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森と林業と田舎の本

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2012/02/17

瀬尻の段々茶園に思う

コメント欄で、静岡のお茶の話題が出たので思い出した。

先の天竜では、こんなところも見た。

1


瀬尻の段々茶園という。


「瀬尻」という地区にある茶畑なのだが、この急峻さはなんなんだ、と言いたくなる。

、「静岡県棚田等十選」にも選ばれているが、その斜度は約65%にもなるそうだ。

築かれたのは、今から50年ほど前で、つくった人は今も存命中(80代)。ほぼ独力で5、6年かけて段々を築いたというから、意外と早いという気がした。

当時は、静岡も茶の栽培ブームだったのだろうが、とても不可能と思える急斜面の山肌にも石を積み上げ、茶を植える労力を厭わなかったのである。


3



段々は、こんな感じ。ほんの1列だ。棚田よりもすごい。
人はどこを歩いて世話をし、また茶摘みをしたのかと思ってしまう。

ちなみに水力の索道が敷かれており、道具類や収穫物は、それで上げ下げしていたようである。

私が驚いたのは、単に壮大な段々茶畑だからではない。当時の景気を考えても、これほどの労力を費やして生産した茶は、労力に比すほどの収入をもたらさなかっただろう、ということだ。

段々の畑地の枚数は、40枚だそうだ。そして総面積が0.4ヘクタール、つまり茶の栽培面積も同じである。これを築いた労力だけでなく、その後ここで茶を栽培・収穫する手間も考えると、絶対に赤字だろう(^^;)。

それでも、築いたのだ。

働くことに意義があったのではないか。急だから生産できないと思わず、つくることに生きがいを感じていたのかもしれない。

現在の森林経営も、そんな心意気で守られている気がする。絶対にペイしないことを感じつつ、育林を続ける林家も多い。それは、もはや木材生産が目的ではない。

その思いには敬服したくなるが、日本の人工林が、いつか産業の記憶遺跡扱いされることがあるとしたら……それもなんだかなあ、と思ってしまう。

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森林学・モノローグ」カテゴリの記事

コメント

すごい茶畑ですな。
もちろん、儲からないかもしれませんが、無農薬で有機栽培なら、高くても買う人がいるかもしれませんよ。
瀬尻の段々茶、とか命名してほしい。

今、無農薬で無化学肥料のお茶が求められています。
インターネットで探したらありました。価格はとても高いですが。

この斜面なら太陽光がよくあたり、いいお茶が出来かも。
一度、この瀬尻の段々茶の試飲会をしませんか?

この段々畑を入れるために棚田”等”十選って名前になったんでしょうか!? すごいですね。

確かにペイしないことを感じつつですが、まだまだ捨てたもんじゃないぞって淡い期待(欲)も持って山に向かってます。

それに遺跡になってしまっても、わざわざ”等”までつけて十選に選ばれたり、ジャーナリストさんが来てブログで取り上げてくれるくらい、立派な人工林にしたいじゃないですか。

お茶は水はけなども関係しているせいか、信じられないような急斜面に段を作らずに茶園になっているところはほうぼうあります。

牧之原のような平らな所が羨ましくなりますね。

日照時間も太陽光のあたり具合も微妙に茶葉の出来に影響します(ながければいいというわけではありません。寒暖の差が大きかったり、山霧や川霧で日照時間が短縮されたほうがいい場合もあります。いわゆるワラかけ)。

それにしても、この写真の茶園はエグイですね。

私なら、速攻で何か他のものにします。

でも、おそらく根っこを抜けないのでは?石垣が崩れるかもしれません。

施肥もしにくいでしょうし、敷き草も入れられないでしょうし、土も必要以上に乾燥しそうだし、収穫にしにくい。

そのような中でもこれを築いてきた。
私は、それは生活をするすべが他になかったからだろうと思います。
今みたいに遠くまで移動できないし、情報が溢れているわけでもない。
地域で知っている情報や手段の中で自分ができる最良のことを選んで家族や子供を食わしていこうとしたのだと思うのです。

ですから、景観や何やらで我々を惹きつけるものがあるのですが、ご本人にとっては生活そのものだったのだと思います。

今、森林整備計画を作っていますが、ちょっとした作業で全部の林小班
を森林簿上でチェックする作業をしました(恐ろしい作業ですね)。
気になるところを森林計画図でもチェック。位置と面積と樹種と所有者と林齢と施業制限とかそんなのを見ながらやる作業。なぜか、高齢級の林分が集中している所があると思えば、どう考えても出せないところ。でも、そこが90年生以上だったりすると明治終期から大正時代の植栽なんだろうと思いを馳せたりしました。一生懸命やったんだろうなあ。

そうかと思えば、何でこんなとこまた植えちゃったんだよ!30年ぐらい前に!という林分も(あくまでも森林簿と図面での話)。でも、その頃代価が良かったんですよね。今でこそそう思うのですが、その頃にはそれぞれの事情っていいうものがあるのではないでしょうか。

そんなこともあって、A森林組合さんのコメント、首のほねが折れそうなくらい立てに首を振ってしまいます

お茶の木を大きくならないようにして石垣を守ったのでしょうか。
たしかに、あまり品質のよい茶は収穫できないかもしれません。いずれにしても、損得でなく、生きるために築いたという言葉に激しく同意です。

おそらく日本人の労働感には、そうした働きつくり上げることに意義を感じる心性が根っこにあるのです。それが土地の記憶となり、感動を呼ぶ。きっと金銭に替えがたい誇りという収穫を得たと思いますよ。

だから限界集落も、棚田も、そう簡単に滅びない。

水を差すようで申し訳ないのですが、茶畑は環境負荷がとても大きいです。
窒素肥料を1t/ha投入していて、しかし茶自体が窒素吸収能力が低いので、吸収率は10%程度です。
結果、牧ノ原あたりでは硝酸濃度が異様に高い河川があります。
土壌が窒素飽和している畑も多いみたいです。
最近は経費削減と環境負荷低減を目指して肥料削減技術が開発されつつあるようですが、半分にしても・・・
もちろん水清くして魚住まずということもあるので、集水域内での茶畑の割合が大事です。

江戸の昔には「お茶は高級品で外貨を稼ぐ優良産物品として各国が挙って名産品にした」とどこかのサイトで見た記憶があります。
50年前にも高級品だったとしたら、費用対効果はありそうですが・・・。
なにしろ、ほんの50年前まで「スギを植えれば、銀行預金より儲かるから」とせっせと木を植えてた実績がありますから・・・

茶園に限らず、環境負荷を低くする努力はしなければなりません。

現在、500キロ前後だと思います。
緩効性肥料への転換や有機への転換も進んでいます。

集水域の茶畑の割合とは、どれぐらいが目安なんでしょうか。
田んぼはどうなのでしょうか。
他の畑はどうなのでしょうか。

お茶は、そもそも加工が伴う農作物ですから、保存アイテムや輸送手段が昔のような状況でも流通しやすく、換金性が高い農作物でした。

しかも、農業面、加工という工業的側面、小売という商業的側面まで併せ持つ、第6次産業の走りのような感じ。
ですから、川根はかなり潤っていたようです。

「か」さんのコメントでは、色々な農作物、その他人間が耕作したりしている場所の中で茶畑の環境負荷がとても大きいとおっしゃられているようで、お茶産地の者としては心外な部分があります。

茶畑「だけ」が環境負荷が高いのですか?

生産者は、気がついてきて様々な努力をしていますし、環境負荷をなるべく少なくしようとしている生産農家がいることを是非知っていただきたいと思います。

産地によっても取り組みが若干異なりますけど、そして事実なら仕方が無いですが、茶畑だけを悪者にしないで下さい。お願いします。

環境配慮型の農産物が価格的にも評価されつつありますし、消費の求めも増えてきているみたいですから、そのような方向になっていくと思っています。

追伸です
一流のお茶農家は、やはり土の大切さをわかっていますよ。

一時的に化学窒素に頼っていたことも事実です。

でも、わかっていたんですね。

土(土壌微生物や細菌などを含む)と根と日照など、自然にどう向き合うべきか。

兼業農家はなかなかそうは行かなくて、肥料や農薬に頼る傾向にありますが(私は農業部門を弟=専業系 にお願いしてから、茶園がだいぶ良くなってきたようです。有機分の投入も増えているみたいです。)、それでもみなさん努力をしているみたいです。
そもそも、そうしないとお茶を買ってもらえませんから。
窒素に頼ってきた茶づくりからそれを半分にしての生産で質(いわゆる味や色)を維持しようとするのは大変です。窒素に頼りながらも有機を投入していた人は割りと対応できているかもしれません。必要性も高まってきています。

このあたりは、どの産業も同じですね。

何れにしても、消費者の考え方や情報収集は鋭いですし、勘違いもされないように生産、販売側がしっかり説明する

お茶の旨味を出すためには窒素肥料の多投入が必要と言われていますが……日本の農業は、どんな作物でも基本的に肥料過多とされています。ある意味農家の勉強不足でもあるのだろうけど、これは日本的集約農業の宿命ですね。コツコツ直していかねばならない。
ゴルフ場の農薬の例で言えば、努力によって40年前の10分の1くらいに減らせたと言いますから。

お茶は嗜好品ですから、昔から高値を呼ぶ商品が生まれましたが、お茶の生産が伸びたのは、幕末の開国後ですね。ヨーロッパが莫大な量を買い取りましたから。50年前はどうかなあ。洋風生活指向が広がりだした頃だから、高値だったかどうか……。

かなり儲かっていたみたいですよ。

後は干ししいたけ。

私は、干ししいたけで大きくなりました。
あと、ヤブキタ(お茶の品種)とはちょっと異なるサヤマカオリという品種の茶園で。収量が多く、摘採しやすいのです。

この収入での生活に親父が見切りをつけたのが、我家の場合は約30年前です。だいたいその5年ぐらい前から考えていたようです。

我々兄弟の学費は概ね山林所得でまかなっていた部分もあります。

山に関しては、今だに、平成8年ぐらいの立木取引の成功が忘れられずに、山をもう一度やっていこうという話のたびに、自慢話として出てきます。


鈴木さんの身体は、干し椎茸とお茶でできていたんですね(~_~;)。あと、一部に木部。いや、現在も木質化が進行中……。

全然関係ないですが、たまたま金原明善の資料を見ていたら、植林に目覚めて土倉庄三郎に教えを請いに行った後、最初に植林したのが瀬尻のようです。辻五平という人が取り組んだみたい。
つまり、瀬尻は金原の天竜林業発祥の地になるのかな?

茶畑40枚で0.4haということは、1枚あたり1a! この幅で1aもあるということは、よほど長いのですね。農地面積より石垣面積の方が広いかもしれません。

ここまでして茶畑を作る根性はすごいと思いますが、石垣積み教室を開催してわかったことは、石垣積みの作業そのものは面白いということです。儲かるとか農地を広げたいという欲求の他に、石垣積みが面白いという要素も少しはあったのではないでしょうか。

たしかに石垣面積(垂直だけど)の方が広いかもしれません(笑)。

石垣をつくる快感論には一票入れたいですね。同じく農業自体が、植物を育てる快感に負っている面があると思います。単なる食料生産ではなく、生命を育てる快感にめざめたところから、人類は進化したのです。(NHKの「ヒューマン」見たよ(^o^)。

茶畑の施肥量は、他の作物に比べて著しく高いです。

http://www.nkk.affrc.go.jp/soshiki/soshiki07-shigen/01shigen/pdf/sekkeitohyouka/1-3.pdf
の、6ページ目を参照してください。

海中では窒素固定生物は少ないので、水中での光合成のためには陸(と雨)から供給される窒素が重要というのが一般的です。
ですが、河口が入り江になっている場合(=外洋に面していない場合)には富栄養化が起きやすいなど、いろいろな要因があるので、全国一律に「茶畑は集水域の何%まで」ということは決められません。
このあたりは研究が進んでおらず、課題と思います

とはいえ、負荷の発生源として茶畑に着目する必要はあると思います。
今後は、GISを使って地域の実情にあわせた負荷量の計算が出来るようになればと考えています。

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