田中 淳夫: 虚構の森
世にあふれる森林を巡る環境問題。そこで常識と思っていることは本当に信じていい? 地球上の森は減っているのか、緑のダムは存在するのか。る? 地球温暖化に生物多様性、SDGsに則しているのか? 異論から考えると別世界が見えてくる。
田中 淳夫: 獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち (イースト新書)
シカ、イノシシ、クマ、サル……獣害は、もはや抜き差しならない状態まで増加している。その被害額は1000億円以上?しかも大都市まで野生動物が出没するようになった。その原因と対策、そして今後を見据えていく。
田中 淳夫: 絶望の林業
補助金漬け、死傷者続出の林業現場、山を知らない山主と相次ぐ盗伐、不信感渦巻く業界間……日本の林業界で何が起きているのか?きれいごとでない林業の真実を暴く。
熊崎実ほか編: 森林未来会議―森を活かす仕組みをつくる
現役林業家、研究者、行政万……など10人の著者が、日本林業の問題点を分析しつつ、未来に向けての処方箋を示す。海外事例も含め、希望を語っている。
有坪 民雄: 誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来
消費者はもちろん、学者も官僚も農家自身も、農業について全体像をつかんでいない。だからピンぼけ……。これは林業にピタリと当てはまる!
保持林業―木を伐りながら生き物を守る
保持林業とは新しい言葉だが、欧米を中心に世界で1億5000万ヘクタールの森で実践されている施業法だという。伐採後の生態系回復を早めるために行われるこの手法、もっと日本に知られてもよいのではないか。
田中 淳夫: 鹿と日本人―野生との共生1000年の知恵
奈良のシカは赤信号に止まる? 鹿せんべいをもらうとお辞儀する?カラスがシカの血を吸っている? 彼らを観察したら、獣害問題の解決の糸口も見えてくるはず。
山川 徹: カルピスをつくった男 三島海雲
カルピス創業者三島海雲の評伝。彼は内モンゴルで何を見たのか。何を感じたのか。その夢を乳酸菌飲料に結実させた足跡を追う。土倉家の面々も登場する。
田中 淳夫: 森は怪しいワンダーランド
森には、精霊に怪獣に謎の民族、古代の巨石文化が眠っている!そう信じて分け入れば遭難したり、似非科学に遭遇したり。超レアな体験から森を語ればこんなに面白い? 読めば、きっと森に行きたくなる!
村尾 行一: 森林業: ドイツの森と日本林業
林学の碩学とも言える村尾行一の林業論の集大成か?
ドイツ林業を歴史的に追いつつ比べることで浮かび上がる日本林業の大問題と抜本的な処方箋
田中 淳夫: 樹木葬という選択: 緑の埋葬で森になる
広がりつつある樹木葬。今や世界的な潮流となる「緑の埋葬」となる、森をつくり、森を守る樹木葬について全国ルポを行った。
田中 淳夫: 森と日本人の1500年 (平凡社新書)
日本の森の景観は、いかに造られたのか。今ある緑は、どんな経緯を経て生まれたのか。日本人は、どのように関わってきたか…。今ある景観は、ほとんどが戦後生まれだったのだ。今後必要なのは「美しさ」である!
田中 淳夫: 森林異変-日本の林業に未来はあるか (平凡社新書)
21世紀に入り、激動の変化を見せ始めた日本の林業。この変化を知らずして、日本林業を語るなかれ。果たして森にとって吉か凶か。そして「大林業」構想を提案する。
阿部 菜穂子: チェリー・イングラム――日本の桜を救ったイギリス人
もはや桜の故郷はイギリスだ! と感じさせる衝撃の書。ソメイヨシノ一色ではない多様な桜を守っているのは日本ではないのだ。そして日英交流史としても第一級のノンフィクションだろう。
田中 淳夫: ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実
ゴルフ場は自然破壊? それとも現代の里山? このテーマに再び取り組んで『ゴルフ場は自然がいっぱい』を大幅改訂して出版する電子書籍。
谷 彌兵衞: 近世吉野林業史
吉野林業の誕生から江戸時代までの発展の歴史を緻密に描く目からウロコの著
田中隆文: 「水を育む森」の混迷を解く
森は水源涵養機能がある……と古くから唱えられてきた。しかし、科学的に証明されたわけではない。人々の思想や政策の方が先んじている。その歴史的展開と、野外科学のジレンマに焦点を当てる。
ヨアヒム ラートカウ: 木材と文明
人類と木材、ひいては森との関係を壮大なスケールで描いた大著。ヨーロッパが中心だが、目からウロコの記述がいっぱいである。
清和 研二: 多種共存の森: 1000年続く森と林業の恵み
最新の生態学の知見から林業のあり方、今後の進むべき道を提言する。多様性豊かな森こそ、安定していて収穫も多いことを思い知る。
村尾行一: 間違いだらけの日本林業 ―未来への教訓―
村尾林学の決定版! 眼からウロコが落ちるだけでは済まない。これまでの林業観を否定をして受け入れるか、読まなかったことにするか……。
田中 淳夫: 森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯
三井財閥に比肩する大富豪として、明治時代を動かし、森林の力によって近代国家を作り上げようと尽力した山林王・土倉庄三郎の生涯を追う。そこから明治時代の森林事情が浮かび上がるだろう。
太田 猛彦: 森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)
森林水文学の視点で、日本の森林事情の変化が国土にもたらした驚異的な影響を語る。もはや森林だけを論じている暇はない!
田中 淳夫: 日本人が知っておきたい森林の新常識
森林ジャーナリズムの原点。森林や林業に関わる一般的な「常識」は本当に正しいのか、改めて問い直すと、新しい姿が広がるだろう。そして森と人の在り方が見えてくる。
日本の森を歩く会: カラー版 元気になる! 日本の森を歩こう (COLOR新書y)
森林散策ガイド本だが、第2部で7つの森を紹介。全体の4分の1くらいか。私が記すとルートガイドではなく、森の歴史と生態系をひもといた。
田中 淳夫: いま里山が必要な理由
名著『里山再生』(^o^)の内容を一新した改定増補版。単行本スタイルに変更し、美しくなった。里山を知るには、まずここから。
田中 淳夫: 森を歩く―森林セラピーへのいざない (角川SSC新書カラー版)
森林療法の成り立ちから始まり、森が人の心身を癒す仕組みを考察する。森の新たな可能性を紹介した決定版。 全国11カ所の森林セラピー基地のルポ付き。
田中 淳夫: 割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)
割り箸を通して見えてくる日本と世界の森林。割り箸こそ、日本の林業の象徴だ!
田中 淳夫: 森林からのニッポン再生 (平凡社新書)
森林・林業・山村は一体だ! その真の姿を探り、新たな世界を描く
田中 淳夫: 日本の森はなぜ危機なのか―環境と経済の新林業レポート (平凡社新書)
かつての林業は木を売らなかった? 真実の日本林業の姿を紹介し、現状と未来を俯瞰した目からウロコの衝撃の書。
田中 淳夫: だれが日本の「森」を殺すのか
誰も知らなかった?日本の林業と林産業の世界を描いた渾身の1冊。
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昨日の朝日新聞奈良版に、ちょっと驚きの記事が。
まずは読んでいただければよいのだが、奈良町情報館というのは、藤丸君という学生が起業した株式会社地域活性局という会社の窓口。(もちろん、もう彼は卒業しています。)
山村と観光地を結びつけて地域を活性化しようというのが狙いだ。実際に吉野を歩いて、川上村の高原野菜などに目をつけて直接仕入れて、奈良町で料理店に卸すなどしている。そして割り箸の販売もしていた。
その地域活性局が、首都圏まで営業の手を延ばしたのだ。それも割り箸というアイテムで。
すると、次々と注文が取れた。その理由は、「安いから」。これまで吉野の割り箸は、いくつもの問屋を通って高くなっていたが、直販するとかなり安くなる。1膳5,9円で扱うらしい。この価格は、中国産よりは高いが、その品質を見れば、十分に戦える値段となった。これまで10円以上するケースだって普通だった。
これは、ちょっとした眼からウロコである。
「品質がいいから高くてもいい」あるいは「箸は食べられたら安いもので十分」ではなく、「品質がよくても許容価格があり、その範囲なら多少上乗せしてもよい箸を使いたい」だったのだ。
これって、値段設定が間違っていたということ?
ようは、コスト・パフォーマンスだ。品質差と価格差が釣り合わないと売れないのだ。これまで、その割合を間違っていたのかもしれない。
中国産元禄箸が原価1円以下なのに対して、同じ品質(元禄箸など)の国産箸に3円つけていたら、売れない。かといって天削・利久箸など高級箸だから差別化だと言って10円という値段をつけても売れない。
もちろん、箸袋などで工夫して20円~50円で売るケースもあるが、それは例外的な付加価値だろう。
そこそこ安くすると売れるのかもしれない。もちろん、製造価格を下げては何にもならないので、流通コストの削減が重要だろう。生産者と小売り店を直に結ぶか、産地問屋が直に消費者(外食店)と結ぶか。
まだまだ国産割り箸に可能性があることを感じる。
ちなみに東京の営業を回っているのは、緊急雇用対策による男性3人。みな震災被災者だそうである。
ところで、割り箸に関して拙著のお知らせ。
来月より、ちくま新書の拙著『割り箸はもったいない?』は、配本が中止される。つまり本屋では買えないということだ。ネットも同じ。現在の店頭在庫が尽きたらオシマイである。
私は、可能なかぎり買い取って直接販売するつもりである。直販だから、マージンを省いて安くしようかな(^o^)。と言っても中身が同じではいけない。そもそも5年前の本だ。
何か付加価値をつける。サインする(^o^)。それくらいなら朝飯前だが、あんまり喜ぶ人はいないだろうから、『割り箸最新事情』増補版をつけることにした。鋭意執筆する。できるだけコストを抑えるため、製本せずにコピー印刷で済ましたい。
……というようなことを考えている。具体的に決めたら、また報告する。
以前、生駒山でのツリーハウスづくりに参加したことがある。
だが、会議を開いた直後から私は猛烈に忙しくなり(^^;)、ほとんど作業に参加できなかった。ようやく身体が空いて出かけると、建設は途中で止まってしまっていた。
木の上にデッキを張るまではできていたのだけど、その上のハウスに相当するものは作られていない。飽きたのか? それともヤバイ事情があるのか? 私はあえて深く追求しなかった(^o^)。
で、この前、あのツリーハウス(未満)を使って遊んでいいかというと、かまわないという。しめしめ。私は、何の労力も費やさずにツリーハウス(未満)を利用できるのである。
デッキがあれば、小屋は難しくてもテントを張ってもいいし、デッキに寝転がるだけでも気持ちよいだろう。木の上で野点もできるかも……。
そう思って訪れると、何か様子がヘン。
デッキまで登ってみると、あらら、傾いているではないか。
よくチェックすると、デッキを支えるコナラの大木3本のうち1本が倒れている。
昨年は台風もあったし、冬も暴風雨が幾度かあったから、揺さぶられて裂けたのかもしれない。
幹周りは1・2mくらいはある太いコナラだが、倒れるときは倒れるものだなあ。
問題は、倒れるときにデッキと固定している一部を引きちぎって、さらに周りの足場もへし折ってしまったことだ。
こりゃ、素人が一人で修理するのは厳しいなあ。
折れたところにつっかい棒を入れようとしたが、足元が斜面の上に、かしいだデッキを人力で持ち上げるのは無理だ。
このままだと、金属の足場も徐々に崩れるだろう。まあ、壊れたら壊れたでいいのだけど、ちょっと残念だなあ。それまでの間は、傾いたデッキの上でこわごわ寝っころがるしかないな。
とりあえず今日は、チェンソーで倒れたコナラをぶつ切りにして整理。木の下の広場を片づけた。いい薪が採れましたぜ。燃やす所ないけど。しいたけ原木にもなるよ。駒打ちのシーズン終わっているけど。
棺桶の素材は何を使っているだろうか。
大昔の古墳などから発掘されるのは、石でつくった棺桶、つまり石棺である。(ただし、つくったのは支配者階級だけだろう。)一般には土器、つまり陶器だったことが遺跡からわかる。もちろん木棺も少なくなかったようだ。
木棺の場合には、コウヤマキがもっともよいとされた。皇帝・王クラスの人物の棺桶に使われていたそうだ。コウヤマキは日本特産なのだが、百済の王墓からも出土するところから、古代に日本から朝鮮半島へ木材輸出があったことを想像させる。
今でも、高級さを売り物にするものには、チークや黒檀の棺桶もあったと聞く。
一般的な天然木棺(無垢の木材による棺桶)は、主材がヒノキ、モミ、キリなどが用いられる。最近はスギ製も登場しているそうだ。
安いものとなると、合板の表面に天然木(キリが主流だそう)のツキ板を貼った棺桶も少なくない。さらに安上がりとなると、木目を紙に印刷したプリント合板棺、合板の上に布を貼った布張り棺もある。
ここで、棺桶の材質に人は何を求めるのか考えてみた。
昔は、土葬が普通だったから、水に強く腐りにくい木を選んだのだろう。コウヤマキやヒノキは典型だ。モミは朽ちやすいが白さが葬式に向いていたのかもしれない。キリは、軽いから?
しかし、棺桶が腐りにくい材質を求めるのは、何故だろうか。死者の甦りも期待して、遺体の入った棺も長く保つことを求めたのか。しかし、「日本人の土に帰る」という思想からは、どこかおかしいように思う。
そして現在では、火葬である。ならば、どんな棺桶も数時間後に燃やして跡形もなくなることが望ましい。木材なら基本的に燃えるものだから、そんなに樹種を選ばなくてもよいはずだ。死者には触覚も嗅覚もない。
あえて言えば、遺族にとって見映えのよい木ということになるだろうか。
最近は段ボール製の棺桶も登場している。環境に優しいことを謳っているが、燃やして消滅させることを考えれば、段ボールで十分と言えばその通りだ。燃えやすく、資源の無駄にもならない。
しかし、得てして遺族は、棺桶に死者の格を求める。合板とか段ボールでは、死者が浮かばれないという感情が先に立つことが多いのではないか。
それを否定する気はないが、そこで割り箸を思い出した。割り箸は、割って数十分後に食べ終わり捨てることがもったいないと騒がれ、プラスチック箸が普及したりする。
しかし、割り箸は食事という人間の生命活動プラスの食文化に関わっている。唇や舌に触れる材質がプラスチックか無垢の木かは、心理的に重要であり、大きな機能を果たしていると考えられるのではないか。
ここで気がつくのは、棺桶に対する思いと正反対の意識が働いていることだ。捨てるんなら、燃やすんなら、段ボールでもいいわけだ。高級材をあっさり焼却することは、割り箸以上にもったいない。
しかし、死者を送る感情は稀少な高級材を求める。これは食事の際に美しい割り箸を求めるのと同じ感覚ではないか。
裏返しの意味だが、割り箸に反対する人は棺桶に木材を使うことに反対しないのだろうか。段ボール棺桶で十分ではないか、と。しかし、日本ではあまり普及しないようだ。(段ボール棺桶を開発したのは欧米らしい。)
このところの感情をうまく理解してコントロールできれば、割り箸に多少とも高級材を使うことの意味を理論武装できるように思うのだが。
本日は、ちと夢想の文明論。
総合地球環境学研究所(地球研)が、インダス文明に関する研究を発表している。
インダス文明というのは、世界4大文明の一つでありながら謎だらけの不思議な世界である。
モヘンジョダロとハラッパーの遺跡は有名だが、遺跡は大河から離れた砂漠や海岸にも分布する。つまり大河文明ではないのだ。
そして重要なのは、どこの遺跡にも王宮や王墓は見つかっておらず、巨大な建造物もないということだ。ほかのエジプト、メソポタミヤ、黄河文明には巨大な権力機構としての王・皇帝の存在が欠かせないのに、まったく異色なのだ。
地球研では、強大な権力を持つ王は存在せず、交易のために人が集まって都市をつくった、と推測する。交易の場所が都市となり、少数の権力者が全域を統べるのではなく、ネットワークをつくっていた文明だったのではないか、というのだ。
文明が衰退したのも、雨が多くなって川が氾濫して農業に適さなかくなったので都市を捨てた……つまり戦闘などで征服されたり内乱で衰退したのではなく、環境に合わせて移動したという説を立てている。つまりインダス文明は滅亡せず、各地に分散して、それぞれが違う文明に進化したことが想像できる。
この新しいインダス文明の姿が正しいかどうかはわからないが、私には非常に未来的な姿に感じた。王のようなリーダーの権力や宗教的な力に頼るのではなく、各都市が自由につながり全体を機能させ維持するシステム。それを支えたのが交易ネットワーク……情報と流通というのは、まさに現代社会が向かう方向のように思う。
そして、このシステムから連想したのが、サルの群れだ(笑)。
野生のニホンザルの群れには、ボスがいないことを知っているだろうか。ボスザルの存在という概念は、動物園もしくは餌付けされたサルの群れから観察されたことで、野山のサルにはリーダーはいず、てんでバラバラに行動する。それでも各者の情報交換はあり、全体としては群れ行動を取っている。しかし、いやになれば離れていくサルもいるし、常に群れは棲むのに適したところを求めて移動する……。
そして、さらに連想したのが、かつての山村社会なのである(大笑)。
なぜなら、かつての山村は平地の権力(国)に必ずしも従わず、各村が独自の運営が行われていた。貧しいというイメージも平地の米文明の偏見であって、実は山野の資源は豊かだった。木材はもちろん、薪というエネルギーに鉱山資源、そして鳥獣、漁労など。ときにその資源を平地と交易することで、利益を得ていた。
ただ、村自体の人口は少なく、全体を統合するリーダーは登場しなかった。だから、最後は平地の政権に牛耳られるのだが……。
ときに中央政権への反逆者を迎え入れ、たとえば南北朝時代を演出したように、リーダーを求めることもあったが、いずれも失敗する……。そして近代になると平地との融合が進み、山村文化圏も消えたり別のものに変わっていく。
なんてことを、頭の中で考えてみたのである。
5000年前に未来的な文化圏と政経システムをつくり上げながら、巨大な武力を備えた封建国家体制に飲み込まれたインダス文明。しかし、地球規模で流通が進み、各地の自治独立が叫ばれる現代こそ、再び甦らせる価値があるのではないか?
同じことは山村文化圏にも言えるかもしれない。そして飼育ニホンザルの再野生化も考えられる?(^0^*
イマドキ、強力なリーダーを求めるのは時代遅れなのである。
久しぶりに土倉庄三郎について書きたくなった。
土倉家は吉野の林業家で、当然山林は吉野(とくに川上村)に持っていた。その面積は最盛期で9000ヘクタールに及んだという。が、それだけではない。実は全国各地に造林しているのだ。さらに息子が台湾に1万ヘクタールの借地をしている。
吉野には、借地林業と呼ぶ伝統がある。土地を借りて植林し、その後育てる間の管理権は植林者が握る。ただし立木一代限りで、木を伐採して収穫したら利益を所有者と折半して土地は返す……という方法である。このために、法律でも立木権が認められている。いわば所有権と利用権の分離であるが、この応用で全国に植林したのである。
庄三郎の吉野外造林の手始めが、群馬県の伊香保だ。庄三郎はその土地を見て十分地味が越えているのに木がない状況(おそらく過伐で禿山になっていたのだろう)を嘆き、群馬県知事に申し込んで造林することにした。そして1200ヘクタールを借り受ける。
その対象の村はOKした。が、周辺の村で反対運動が起きる。土地を貸して木を植えられたら、土地そのものも取られてしまうと感じたのだ。また造林されることで入会権がなくなると、草や薪などの採取が制限される心配もある。(この採取が禿山をつくったんだと思うけど。)
村長の息子が、反対運動を煽った。息子は当時大学生で東京住まいだったのだが、庄三郎の造林の話を聞いて帰郷して反対運動を展開した。
結果として、庄三郎は造林をあきらめ、代わりに官林200ヘクタールに造林した。
ここでは、吉野の山林王もよそ者扱いであり、いくら地元に利益がもたらせると説明されても納得せず、土地が取られると疑心暗鬼に陥ったのである。
……なんだか、今の「外資が日本の森を」と似ていると感じた(笑)。無価値に等しい森林に結構な値をつけて買ってくれるというのだ。オイシイ話ではないか。
しかし、よそ者が土地に手を付けるのを嫌がるのだ。別に同郷だってあくどい輩はいくらでもいるのに、それには目をつぶり、見知らぬよそ者を排斥する。昔は有名な山林王でもダメだった。同じ日本人だってダメ、外国人なら大変な騒動になっただろう。
さて、伊香保の後日談。
約20年後に川上村の土倉邸を訪ねた男がいる。衆議院議員であった。彼は庄三郎に面会を申し込むが留守だった。彼は、かつて伊香保の造林を反対した村長の息子だという。
今となっては官林200ヘクタールは緑濃い森が出来上がり、間伐材で収益を上げているのに、地元は禿山のまま。あの時の反対は間違いだった、と謝りに来たのであった。
ところで、借地林業、もしくは立木権をもう少し考えてほしい。これは逆手に取れるのだよ。
そこにある立木の権利を抑えたら、土地の所有者も手が出なくなる可能性があるのだ。
事実、ゴルフ場建設の反対運動で、吉野の借地林業にヒントを得た立木トラストが行われた。わずか数十本の木でも、立木権を設定されたら、開発業者は土地に手を付けられなくなり、撤退を余儀なくされたのである。
外資に森林が買われるのが怖ければ、水源の立木権を抑えたらどうかね。その木が枯れたら知らないけどね(^^;)。
いや、そもそも外資に売るのは立木権だけにしておけばいい。立木一代限りは、外資に森林が使われるが、木がなくなると、権利を喪失する。もし、よからぬことを外資が始めたら、こっそり薬をまいて木を枯らす(笑)。それで森林はもどってくるよ。
クマハギだけでなく、シカ害にイノシシ害と、獣害が爆発的に増えている。それは林業被害を越えて山村被害、いや農山村圧迫、そして農山村限界化へと進めている。
実際、農山村では、農業被害がひどすぎIrjw〔原因で、人が住まなくなってきた。高齢者のような年金生活者は、農作物で利益を上げるというより、自家用であり日々の楽しみでもあるが、それが失われることで集落を去る事態が進行しているのだ。
米や野菜を自給しているから「年金でも生活できる」状態が、全部購入するとなると金がいるだけでなく、そもそも買う店が近くにない。そして収穫ができなければ農作業も続けられなくなる。
そこで登場するのが、「食ってしまえ」案。イノシシ肉はもちろん、シカ肉も商業ベースに乗せることで、現金収入化を図り、さらに駆除を促進しようという発想だ。
ヨーロッパでは、ジビエと呼んで、野生動物の肉が人気ではないか。日本でも、もっと野生肉の需要を増やせば、狩猟で収入を得ることができるからハンターも増えるだろう……。
そこで長野の久保田淳さんの話を思い出した。
彼は、「狩猟肉の販売促進が、駆除数を減らすかもしれない」と指摘していたのだ。
というのは、ハンターが狩った動物は、たいていその場で解体して血抜きなどを施して肉にされる。さもないと、味が落ちるからだ。しかし、その肉は、流通させられない。食品衛生法だとかで、ちゃんと資格を持った人がしかるべき設備において解体しなければならないからだ。
狩場の近くに資格者と解体設備を揃えたところがあるのは珍しいだろう。
兵庫県丹波市に「丹波姫もみじ」の名でシカ肉を加工する施設がつくられ、ハンターが撃ったシカを買い取っているが、それは希有な例だ。ここだってシカの状態を見て買い取る。内蔵を弾丸がぶち抜いたようなシカはダメなのだ。
これまでは、ハンターが山の中で処理し、それを身近な人におすそ分けしていた。御礼を受け取って売買になったとしても、それは内輪の話。
だが、大々的にジビエです、とか言ってシカ肉などを販売しようとすると、この内輪の売買まで規制されてしまう。そのためハンターは利益を得られなくなり、駆除しなくなる可能性がある……。
なるほど、である。それに、衛生面だけでなく販売となると安定供給が求められるだろう。コンスタントにジビエが入荷しなければならない。
となると、シカを狩猟で仕留めるより、養殖した方が確実だ。野生鹿の飼育(^^;)。そのうち飼育していたシカが逃げ出して野生化したりして。本末転倒だ。
(実際、シカ肉販売していた業者がヨーロッパのアカシカを飼育して逃げ出した例がある。こうなるとシカ害どころが移入種の遺伝子汚染まで引き起こしかねない。)
私も、シカ肉をいくら販売しても、たいして量は捌けずに駆除も増えないだろう……と想像していたが、それ以上に難しい問題が潜んでいるのだなあ。
先に紹介した、民主党の森林・林業調査会。会長に菅直人前首相が就任したのだが、今度は、副会長が決定した。
なんと、辻元清美! 3月23日に自身のブログで発表している。
http://www.kiyomi.gr.jp/blog/2012/03/23-2249.html
えええ、??? という人事ですなあ。彼女が森林・林業に興味があったという話を聞いたことがない。
ブログの記事によると、大都市制度等ワーキングチームと民主党憲法調査会総会に出席し、民主党東日本大震災対策本部の福島対策室室長代理に就任、「休暇のあり方検討プロジェクトチーム」座長就任、国会の「中小企業対策議員連盟」に参加決定、金融経済関係の勉強会に参加……との中に、民主党「森林・林業調査会」の副会長に就任したとある。
まあ、1日の仕事の中で決まった一つの出来事なのだろう。
それでも、森林林業調査会では、
「私は先日たちあがったバイオマスを推進し、観光や環境の観点からも林業を見直していこう、と考えている。若い技術者の雇用確保など、林業全体の底上げに、時間をかけてじっくりとりくんでいく。」
とある。やっぱり、バイオマスと来たか。産業というより環境、観光か。うん、時間をかけてね。
ま、期待しときましょ。
昨日の読売に対する記事と対抗させるつもりはないが、21日の朝日新聞夕刊に、クマ剥ぎに関する記事が載っている。
母子熊が人工林の樹皮を次々剥いでいく映像が撮れたのだという(群馬県桐生市。約15分間)。しかも2頭が2日で430本もの木の皮を剥いだというから、凄まじい。
これ、撮影中に追い払えなかったのかね…と、林業家の気持ちになって思う。映像に研究的価値はあるけど、辛いよなあ。
クマがスギやヒノキの樹皮を剥ぐ行動は、昔から問題になっていたが、なぜかははっきりわからない。ただ、この時期に甘い樹液があるのは事実だ。本記事では、「夏の稔りの前の餌不足の時期に利用する」としているが、はたしてどうだろうか。ちょっと疑問。
人工林だって辺縁部には雑木雑草が生えており、餌はそれなりにあると思うのだけど。むしろクマの嗜好品になっているのではないだろうか。ポテトチップみたいに、止められない止まらない、状態で齧るのかも(~_~;)。
ともあれ林業被害は2010年度で1167ヘクタールとされ、20年前の6倍だという。そして、DNA解析から母子熊が樹皮食文化を伝播させているのではないか、というクマ剥ぎ文化説も登場する。
クマも、食べるものは親から教わるのか? クマ社会の智恵も学習で引き継いでいくという仮説は、科学的には非常にそそられるテーマだけど、林業的にはあんまり役立ちそうにない。
禁煙が難しいように、一度覚えた味を止めさせるのは至難の業だ。いっそのこと餌付けして、樹皮が食べられることを教えないようにするとか、樹皮にハバネロやコールタール塗って無理やり食わせて、不味いと学習させるとか(~_~;)。
ただクマ剥ぎの増加は、単純にクマの数が増えたためだと私は思うけど。
ところで先日の奈良であった講演では、長野県職の久保田淳さんがドイツやアメリカの事例を紹介してくださったことを記したが、実は彼の現在の役職は鳥獣関係である。あれほど熱心に海外まで視察に行って、木材振興に取り組んできたのに、昨年春に転属させられてしまったのだそう。
人材を大切にしない公務員の世界(~_~;)と思わぬでもないが、それでも新たな部署でも熱心に取り組まれているようだった。
そしてシカやクマの害についても説明し、映像も見せてくれた(主にシカ)。そこには、電気柵をものともしないシカや、あっさり柵を飛び越えるシカが映っていて、一筋縄ではいかない動物と獣害を見せつけていた。
私は、思わず「クマは増えているのか減っているのか」と質問したのだが、答としては「わからない」だった。増えているらしい証拠もあるのだが、減っていそうな地域もあるからだ。
しかし、冒頭の母子熊のように、たった2頭でも、これだけの被害を出すのだから、頭数管理だけでは解決しない問題だなあ。
昨日の読売新聞(大阪本社版)1面に、こんな記事が載った。
正直、まだやってんの? という気分。昨年も、かなりの煽り記事が氾濫したが、3・11以降は消え去ったと思っていたら、まだ凝りもせず……。よりによって、1面だよ。新聞の顔にこんなヨタ記事載せるとは、ある意味勇気がある(嘲笑)。
この記事の内容に新味はない。ただ、奈良県の宇陀市森林組合に森林を買いたいという男たちが現れた、というだけである。
そして疑心暗鬼に想像を膨らませて、「奥深い森を買う目的は水しかない」。
これに対する反論は、もう飽きたので止めとく。もし本当に高値がつくなら、森でも水でも売った方が儲かるのに。どうせ林業では赤字抱えているのだろうから。
あえて楽しむとしたら、表になっている「外国資本による森林取得の事例」。北海道以外は、笑いがこみ上げる面積だ。神奈川県は0,6ヘクタール!(^0^*
それにしても、読売新聞の質は落ちたなあ。昔は、朝日・毎日との読者層の違いはあれど、それなりの切り口の記事を載せていたのに、今や原発を再稼働させよ! 憲法を改正せよ! と庶民の気持ちから遠い記事ばかり。あげくに噂レベルの反中国路線だ。
きっと、こうした世論を煽る何らかの意図があるのだろう。でも、レベル低すぎるよ。
今回の記事だって、土地ブローカーが森を買いに来たというネタを受けて、ここから取材をスタートしなくてはならない。森林組合を訪れた人物を追いかけて、彼らの正体と目的などを探るのが新聞記者の仕事ではないのか。もし本当に外資がバックにあるなら、そこまでたどり着けよ。何も取材せずに、推測(というより、妄想)を書きつらねるのなら、素人でもできる。この記者、新聞記事を書くイロハを知らないのかね。ああ、記者の前に会社員だものね。上司のお気持ちのままに従いますか。
思えば、私が初めて取材を受けた(大学時代、ボルネオ遠征に関して)のは読売新聞の記者で、その後もおつきあいがあり、シンパシーも感じていたのにな。もはや見るも無残である。
限界集落株式会社 黒野伸一著 小学館
を読む。話題作だから知っている人も多いだろう。私も、読もう読もうと思いつつ、後回しになっていた。が、読み始めると、ぐいぐい読んでしまう面白さ。軽いタッチながら、結構描かれる田舎の姿が本当ぽい。
一応、紹介lしておくと、ルポではなく小説。帯には「地域活性エンタテイメント!」とある。
冒頭、主人公の優が亡くなったおじいさんの故郷、今は限界集落化した田舎にBMW乗って帰ってくる。もともと銀行で再建屋としてならし、さらにIT企業でバリバリやってきた男だ。退職して、次の事業を始める前の骨休め的気分で、小学生以来の田舎に帰って来たのである。
そこで田舎の現状と人に出会い、それなりに辟易するのだが、ふとした近所の小学生との会話から、この村の立て直しに挑む・・・・・となると、つい想像するのは、都会のエリートが意気込めば意気込むほど頑迷な田舎に振り回されて……というストーリーだが、見事に期待?は裏切られる。
産業振興どころか集落を潰して撤退させたがっている役場の産業振興課とやりあって、図抜けた企画力と人心掌握力でリーダーシップを発揮し、大車輪で集落営農に取り組む。主な仲間は、農業研修に来た訳ありの3人と、地元の農家の父娘。
この20代の娘・美穂こそ、もっとも農業に熱心というキャスティングもいいし、野菜漫画によるブランド化を進めて秋葉原にウケルなど、今風のアイデアも展開される。
物語は限界集落をブルドーザーでならすがごとく進み、どんどん事業は大きくなっていく。人が変わり、地域が変わる。それは痛快でカタルシスさえ感じる。そして訪れた最大の危機に優は、そして村人はどう対応するか……と、最後は涙ぐむエンディング(~_~;)。
ただ小説のストーリーから離れて私が考えさせられたのは、現場と理念(経営)のぶつかり合いだ。
優と美穂は、二人代表体制なのだが、ことごとくぶつかる。それを示すのが、優の
「お前は現場至上主義者で、おれは新自由主義を信奉する典型的アメリカ型経営者だ。お前は生産を重視するが、おれは収益を第一と考える」
という言葉だ。
実際、優は農作業をしない。してはいけない、と思っている。現場を知ると、しがらみや思い入れができて経営判断を誤るというのだ。
私も、現場至上主義は嫌いだから、この言い分にはニヤリとした(笑)。現場にこだわればこだわるほど大局が見えず、改革を拒む。理屈より目に見えない情念や手業にこだわってしまう。そしてじり貧なのに、後ろ向き。
とはいえ、反対もマズい。現場を見ようとしない理論(経営・施策)も埒があかない。
各地の林業地を訪れて耳にするのは、中央の現場の知らないままの机上の論理である。(もちろん、林野庁のこと。)あきれるほど知らない。いや、全国の現場を回っています、という人もいるのだけど、でも知らない(笑)。だって、視察なんかで、本当の現場なんかは見せないもの。視察団の喜ぶところだけ見せる。
そもそも現場を知ったら政策がつくれないかと思っているんじゃないか。いや、知っても知らないふりをしているんだな、きっと。だって、現場は例外だらけで画一化できず、それに目配りすると全国の林業地に向けた理念(政策)にならなくなってしまうから。そのため現場を訪れても、わざと目をつぶっている(笑)。
現場が、「同じ予算でもっとよい方法がある」と提案しても、たいてい握りつぶされるそうだ。だって変更するのが億劫だから。ほかの地域と違うことをしたくないから。
というわけで、現場と理念の対立は根深いのである。
では、どうすりゃ現場と理念が融合できるのか。それは本書でも読んで、各人が考えていただくしかないだろう。優がどのように変わったか。美穂が何を考えたか。
ちなみに、私も立場的には理念の側に立っている。ただ、現場も回る。見る。体験する。(余談だが、かつて朝4時から車を走らせて吉野の山の中に通い続けて現場作業に参加させていただいたことで、今も取材対象の林業者が心を許してくれる面はある。)
だが、常に頭の中では突き放しているのですよ。現場がいいということは、悪いということは本当か。それは単なる慣習にすぎないのではないか。思い込みじゃないのか。思考停止していないか。世間の流行や風潮に騙されていないか。「昔の智恵」なんて、間違いだらけだと思っておかないと。
同時に、机上の理念なんてのも現場で起きていることからすると、薄っぺらな念仏にすぎない。正義とか公正とか平等とか協調・共生……そんなもんと関係なく、別のベクトルで動いとるのだよ。理不尽さがいっぱいなのが現場なのだ。あまりシロクロ付けずに、まずは現場をうまく動かすことを考えた方がよい。
小説の中で、優はいう。農業なんて「典型的な不採算部門」で、経営立て直しのためには最初にぶった切る部分なのに、「復興に乗り出してるなんて、自己矛盾」だと。矛盾を感じても、取り組んじゃったのだ。
まあ、林業も、山村も、いや国家だって、そんな矛盾を抱えて動いているのかねえ。
……なんだか、最後はぼやきになってしまったぜ。
今日は、午後から頭をゆるめようと、ラッキーガーデンに。
まだ冷気は残っていたが、庭の席で一人たたずむ。ここで人生について考える(^o^)。
頭上に樹冠を広げる桜の木には、花のつぼみが膨らみつつある。目の前には生駒谷と、その向こうの奈良盆地。若草山がわずかに見える。
そこでスリランカのミルクティを。
さて、この庭のテーブルを見ていただきたい。これは手づくり。ティの下はガラスが張ってあるのがわかるだろうか。
拡大すると、こんな感じ。
巨木の一枚板だけど、古くて穴も空いていて、一部腐っていて、そこにコケやシダが生えている。
ガラスは、その穴をふさぐために、店のオーナーが魚の形に切り取って置いたもの。
無理にコケやシダを毟り、腐った部分を削らなくても、こうするとオシャレになる。それどころか光があたってコケもシダも枯れない。もちろんテーブルとしての機能も果たす。
フツーなら、チップにしかならない材も、うまく利用している好例である。
もうすぐ桜が咲けば、ラッキーガーデンのもっとも稼ぎどき……もとい、賑やかな季節となる。棚田では、新たなクラインガルテン築く動きもあるし、みんな動き出している。
私も、山中に作り出したまま放置されているツリーハウス借りる約束をした。独り占めだぜ。ふっふっふ。
ちなみにオーナーは、スリランカで新たな事業を展開するべく、動き出している。家族も、アチラに移住させた。国として、スリランカは穴場にして狙い目。東南アジアとインド、そしてアラブと経済成長圏とほどよい位置関係にあり、しかも仏教国。形だけの内戦のため投資家の目が向かなかったけど、なかなかの好条件だ。
私も、計画に一口乗ろうかなあ。今年、スリランカに行けたらいいんだけど。
まずは、写真を!
なんと、吉野杉のケースをつくってしまった。
大阪の日本橋(ニッポンバシ)を歩いていたら、ふと目についたショップ。なにやら木製品が並んでいる。そこでふらりと入って覗くと、そこはスマートフォンのケースを売る店だった。しかも、木製である。
remoeraという名の会社の直営ショップだったが、木製ケースをつくってくれるのだ。
大半が外材だが、下段の右にあるのが、ケヤキ、吉野檜、吉野杉の柾目、吉野杉の板目。さらにナラもある。
つい、お店の人と話し込む。会社は、堺市にあり、もともとプラスチック加工を行っていたそうだ。そこで、木材をプラスチックのように成形できないかと考え、プレスする技術を開発。そしてスマホのケースを商品化したのだという。
方法は、熱と圧力で変型させる圧縮木材の技術の応用のようだが、針葉樹は割れやすいので、裏で樹脂を注入しつつプレスする方法をとるらしい。それをスマホのケースに張り付けて横の面まで曲げて包み込む。樹種を選び、1台1台手づくりするのだ。もちろん木目も一枚ずつどれも違う。
ちなみに、スギの粉を40%混ぜたプラスチックというのも開発しており、それは嗅ぐとスギの臭いが残っている。
お店は1年前に始めたが、今年になって移転して表通りに出たとか。
思わず目を引きつけられたのだが、これは、どれもiphone用。いやあ、私のスマホは珍しいアクオス・フォンだから、枠がないよなあ~と軽口をたたくと、「いや、あったはず……」と、奥に引っ込んで見つけ出してきた。
ほかにもXperia arc 用など、かなりの機種に対応していた。
でも、このウッドケースは、高かったよ。ネットで見たときは国産材ケースが7000円もしたし……と逃げ腰になると、「加工費も全部込みで3580円です」。
気がつくと、どの樹種の板でするか選んでいた(~_~;)。
見た目は、正直言って外材の方が色つや、木目ともによい。しかしやはり職業柄、外材はダメでしょう。ただ楢や吉野檜は、白っぽいので、汚れが目立つそうだ。それに木目があまり目立たず面白みがない。ならばケヤキか……たしかにケヤキは木目もカッコよい。
が、やはりここは吉野杉だ!
ただし、柾目よりも、年輪が曲線を打つ板目をチョイス。
約1時間待っている間に、加工してくれた。
せっかくだから、ここにスギの木オイルを塗り込んでみた。すると木目が浮き上がり、また色も少し濃くなっていい感じ。なんたってスギの香りが漂う。
これで私のスマホの木製化は完了である。
見たい人は、仕事で呼んでくれ。
せっかくだから、サイドバーにリンクを張っておいた。Amazonでも取り扱っているようだ。ただし、価格は直営店とは違うな。
奈良で、「日本と南ドイツの「山から家まで」の比較論」という講演会があった。
主催は建築家の団体なのだが、講演者は長野県林務課職員の久保田淳さんであり、南ドイツ報告も、アノ森林林業再生プランのモデルとなったフライブルク周辺である。
中身はなかなか含蓄があったのだが、一つ興味深かったのは、ドイツではなく、アメリカ・マーヴィン社の木製サッシ工場まで出かけて、見学した話。
そこでは、長野県の木材を持って行って、それで木製サッシをつくれないか試してもらう……という企画があったようだが、答はなんと門前払い。
いや、試験しないよ、という意味ではなく、持ち込んだ試料の木材が使い物にならないと言われたのだそうだ。
乾燥の足りなさや、モルダーの際のわずかな傷、小さな節、歪み……などが、サッシには向いていないと判断されたという。持ち込んだのは、カラマツ無垢材のほかフィンガージョイントも、厳選したものだったはずだが、コテンパンだったよう。かろうじてパスしたのは、木曽檜材だったという。
たしかにサッシは、わずかな歪みで隙間ができて水や風が侵入してしまう。また強度やデザインも難しい。だから、商品の品質を高めようとすれば、素材の品質が問われる。
これまで日本人は、概してアメリカ製は大雑把、多少の欠陥は目をつぶる国民性……と思い込んでいなかったか。そして日本人の方が、きめ細やかで繊細な技術を持っていると。
しかし、すでにアメリカの方が日本より厳しい基準を持って商品づくりに臨んでいるのだ。少なくても、木製品に関しては。日本の工務店は、ガタガタ、隙間だらけの家づくりも得意だかからね。
まあ、日本の消費者がきめ細やかく? 細かな欠点まで追求するのは事実のようだが。
これを聞いて、私は何を考えたか。日本も、もっと木材の品質管理に厳しく取り組み、国産の木製サッシを実現すべき……か?
いや、反対だ(笑)。もう、木製サッシなんて、無理につくらなくてもいいんじゃない?
だって、そんな品質を追求されたら、使える木材はごくわずか、大トロの部分だけを持ち去り、あとは「欠陥材」だと破棄することになりかねないではないか。まだまだ日本の木材は、太さはイマイチだし、手入れが行き届いた森林も少ない。つまり、適した材は少ないのだ。
結果として、木曽檜のような稀少材だけを使うことになってしまう。
木製サッシに、木材のもっとも優秀な部分を使うのなら、残った部分を何に使い回すのかも計算したうえでないと、資源の無駄遣いになりかねない。まさか、全部燃やして「バイオマス・エネルギー」というんじゃないだろうな。
いっそ、アルミサッシの上に木材を張り付けて、木製風サッシを開発したらどうだろう。
南紀を訪問した復路は、阪和自動車道を走る。
すると、この高速道路は、東西に延びる紀伊半島の連山を串刺しにするようにトンネルが続く。
すると気づいた。目の前に横たわる山々の稜線部に風車が林立しているのだ。
高速で運転しているからゆっくり眺められないが、ざっと20基ほど並び、それぞれがブンブン回っていた。こりゃすごい、和歌山はこんなに風力発電が盛んになっていたのだ。
しかも、一カ所ではない。またも次の風車の列が現れる。
帰ってから調べてみた。
すると和歌山県広川町に、広川明神山風力発電所16基、白馬ウインドファーム20基もの風車があった。さらに町営が1基。
これで終わらない。有田川町にユーナスエナジー有田川の10基もある。その他、単体の風車もいくつかある。こりゃ、想像以上に風力発電が広がっていた。
Googlemapの衛星写真で探してみると、こんな状態。広川町である。
見事に並んでいることがわかるだろう。
こちらは、有田川町。
アップすると、こんな感じ。ちゃんと回転する風車の羽根まで映っているものだね。
そういや、紀伊半島と海を隔てて連なる四国の嶺北地方にも風車は多かった。この一帯は、山の稜線部に常時風が吹いているのだろう。
ここで風力発電について論じるつもりはない。それなりの問題点もあるのは承知の上で、なかなか見込みがあるように思える。とくに稜線部に風車を建てるということは、そのために稜線部に道を通すことになる。
菅直人が、国有林の稜線部に風車を建てて風力発電をできないか、と書いていたのを思い出した。そして、その道を林業に役立てるという発想、満更無理でもないな。事実、この稜線部近くに伐採が行われている林地も確認できた。
国有林でなくても、森林所有者と契約すれば可能だろう。そして電力収入を基金として林業振興に役立てる仕組みづくりを行えば、結構面白いかもしれない。もしかしたら、木材売るより風を売った方が儲かったりして。
もはや、木材生産だけという林業ではなく、山の資源としての風を売ることも林業に加えた方がいいかもしれない。
十津川村で、ぜひ見学したかったのは、木造仮設住宅である。
その点を村長にいうと、すぐ担当者を付けて案内してくれた。
これは、有り難い。一人でぶらりと行くと、住人に不審がられる恐れがあるからだ。
村には30戸建てられたが、そのうち6棟18戸がある平谷の旧平谷小学校跡地を訪れる。
見た通り、まさに木造! という造り。
スロープもあり、車椅子にも対応できる。玄関には手すりもあり、高齢者仕様だ。
間取りは、基本3タイプ。単身者向きから大家族向きまでいくつかパターンがある。
ただ設計は従来の仮設住宅仕様のままで、材料を木材に置き換えたのだそうだ。内部は洋室(フローリング)に加えて和室もある。
このようなデッキもあり、ここが公共スペースになっている。屋根もあるから、ここに住人が集ったり、座り込むこともできるのだ。
ボルネオのロングハウスのテラスを思い出したよ。
また窓側には、ベランダ的な濡れ縁スペースも追加されている。
仮設のため、2年限定だから、基礎は杭打ちだし、壁も無塗料。が、そのおかげで、木材の風合いがもっともよく出ている。長持ちしなくてもよいという前提なら、無塗料の方が心地いいね。
データを示すと、構造材・造作材ともにスギ材で、奈良県産材割合90,4%、うち十津川村産材60,35%である。
地場産材で仮設住宅をつくった英断を村長に問うたら、「いやあ、在庫がいっぱいあったんでね」。県も理解してくれたとのこと。
十津川村は、住宅販売に乗り出しているが、その部材の在庫があったのだろう。仮設住宅で在庫が一掃できたというのは、一石二鳥か。
住み心地の評判は概ねいいが、なかには不満も出るそうだ。何より、こんな狭い家に住んだことがない(^^;)住民が多いから。収納も少ないだろう。
私が70歳過ぎのおばあさんに話を聞いたところ、「前の家がガタガタだったから、こんなサッシの戸を閉めたら音が全然聞こえなくなる家は初めて」だとか。でも快適で、「ここで死ねたらいいわ」。
役人がいるけど、遠慮しないでいいですよ、と私が言ったが(^^;)オイオイ、おおむね満足のようだ。
ただ気になる点を。
仮設住宅には、ようさんマスコミが来るけど、みんな、あんまりしゃべったらアカンといわれてますねん。私なんかおしゃべりやから、よく怒られるわ。
という証言が。取材には、あまり応えないように言われているそうなのだ。まあ、このおばあさんがおしゃべりで、宅配便の配達に来た人までつかまえて長くしゃべるから息子に怒られてん、というレベルでもあるのだが(^^;)。ほとんど漫才のような掛け合いをしてしまった。関西では、田舎であってもよくしゃべるのである。
ただ住民感情として、部外者にあまり境遇を話したくない意識もあるのだろう。私も取材者として心せねば。
ともあれ、次は復興住宅である。こちらにも十津川産材を使った家を建ててもらうのが最重要テーマだ。
問題は、住居そのものというより、住居のある地域の斜面に崩壊の恐れがあって危険区域に指定されたケースも少なくないこと。危険を除去できるか、あるいは別のどこに建てるか、が課題らしい。
昨日まで訪れていた南紀行、往路は国道168号線を南下して、奈良県の十津川村を訪れた。昨年の台風12号の災害跡を確認するのが目的である。
あの水害で、山が各所で深層崩壊を起こし、道路や河川、そして集落がズタズタになったことは記憶に新しい。半年たって、今はどうなっているか。
ただ訪れた日は、まさかの雪天。吹雪のため、十分に遠景が見えない。ガスも出て山の上は白く染まっている。
それでも、こんな風景はざら。山体が崩壊しているのが、わかるだろうか。
随分、土砂を除いたようだが、各地の崩壊跡は生々しく、全体に川床が高くなっている。
が、訪れて思うのは、少なくても幹線国道は素晴らしく復旧が進んでいたことだ。崩れたところは仮設の道路がつくられているのだが、それがまた幅広く、また直線的だ。これまでの山襞を縫うようなウネウネ道より走りやすい(笑)。流された橋も、通常の通行に支障のないよう回復している。
崩れたところには、こんなふうに鉄骨の脚を組んだ仮設の道が多いのだけど、なかなか走り心地はよい。
とはいえ、今も十津川村では支線や林道などは100カ所以上がまだ復旧途上らしい。
せっかく訪れたのだから、と十津川村役場を訪問。アポなしで村長に面会を申し込んだ。受付嬢は不信がったけど(^^;)、村長と思わず両手を取り合って再会を喜んだ。
災害後の村長は、頬がこけて、すっかりやつれた顔がテレビに映っていたが、もう元気を取り戻したようだ。当時は村長室に皆がごろ寝しながら対策に明け暮れたそうである。
ただ、村長が語るのは、林業政策なのである。
災害の話はほとんど触れず、村の取り組みと大林業構想について熱心に語る。とうとうパソコンを立ち上げて、パワーポイントで説明してくれる(^o^)。予定の会議をかなりすっぼかして話し込んだ。
役場は、まだまだ災害復興の空気が色濃く漂っていたが、すでに気持ちは先に向いている。
さて、今後の動きを楽しみにしよう。
南紀を訪問した。
紀伊半島内陸部を南下するルートを取ったが、山中、季節外れの吹雪にあい、道路に積雪・凍結の恐れがあって遭難するかと思った(^^;)。
で、たどり着いたのが熊野の本宮大社。熊野古道の終点でもある由緒ある神社で、木の神様を祀る。せっかくだからお参り。
そこで見つけたのが、「木魂」。木でできた御札である。1000円以上と高いのだが、これは記念に購入してもいいかな。。。と思い出した。
が、その宣伝看板。
新開発(^^;)の御札の説明をしているが、材料について「間伐材といわれる規格外で、市場に出ることのなかった部分」とある。
これにカチンと来た(笑)。間伐材が規格外だとか、市場に出回らないとか、いかにも林業を知らない人物が執筆したらしい。
これで買う気が失せて、パス。
それにしても、熊野大社のお守りのたぐいが随分増えて、それも今風になっている。そこに金儲けの臭いをプンプン感じてしまった。
別に御札を売って儲けるのはいいのだが、付け刃の知識をペラペラと披露されると、御札に対する真剣みが感じられなくなるのだ。
代わりに、本殿をお参りして、賽銭入れておいたよ(^o^)。
NHKの朝ドラ「カーネーション」がいよいよ佳境だ。
糸子役も夏木マリに代わり、70歳を越えた晩年を演じているのだが、先週より登場しているのが、「あほぼん」だ。
あほぼんと言ってもピンと来ない人も多いと思うが、「ぼん」とは、関西でぼんぼんという言い方をする息子世代のこと。だいたい「ぼんぼんやなあ」と言えば、良家に育った甘やかされて出来の悪い2世3世のイメージである。
そこに「アホ」が付くのだから、「アホのぼんぼん」となり、完全に出来損ないの若旦那を意味する。
「カーネーション」には、父の仕事仲間の後継者である「あほぼん」が登場する。息子というより孫、曾孫世代だ。
あほぼんのひいじいちゃんが、戦時中に金糸の入った布を大量に抱えたのに「贅沢は敵」というお達しで販売できずに困っていたところ、糸子はデザインを工夫してうまく売りさばいて見せるというエピソードがある。
そんな昔話を聞いていた呉服屋のあほぼんらは、仕入れに失敗して抱え込んだ反物を、糸子に持ち込んで売ってくれないかと頼む。糸子は「甘えんな」と突き返す。
通常なら、しょげて終わるところなのだが、ここからがあほぼんの真骨頂なのだ。怒鳴られても邪険に扱われても、お手玉投げつけられても、へらへらと糸子のところに通うのである。全然こたえていない。
ただ、怒られる度に少しずつ出方を変化させる。そして、最初は全部お任せでさばいてもらおうと甘えていたのに、最後は糸子ブランドを立ち上げ、デザインだけお願いし、販売努力は自分たちで行う、支払いは歩合制にする……など提案していく。
ここまで行けば、立派なビジネスである。怒られてもしょげないという「アホ」の勝ち(^o^)。そして指摘された甘えた部分、つまり弱点を少しずつ修整して再提案する。
また商売上はライバルのはずの「あほぼん」同士が仲良くつるんで助け合ったり、連携して人脈紹介し合ったり、と、親の世代には壁があったことを、いともたやすく越えて新たなビジネスにつなげる。
……なんで、こんなことを書いているかというと、あほぼんならではの強みもあるなあ、と感じたからだ。
もともと2世3世には、たたき上げの1世・創業者世代のたくましさには敵わないように思われがちだ。だが、1世の抱える弱点を軽々越える特性もあるのかもしれない。
そこで思い出したのが、NPO法人をつくっている宮崎の素材生産業者の2世の会「○○○維森の会」(笑)。いや、彼らがあほぼんだとは言いませんよ。アホなんて、ボンボンなんて、とんでもない(^o^)。超切れ者だっています。
ただ、彼らは、ライバル企業同士なのに仲がよくて、自分の会社の利益だけに縛られず業界全体のことを考えている。
そして、自らの施業方法を環境に配慮して行うべく「伐採搬出ガイドライン」を制定した(現在、これを認証制度まで格上げしようとしている)。さらに伐るだけでなく、植林も手がけて次世代の森づくりにも関与しつつある。世間に対する素材生産業者の悪いイメージを変えていこうとしているのだ。
まず自分の会社を大きくすることに必死だった創業世代にはなかなかできないことだろう。
日本は、史上かつてない高齢化社会に入っている。現在の社会制度は、その事態に十分対応できていない。しかし、社会の主役となる世代は確実に交代していく。新たな世代は、あほぼんになれるかもしれない。経済成長期に育った我々は、まだアホになりきれないかもしれんが……(^o^)。
まあ、本当に所帯を潰すあほぼんも少なくないが、時代に合わせて化けるあほぼんもいるわけだ。願わくば、3・11以降の世代には化けてほしい。その素質はある。
東日本大震災1周年を明日に迎えて、テレビや新聞、雑誌など、多くが震災特集をしている。
なかでも関西版では、阪神淡路大震災と絡ませた特集が多い。
私も阪神の震災を体験したものとして、感じるところは多々あるのだが……東北へボランティアに駆けつけた若者(いや高齢者も含むか)が、異口同音に語るのは「現地に行って何か役立ったか怪しいけど、ものすごくためになった」という意味のことだ。
むしろ世話になった、勉強になった、将来の道を考えた……などと伝える。現地で知り合った人々とつながりを保ち、それが喜びになっている。
最初は役にも立たず、自分のためにしたみたいで申し訳なく思っていたのだが、(物理的な役には立たなくても)被災者も遠くからきてくれたことを喜んでいることを知って、ホッとする。自分がプラスになったことに、被災者も喜んでくれることに気づく。
そして、ボランティアは双方にプラスになると悟った。だから続けられるのだと感じる……。
そうだよなあ。いまだにボランティアを「無償の奉仕」と捉えている人がいるが、そうではない。双方にプラス。この考え方で行かねばならない。
森林に向けての人間活動もそうではないか。そう感じた。
森林ボランティアなどは、典型である。環境のため、地球のため、景観のため、なんて真顔で言われるとげんなりする。自分のためである、と知るべきだ。人が手を加えることによって、森林を健康にしたり生物多様性を増す。美しい森をつくる。
これは、皆人のためであり自分にプラスとなって返ってくる。
森が健全になれば、そこで生産できる林産物も増大する。木材を得る林業はもちろんだが、地球温暖化防止のため二酸化炭素削減なんてのも人類のためだ。美しい景観を見て喜ぶのは人間である。
林産物で収入を得るのも、林内労働で癒されるのも、多様な生物や環境を維持することで生態系サービスを受けるのも、みんな自分に返ってくるプラスだ。
もちろん自分だけ、人だけがプラスではいけない。森林にもプラスであらねばならない。そこにせめぎ合いがある。ギリギリまで自分の取り分を大きくしたいと望みつつ、相手のプラスを指向する。
森林にプラスになることが、自分にとってよりプラスである関係性を築きたい。それが、より持続的な活動につながるのだろう。
南相馬にして。
先日訪れた金沢では、噂の「金沢21世紀美術館」を訪れた。
美術展ではなく、美術館を鑑賞しに行ったと言って過言ではない。
もともと早く帰るつもりが、金沢城に手間取り、そろそろ引き上げようと思ったところに、城跡から美術館が目に入って、すぐに足を向けたのである。
この美術館、現代美術を扱うのにもかかわらず、たいした人気で、その入賞者数は全国屈指だという。
写真のように、有名な「レアンドロのプール」(プールの上と下で楽しむもの)という作品もあるのだが、私は別のところに目を向けた。
それは、美術館に設置されていた椅子。
なんの変哲もなく、別に変わったデザインでも何でもないのだが、この配置が作品ぽくてよかった(笑)。木造というのもあるが、変哲もないものをおしゃれに見せる技を感じる。
ちなみに、訪れた日の展示は、「自画自賛大絶賛(仮)」という作品群。
どこもそれなりに楽しめたが、あの学芸員?の監視の眼だけはいただけない。ちょっと近づいただけで注意が入る。作品鑑賞の邪魔だ。せっかく美術館を鑑賞したかったのに……。
それと、人の導線はよくないね。ある展示で感じた興味を、次の展示室でそぐ配列になっている。移動中も楽しめる展示がほしい。
今後も、美術館だけでなく、博物館や記念館など、「見せ方」を鑑賞に行くからね。見せ方によって、見せるものの価値は変わるのだ。
お医者さんが二人、遠くから訪ねてきた。一人は東京、もう一人は香川。
と言っても、病気の話ではない。街づくりだ。二人とも医者というより、大学の研究者。大学で医療の面からの街づくりを研究しているのである。
以前も訪ねてきて、農山村地域の実情について聞き取りをされたのだが、このほどまとまった、といって報告しに来てくれたのだ。
その理論はなかなか奥深いのだが、かいつまんで紹介すると、寿命の延長が絶対的な事情として発生している。
それによって医療・福祉から見た町がどのように変化してきたか、変化していくか……という話は専門的になるのだが、人生は、これまで第一期「巣立つ準備期」第二期「社会と家族への義務と責任期」があった。ようするに未成年と成年である。その後に、高齢の第三期がやってくる。子供が巣立ち、個人が自由になる年齢である。が、同時に老いていくゆえ、長く続かず、また介護が必要な時期でもあり、あまり計算に入れなかった。
ところが、寿命が延びた現在、個人がいかに生きるかが重要になってきた。これが第三期「自己実現と自由期」の長期化である。
同時に、医療に求められるものも変わってきた。これまでなら、傷病の治療-治癒・救命で終わっていた。それが今後、老年期の人生では多疾患・継続発症(完全治癒ではなく改善)と死亡看取りが中心となる。その中に、「自己実現」が入ってくる。
と、まあ、こんな話をしていた。難しい(^^;)。
計算上は、日本は2023年に人口の半分が、この第三期入りする。
思えば、私も、今春娘が大学に入り、ほぼ第三期に入りつつあることに気づいた。おお、自己実現の人生だ! 責任からの解放だ!
第一期、第二期において、山村など田舎社会から脱出して都会へ人は向かった。しかし第三期に入った人は、田舎へともどるかもしれない。この第三期を、ヒンズー教では林住期という言葉を使うのは示唆的だ。森林に住む人生なのかもしれん。
ところで考えたのだが、高齢者の増加が深刻なのは、田舎ではなく都市ではないか。高齢化率なんて言葉に騙されてはいけない。たしかに田舎の高齢化率は高いが、人口が少ない分、高齢者の絶対数も少ない。
一方、大都会ほど、高齢者の数が増大する。地方から吸い上げた若者は、そのまま都会で老いていくからだ。東京など、100万人単位で高齢者が増えていく。何百万人の高齢者のケアをどうして行う?
おそらく、今後は林住期を過ごす場をつくることが求められていくだろう。それが森林環境・里山環境になれば、新たな展開が広がるかもしれない。
再生可能エネルギーによる電気の買い取り価格や期間を具申する「調達価格等算定委員会」の初会合が開かれたというニュース。
この制度は、太陽光や風力、地熱、小規模水力、バイオマスなどによる電気を買い取る場合、どのような価格にするかは大きなテーマだ。
世間的には、高くしなければ再生エネルギーが普及しないと訴えているが、電気を買い取る費用は電気料金に上乗せするから、電気を消費する側からすれば、値上げは負担だという点でせめぎ合っているようだ。
普及か、負担か。どちらに力点を置くかが話題になっている。
が、もう一つの視点がある。
とくに木質バイオマスの場合、木質は何もバイオマスだけではない。本来、別の用途を持つ資源である。
1キロワット/時を20円の固定価格にする案があるそうだが、これを木質バイオマスの場合だと、計算上は1立方メートル当たり1万3000円にもなるそうだ。
これは林業家としてはオイシイ(^o^)。
無理してチップ用のC材だけを出荷するのではなく、合板にできるB材、いや製材して売れるA材だって、バイオマス用に売ってしまえ、という気持ちになるかもしれない。さらに、仕分けせず、皆伐してどんどん売ってしまう手もある。
かといって、B材より安いと、林地残材の搬出インセンティブは低くなる。
それに補助金の出る期間も、どれほどか。また補助金付けになる業者?森林組合も現れるかもなあ。
これでは、本末転倒だなあ。
その正体は、今をときめく?カシノナガキクイムシの幼虫の顔である。そう、ナラ枯れの元凶として、近年クローズアップされている昆虫だ。(正確には、ナガキクイムシの一種であって、カシナガと確定させるのは難しいらしい。)
成虫は、これ。背部の穴が特徴的で、ここにナラ菌を棲まわせて、樹木に感染させるそうだ。
通常のカシナガは、成虫で体長5ミリくらい。だから、これはもちろん、電子顕微鏡写真だ。
通常の電子顕微鏡は検体を真空状態に置くから、写真もミイラ状態かもしれない(^^;)。まあ、甲虫類はあんまり変化しないだろうが。
いずれにしても、おそらく日本初、世界初のカシナガ撮影ではないか。
撮影したのは、独立行政法人森林総合研究所関西支所の藤井智之支所長。
ナラ枯れ問題が注目され始めたのは、ここ数年のことだが、その兆候は20年ほど前から起きており(そもそも在来昆虫だから、昔からナラ枯れはあったと言えばあった)、その研究は行われていた。関西支所は、組織的に里山研究に長く取り組んできたし、カシノナガキクイムシの専門家もいるのである。
少し聞いただけでも、なかなか興味深い点がある。
たとえば、カシノナガキクイムシには2種類いるらしい。体長や背中の穴の数が違うという。DNAレベルで違うというから、確実だろう。これまで日本全国一種類のカシナガという前提が崩れるのだ。
昨年のナラ枯れ被害は少し減ったらしいが、今年も天候次第でまた大発生するだろう。
昨秋、ナラ枯れの本を書かないか、という話が来たが、門外漢なので断った。もう一度考えてみるかなあ。もちろん、ネタはみんな提供してもらう(^o^)。私はゴーストライティングか、あるいはルポ形式という手もあるね。
ロシアの大統領選挙では、プーチンが再選した。
ま、これは想定通りであるが、そこで思い出したのはロシアのWTO(世界貿易機構)加盟である。たしか昨年末に決定したはずだ。
ロシアがWTOに加盟したら、何が起こるか。
林業関係では、木材の輸出関税が引き下げられるのだ。日本から見れば、ロシア材の価格が安くなることを意味する。
シベリア丸太の輸出関税は、2007年に6,55%から20%に上げられ、さらに2008年に25%になっていた。そして2009年には80%に引き上げることを予告していた。これは、事実上の輸出禁止だろう。ロシアからは加工品しか輸出しなくなると思われた。それがリーマン・ショックの影響で延期され、2011年にも再延期されている。
しかし25%でも高い。それに、いつ上げられるのかわからない不透明さが嫌われた。そこでロシア材に頼っていた業界(製紙チップや合板、下地材など)は、それを機に国産材への転換を進めてきたのである。
ところが、WTOに加盟したら、勝手な関税はかけられなくなる。すでに加盟交渉で、現在の木材輸出関税の撤廃を約束している。今後、どこまで下げるか未定のようだが、おそらく半減するだろう。
加えて、円高。今は少し円安に触れたりもしているが、1ドル80円前後というのは、数年前に比べて相当安い。
これまで国産材へ傾斜していた業界は、再びロシア材に目を向ける可能性が高まっている。一度国産材仕様に製材機を変更した工場は、おいそれと元にもどせないかもしれないが、それでも価格差が長引けば、踏み切るかもしれない。
以前訪れた富山のロシア材業者は、国産材には転換しない、と断言していた。国産材よりロシア材の方が可能性が高いと見ていたし、何より国に保護されまくっている国産材業界をバカにしていた。おそらく、今や虎視眈々とロシア材の関税動向をにらんでいるだろう。
もちろん、円高ユーロ安は、ヨーロッパ材も輸入しやすくなる。今はホワイトウッドの価格が暴落しているらしい。すると製材所よりもハウスメーカーが外材に寝返るかもしれない。
一度国産材の調達ルートをつくった会社は、義理も契約もあるから、すぐに国産材を切らないと思うが、値下げ要求をしてくる可能性はある。となると、いよいよ日本の山は利益が出なくなる。いや、山主が山から木を出さなくなるかもしれない。
そうなると、またもや外材の時代が来る。私も、国産材の時代という言葉にうさん臭さを感じていた(まだ国産材は地力を身につけていない)が、間に合わなかったかもなあ。
今春の某県の高校入試問題に、『森林異変』が採用されたという連絡が来た。
もう入試は終わったのだから公開してもいいと思うのだが、一応、どこの自治体のどの高校かは秘す。
正直言って、問題文への引用はかなり多く、先週も新たにつくる問題集に収録したいという許可願いが何通か来ている。まだ返事を返していない封筒が机上に重なっていて、時折何週間も放置してしまい焦る。
が、今回驚いたのは、引用されたのが『森林異変』だということ。
これまでは『森林からのニッポン再生』や『割り箸はもったいない?』、そのほか『「森を守れ」は森を殺す』『いま里山が必要な理由』などが多かった。それらは生物の進化や多様性問題とか、森林生態系などを描いている箇所があり、国語問題に向いていたのだと思う。
しかし、『森林異変』は初めてだ。
だいたい『森林異変』は林業界というマイナー産業の状況を描いたので、あまり引用に向いているように思えなかった。それなのに、今回は、ずばり業界ネタ部分を引用。
ちゃんとグラフまで掲載した念の入れようで、この引用部分を読むだけで、木材自給率の変遷や、21世紀に入ってから増加に転じたことがわかる。
それどころか、利用には合板の伸びが大きいことまで示されている。
これを高校受験する、つまり中学3年生は、問題文を読んだわけだ。
問題も、本文やグラフから読み取れることを論じて「適切でないもの」を選ぶ形式があり、否応なく日本の林業事情を理解しなければならなくなっている。
この問題を採用したのは公立高校だから、少なくても数千人は解いたのだろうな。そのうち何人が理解して解答し、さらに内容を記憶しただろうか。
その生徒が高校になって、現代の林業界の事情に多少は詳しくなっただろうか。世間の間違った情報に異論を唱えることができるだろうか。もしかして、一人くらいは将来的に林業に興味を持つかもしれない。
……なんて考えると、少し楽しい。
菅直人元首相が、民主党の政務調査会内に新たに設けられた森林・林業調査会の会長に就任したようだ。
http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-11180646992.html
菅氏のブログによると、前原政調会長から会長就任を頼まれたらしい。
おお、とマニアックに注目したのは、極めて少数派だろう(笑)。
菅議員は、民主党内でかなりの林業通である。今の農相より詳しいのてはないか。まあ、梶山恵司氏に吹き込まれた付け刃的知識ではあったが、森林・林業再生プランを立ち上げる原動力になったのは間違いない。
が、首相を退任し、梶山氏も政府を去り、もう一人の林業通と思っている前田武志議員も国土交通大臣に就任したとなっては、林業政策に目を向ける与党政治家の姿が見えなくなっていた。その意味で、菅氏が口を挟める役職に就くのは悪いことではない。
なかには、あの森林・林業再生プランを推進した人物に口を挟んで欲しくない! という人もいるかもしれない。しかし、誰も口を挟まないからおかしくなる。
勘違いされないよう繰り返し記すが、私は森林・林業再生プランに反対ではない。ただ、全国画一的に実施できるものではないし、してはいけないと思っている。各林業地ごとに、いかにバリエーションを作るかが重要なのだ。
それを考えずに、どこでもかしこも、作業道入れて機械化なんてしたら林地は荒廃するし、集約化ばかり叫んで小規模林地施策をほったらかすのはけしからんし、再造林や育林忘れた大量伐出は破滅的だし、木材需要の出口対策をしない林業なんてありえないし、林業普及員をフォレスターに横滑りさせるなんてちゃんちゃらおかしいし……ああ、こんなことを書くから再生プランに反対だと思われるのか(~_~;)。
ともかく、古い慣習にどっぷり染まった業界に、空気読まない(読めない)政治家が口を挟むのは賛成だ。菅氏は、首相としてはまったく適任ではなかったが、あの現場に口を出したがる性分は、のれんに腕押しの林政には向いているかもしれない(⌒ー⌒)。
ただ、ブログには「国有林などの山林を活用して風力発電を設置する事ができないかと考えている」とある。これは林業とは関係ない(~_~;)。
一応「山の稜線に材木の搬出ができる比較的路幅の広い林道を引き、そこから比較適路幅の狭い作業用の路網を張り巡らせると、風力発電の設置にも、林業にも役立つ」 「林業が活発になれば、間伐材などを活用したバイオマス発電や熱供給も拡大できる」とある。
稜線に林道という発想は、大橋式の林道設置法に合致するかもしれない。いっそ、風力発電利権、もとい収入を林業に還元できる仕組みを組み立てると面白い。発電収入を原資に造林を進めたり就業者の待遇改善もありえるのではないか。
まあ、調査会にどんな目的や権限があるのかよく知らないのだから、期待を高めるほどではないが、今後の動きに目を配っておこう。
近年、世間では何かと話題なバイオマス・エネルギー。とくに昨年から原発事故を受けて注目されている再生エネルギーの主力がバイオマス・エネルギーである。なかでも木質バイオマスが主力だ。
そこで、バイオマス本当の話 泊みゆき著 築地書館刊を読んだ。
著者は、NPO法人バイオマス産業社会ネットワークの理事長。早くから独立した立場でバイオマスエネルギーについて論じてきた。
本書も、それらを集大成したかのような、最新のバイオマス事情をレポートしたものだ。
著者の立場としては、本質はバイオマスの推進側だろう。だが、本書は世間にあふれる推進論者の期待を打ち破り、過熱気味のバイオマスに水をかけてむやみな炎を抑えようとしているようだ。
のっけから「よいバイオマス、悪いバイオマス」の例が続き、バイオマスエネルギーが石油より環境に悪いこともあるとか、使い物にならないバイオマス発電、液化やガス化バイオマス、さらに1000億円をどぶに捨てた「バイオマス・ニッポン総合戦略」を紹介する。
そして、木質バイオマスを軌道に乗せるためには、林業の振興が必要なことを指摘する。決して、バイオマスで林業振興……などと本末転倒なことは主張していない。
……実は、私も、バイオマス産業社会ネットワークが主催したシンポジウムに呼ばれて、林業問題を語ったことがあり、その要素も本書には取り入れられている。だからゲラ段階で目を通している(笑)。
そして日本の林業のダメなわけから、木材自給率の低い理由なども触れているよ。
私も、これまでバイオマスエネルギーに関して否定的なことを書き続けてきた。とくに木質ペレットを日本林業3大愚策に認定(~_~;)したもんで、結構な反発を受けたものだ。なぜか、木質ペレットにはカルトな信者がいるのだなあ。
が、冷静に論じたら、当然行き着く結論なのである。本書でも、東日本大震災の木質ガレキ処理にバイオマス発電所を建設する政策に釘をさしている。ガレキは数年でなくなり、その後林地残材を使う……という計画の危険性を指摘する。
そもそも地球温暖化防止の観点からバイオマスを推進するのは無理がある。本当の意味で、カーボン・ニュートラルなのかさえ怪しい。
一方で、被災地の薪ビジネスにも目を向ける。身の丈にあったバイオマス利用が求められているのだ。
おおむね見解は私と同じである。今後、バイオマスエネルギーを語る際には、本書で提起された問題点を抑えつつ、展開してもらいたいものだ。
※サイドバーに掲載。
先に訪れた金沢では、しばし時間を割いて、金沢城公園を歩いた。兼六園はパスである。
軽く散歩して終わるつもりが、結構広い(^o^)。
そのうえ、各所の門や櫓などの復元が進んでいて、見どころも多いのである。金沢城は、古くは火事で焼け、その後の取り壊しにもあって、ほとんど原型を留めていなかった。それを近年復元しているらしい。
で、それら復元建築物であるが……当然、伝統的な木構法で行われている。また、そこに使われている木材の立派なこと。
河北門。門は、みんなケヤキづくりだ!
これは、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓という長~い名前(というより別々の建物なのだが、合体している)の内部。ここは五十間長屋部分か。
なかなか見事でしょう。使われている木材は、ケヤキが多く、梁はマツ、それに能登ヒバ(アテ)、そしてスギなど。ヒノキもあったかな。
しかし、ちょっと美しすぎる(~_~;)。この五十間長屋は、基本的に倉庫なのだ。ここに食料や武器弾薬を貯蔵していたとある。そんな倉庫が、こんなに美しくていいのか。床なんか、ピカピカだぞ。
あんまり美化しすぎているように思えた。
そもそも、江戸初期に建てられ、その後修復や再築は江戸時代に行われているが、この時期、そんなに木材が豊富ではなかった。もっと、材は細く、品質も選べなかっただろう。
展示には、本来六寸角の材であったところ、建築基準法の関係で八寸角を使いました、という記述があったが、単に太いだけではないはずだ。造作が美しすぎるのである。
伝統的建造物の復元には、いろいろ条件がつき、現代構法は厳しく制限されて、できる限り当時のものと同じにしなければならない。が、いくら伝統的木構法を採用しても、むしろ美化する方向にゆがんでいるように思える。
こんな復元を見たら、当時の城の姿を誤解させるだろう。
そりゃ、コンクリート製の城よりマシだけと(笑)。
せっかくだから、今回の旅で見た、美しい伝統的建造物。町家は除く。
実は、これこそ初期金沢城の門だったらしい。大火に焼けずに残ったものを移築したのだ。
素晴らしい龍の彫刻が施されてある。
これは高山市にある、飛騨国分寺の三重の塔。
室町時代の作とされる。
ついでに、別の意味で注目なのは。
これは、大規模集成材で作られた現代の木造建築物である。これは復元でないだけに、大胆なデザインで好感を持てる。
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