グローバル化と縄文時代の商人
いきなりナンだが、グローバリズムの本質を考えると、遠くからものを運ぶという行為抜きに成り立たないということに気づいた。
世界を均一化して、どこでも同じ基準で、同じものを手にできる……ということは、遠くで作った品を世界中に流通させることが前提だからだ。
これこそ、貿易・交易のスタートだったはずだ。これは、一般論で言えば、決して悪いことではない。新たな情報に接して、これまで地元になかった品を手にできることなのだから。つまりウィンウィンの関係である。
ところが、なぜ現在のグローバル化は、弱肉強食的に、地域ごとの特色を奪い、一部の者が権力も利益も独占する体制を築くことになってしまったのだろうか。
まず、いつから交易という行為が始まったのか。
近年の研究に寄ると、縄文人も交易をしていたらしい。それも、かなり広範囲である。たとえば、石器の中でも黒曜石は非常に重要な素材だが、この産地は限られている。そして、成分分析すると産地がわかるそうだ。
そうしたら長野県の黒曜石が関東一円に広がっていることがわかってきた。これは一人の縄文人が、たまたま移動したレベルではなく、交易で広く流通させたことを想像させる。
さらに三内丸山遺跡から出土した翡翠の産地は、新潟県の糸魚川周辺だったこともわかっている。長距離輸送を行ったのだ。そして、これは長い時間をかけて人の手を通じてリレーのように渡って行ったと考えるよりも、翡翠を扱う商人が遠路運んだと想定した方が無理がない。おそらく貨幣のように、価値ある品として代償物資と交換したのだろう。そこには交換レートみたいなものが必要だし、売り手市場・買い手市場が存在しただろう。
とすると、日本のグローバリズムは、縄文人が発祥ということになる(笑)。
重要なのは、ここで黒曜石や翡翠を運んだ者は、何らかの利益を得たと推測できることだ。言い換えると、運ぶことによって品物の価値を上げたのだ。長野県の交換レートは、ドングリ10キロだったものを関東まで運ぶと20キロになるとか。糸魚川では鮭3匹の翡翠を三内丸山まで持っていくと、クリの実100キロと奴隷が2人オマケでついてくるとか(^^;)。
これは、貿易の原則なのだ。江戸時代だって、ヨーロッパのものが日本に持ってくると数倍の価値になったから、南蛮人は貿易をしたがった。
ところが、現在のグローバリズムにおける物の移動は、なんと遠くから運んだ物の価値の方が地元産品より安くなる。だから地元産品を駆逐できるのだが、利益も低いから量で勝負せざるを得ない。
この移動の経済学については、改めて考察したいと思っているが、これがグローバル化の元凶ではないか。全体の利益は薄くなるから、儲かるのは、ごく一部の人に限られてしまうのだ。だが、動く金が少なければ、経済は縮小に向かうだろう。結果的に世界経済は行き詰まる。一時的に経済をバブル化させて儲かるように見せても、すぐ虚の利益は弾けて消える。
やはり縄文人の商人を見習って、遠くまで運んだものは高く売らねばならぬ。
さて、木材産業のことを考えると、輸送こそがネックである。
木材は重くて嵩張る。鉄や銅などの鉱石も重いが、粉砕して砂のように加工して輸送するから嵩張らないが、木材はそうはいかない。できる限り、太いまま、長いまま山から下ろして、次の工程に進まないければ価値を減ずる。それでいて素材(マテリアル)だから、価格はあまり高くできない。
そう考えたとき、木材ほどグローバル経済に似合わない商品はないのではないか、と気づいた。それなのに、外材を畏れるのは、どうもおかしくはないか。このおかしさを正すところに、ヒントがあるように思える。
この当たりをウィンウィンのグローバル化を考えるトバ口にしたい。
« 「土倉庄三郎伝」執筆宣言 | トップページ | 修羅から考える移動経済学 »
「森林学・モノローグ」カテゴリの記事
- 麻布中学の入試問題(2025.02.07)
- 沖縄のジン(2025.02.04)
- 『看取られる神社』考(2025.02.02)
- 日本最大級のバイオマス発電所(2025.01.31)
- 「BARish」のお味(2025.01.27)
木材は重いので、できるだけ現地で商品としてから運搬するが一番ですね。
その意味では、割り箸が一番効率的ですね。
もともと端材で捨てる部分を活用して食器にしたわけですから。
したがって、製材所に隣接して木製品工場、ペレット工場、家具製作所などがあり、ついでに木製品のショップまで作り、お客さんを観光を兼ねてつれてくるセンターが一番効率的ですね。
どうです、田中組長!
今年は、一つやりませんか(笑)
持続可能な木材活用プロジェクトのブログ上でのデザインコンペでも?
投稿: しゃべり杉爺 | 2012/01/07 09:33