近鉄吉野線と土倉庄三郎
昨日、近鉄吉野線の開業100年記念イベントが行われたそうだ。
近鉄吉野線というのは、近畿日本鉄道の路線で、橿原神宮前駅から吉野駅までを結ぶ全長25キロほどの単線。実際は南大阪線から乗り入れしているため、大阪阿倍野駅が始点のように感じるが。
これが開業したのが大正元年(1912年)10月25日だったという。だから100周年なのだ。
開業時は、吉野軽便鉄道で会社設立は、1910年だが、開業翌年に吉野鉄道と名称を変更した。だが、この鉄道会社の前に、別の吉野鉄道株式会社があった。それを設立したのが、土倉庄三郎である。
1899年にほか19人と鉄道会社を設立し、付設の許可も取り付けたのだ。残念ながら、経済不況と中国情勢の不安定さから資本金が充分に集まらす休眠会社になってしまったが、そこに軽便鉄道計画が出て来て、こちらに譲る形で実現したのだった。
その意味では、開業100年だが、吉野へ鉄道を導く構想は、計画されてから113年という計算になる。
土倉庄三郎は、交通網に非常な関心と熱意を示した。まずは水路。これは木材を筏で流すためだが、やがて道路付設に情熱を傾け、現在の国道169号線(熊野街道)など、大半が彼の主導で建設したものだ。さらに木材運搬のための木馬の木道づくりにも取り組む。
山里に住む者ゆえ、流通と交通の大切さを身に沁みているのだろう。
ただ、同時に限界も感じる。というのは、彼は鉄道会社を設立したが、それは資本金を出して呼びかけただけで、実際の経営を担おうとした形跡がない。同じく、吉野材木銀行の設立も行っているが、これも当初の設立に力を貸したが、その後積極的に経営陣に加わらなかった。
庄三郎自身は、自らを「林業家」と規定して、それ以上の展開を望まなかったようなのである。そして林業経営もあくまで家業であった。法人化するなど近代的な事業としようとは思わなかったようだ。経営は、あくまで土倉家の人間にこだわり、優秀な部下を育てたり実務を委譲することもしなかった。
それが、長男の暴走による土倉家の没落を招いたとも言える。明治初年時に同等の財産を持っていたとされる三井家が、早々に経営を法人化(三井合名会社)して、家業と分離したことと比べると、その差は歴然としている。
その点から庄三郎は、開明的な封建領主、あるいは古典的な資本家という立場で活動した。それでは激動する明治時代に追いつけなかったのかもしれない。
話を近鉄吉野線から、えらい脱線させてしまった(~_~;)。鉄道を脱線させてはいけませんなあ。
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