以前、告知も兼ねて紹介した10月21日「古事記完成1300年」記念イベントとしての川上村で行われた講演会。
三浦佑之立正大学教授による古事記が語られた。
そこで主に神武天皇の大和征服談を解説されたのだが、やはり注目したいのは、川上村にある井氷鹿(井光)や、吉野の国樔の集落に有尾人がいた、という点。
私は、
常識的に考えれば、この集落の民が、何か尻に尾と見間違うものを付けていたのだろう。そこで想像を膨らませると、今でも古い林業家の中には、尻に鹿の毛皮を垂らしていることがある。マタギなどでも見られるが、そのまま土の上に座ってもクッションになるし、水が染みてこないのだ。これを尻尾に見誤った? つまり有尾人とは山の民、杣人を表しているのではないか。もしかして、吉野の民、杣人に関する日本最初の記述かも。。。
と記した。三浦先生は、なんと「鹿革の尻当てで、杣人を表すのではないかと言われる人もいますが……」と語られた(^^;)。もっとも、その説には否定的で、おそらく尻尾の生えた人というのは蔑称だろう、とのことである。
ところで、三浦先生と林業はまんざら関係ないとは言えないことを知った。というのは、三浦氏の出身地は、吉野からも近い三重県美杉村なのだそうだ。そして父は林業をしていたそうである。
さらに驚いたのは、三浦先生の娘が作家の三浦しをんさんだということ!
三浦しをんの作品と言えば『神去なあなあ日常』である。
ご存じ、林業を取り上げた希有な小説だ。最近は文庫化もして、また売れだしているらしい。小説の舞台の神去村とは美杉村をモデルにしたとは聞いていた。が、ここで古事記とつながるとは! ……別につながっていないよ、と言われればそれまでだが(笑)。
そういや、神去村とは奇妙なネーミングだ。神も去ってしまっていない土地。これは神武天皇も通らなかった山のことで、神々の系譜を記した古事記を暗示しているかのようではないか。……暗示していないよ、と言われればその通りなのだが(笑)。
ともあれ、講演会では、古事記の成立までにはどんどん改変されており、そもそも熊野まで迂回したというのも怪しいらしい。書き換えられた可能性があるのだ。
これは私も疑問に思っていたのだが、なんで生駒山で撃退されたからと、紀伊半島の先まで南下しなくてはならんのか。少し下って大和川沿いに奈良盆地に入るか、せいぜい吉野川沿いに入ればいいはず。
三浦先生のいうには、「生駒山で負けたのは、太陽に向かって進んだから」と後の神武天皇が言って南下するのだけど、ならば夜攻めたらいいじゃないか、だって(笑)。まったくその通りだなあ。
かくして、本物の古事記の伝承は、吉野の山々を分け入って井氷鹿や国樔を通ったのかどうかさえ怪しい。後世の創作の可能性がある。もちろん古事記そのものが神話であり伝説なのであり史実とする必要はないが、決して物語は固定的ではなく、時代と共に変わっていくのだ。
ならば、『神去なあなあ日常』も、時代の変化に合わせて書き換えてもいいか……続編では主人公が巨大な高性能林業機械に乗って、大面積皆伐をするとか。「緑の雇用」もなくなったから、主人公が山村に移り住んだのは震災を機に、とか。そんな書き換えはダメだなあ。
終末……いや週末はアホな話題でした。
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