したのが照葉樹林だと言えるかもしれない。これが潜在植生と言えるのかどうかは、まだ年数が短すぎる。もしかして、照葉樹林なんぞ、遷移途中の代替植生かもしれないぞ。

スギの純林が潜在植生だったりしたら、さあ、どうする? 現在の山こそ本来の正しい植生だ!! と主張してみたい(^○^)。

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コメント

江戸時代中期に近畿や名古屋近辺での換金作物(綿花など)の栽培が盛んになったことから、そのために必要な肥料として北海道のニシン粕が開発されて北前船ルートが開拓されたみたいですね。
その後、ご指摘のように日清日露戦争後の旧満州産大豆粕の流入があり(鉄道敷設の発達による輸送拡大もあるみたいです)、そしてハーバー・ボッシュ法(空気中の窒素をアンモニアに転換)の発明によって登場した人工肥料による天然肥料の駆逐が、第二次大戦の前当たりに起こったようです。
日本の農地は、面積あたりの肥料投入量が世界トップクラスらしく、日本の人口が爆発的に増加した明治末から大正期にかけては、食料増産のために、北海道開拓等と並んで肥料の確保が重要な国策だったようです。
多分、船舶輸送もこの頃にかなり盛業になったのではないでしょうか?

産業構造や消費エネルギーの変遷と、里山の利用というのは、当然ですが深く結びついているんですねえ。

ニシンや煮干しも、昆布も、元は肥料ですね。それを拝借して造ったのが、正月のおせち(^o^)。ああ、カズノコもそうだ。人間の肥料にもなったようで。

結局、肥料が足りないころは、鎮守の森であろうが、手を入れていたのでしょう。

どちらにせよ、本来の植生に戻るには500年はかかるそうです。

おっしゃる通り、いつの年代の鎮守の森を基準にするのかにより違いますよね。うちの近所の神社の森には、全国や海外から献花された植物が生えています。
でも、貴重な地域の植生が残っていることも確かです。

森はしばらくさわっていないので 弱ってきているように思います。植生には気をつけて、以前のように人の手で的確に更新させてあげる事が 実は 鎮守の森を持続させるのに大切なのではと思う昨今です。
何十本とある樹齢何百年の杉の木は、もうボロボロです。人も生物多様性の中の一種だという事を 自然を守ろうという人が、なぜ理解できないのか 不思議です。

このネタは分かりにくいですね。潜在自然植生の定義をきっちりしてから語らないとすれ違いが生じます。

 言いだしっぺの最初の本を見ますと、ブルで押した土壌は赤松が潜在自然植生だと書いてあります。その後なんだか違いますが・・・。

 私の理解すべき中では(専攻ではない)、その瞬間にもっとも生育出来るもの。いわゆる遷移とかではない、その気候、土壌、水分、栄養の素に判断出来る植生の大雑把な構成。言いだしっぺが用いる園芸樹種や明らかに外れた樹種は違うかと思います。
 
 言いだしっぺのお弟子さんは、東京の舗装下では潜在自然植生は苔だと言っておりましたので、何となくそうだと思います。
 
 皆さんはどう解釈しているのでしょうか?面倒なので適地適木で良いんじゃない?と勝手に考えています。ちなみに取り巻きに首絞められた時もあり、信者はやばいです。あっ私は田中信者でした。


そもそも潜在植生という考え方が中途半端で、気象だけで育つ植物が規定れさるわけではないのです。
たとえば「ブルで押した土壌」はアカマツが適しているのなら、それが適地適木です。そこに照葉樹を植えても育たない。
アカマツや、その後に来る落葉樹が育って土地が肥えてきて、初めて照葉樹の出番なわけです。

ちなみにコンクリートのような舗装地からの遷移の始まりは、苔より地衣類だと思いますよ。
よし、私は「地衣類教」を創設して、信者を募集しよう。人数が増えたら「苔教」に、つぎは「コナラ教」だ(^o^)。

人が手を入れない土地と言うと身近なのが大きな川の河川敷だけど、残念ながら河川敷で針葉樹を見たことは一度もないなぁ。ガキの頃から釣りが大好きだからしょっちゅう川行くけど。

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