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2012/11/05

本多静六と明治神宮

森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』は、当然ながら土倉庄三郎の一生を追いかけたわけだが、実は柱はもう一つある。

その一つが、明治の林政であり、それを支えた本多静六である。

当初の構想では、本多静六の一生も密に取り上げる予定だった。事実、かなり執筆している。が、あまりに分量が膨らみすぎて、削る過程で本多の部分の大半をカットした。(それでも、各所にチラリチラリと登場するから、ご確認あれ。) 林政に関しても、多くをカットすることになってしまった。。。

で、本多静六と言えば、明治神宮の森である。(私の中では)

明治神宮を創設する際の鎮守の森づくりを依頼された本多は、期待された杉並木の荘厳な森を覆して、照葉樹林の森を企画する。仁徳天皇陵のような古墳に繁る森をイメージしたとされる。

これには異論が巻き起こり、時の総理・大隈重信も強固に反対したそうだが、いろいろ科学的データを示して押し通したそうだ。

と言っても、最初から照葉樹を植え込んでいる某氏のような指導はせず、当時の建設予定地に残っていたアカマツなどは残しつつ、その間にスギやヒノキなど針葉樹、そして落葉樹や照葉樹を植えていき、時間をかけて遷移させて、100年後の森をイメージした。

神宮林が完成したのは1921年だから、もうすぐ100年を迎える。

そこで先日、表参道に宿泊したので朝から見学した。

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広い参道も、両側の照葉樹が大きく育って枝を伸ばし、覆わんばかりだ。

どこを見ても、巨木の照葉樹が繁っている。マツやスギなどの針葉樹は見当たらない。構想どおりに遷移したと言えるだろう。

こんな図もある。




Photo_2



当時、作られた植生遷移予想図(を再現したもの)だ。

だいたい、この通りになったと言ってよいのではないか。

(本図は、「森田稲子のブログ」より抜粋。)




もちろん明治神宮の森は、本多だけが作ったのではない。ほかにも多くの学者、そして現場の担当者が尽力したのはいうまでもない。

ただ、本多の植生学はドイツ仕込みながら、ちゃんと日本に適合させて、実践でも見事に成功させている。

今のドイツ林業を生兵法のまま丸呑みしてグダグタになっている林業現場や、潜在植生論を振りかざして遷移過程を考えずに照葉樹の植林を進めている人より、ずっと素晴らしい。

学者も官僚も、当時の方が、森林に対する時間の感覚が自然界に合致していたように感じる。そして横やりにも押し返す根性があった。やはり神代の意識があったからか? なんて考えてしまう。

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森林学・モノローグ」カテゴリの記事

コメント

 このネタはその通りだと思います。植栽時の配列図の様なものはあるのでしょうか?調べようと思ってそのままになってしまいました。

 グダグダになっている林業現場の意味は良く分かりませんが、最初に制度を真似て徐々に日本に合わせた物にしていくのであれば良いかと思います。
 日本版フォレスターはどのなるのでしょうかね?フォレスターって名前以外日本独自の制度になるのでしょうか。上手くこの制度が続くとは思えません。

当時の計画書は戦争で焼けた……と言われていましたが、森田稲子さんが発掘したんですよ。そして書籍にしているはずです。20年も前に。私は手元にないのですが。改めて探してみようかな。
本記事も、彼女へのオマージュのつもりです。

「大都会に造られた森―明治神宮の森に学ぶー」

形だけの制度や機械化や集約化……を真似ても、機能しないと思いますよ。精神を学び納得していないと。

ついでといっては何ですが、京都の明治天皇陵の森もほぼ同じ頃に植林されたはず
そちらの情報も・・・え? 自分で調べろ?
うーむ・・・(__;)

『大都会に造られた森―明治神宮の森に学ぶー』

懐かしいです。

学生時代に、この本片手に明治神宮参拝しました^^

↑名前を入れ忘れました。失礼。

 もちろん私も読みました。そのM氏への疑問がここで納得に変わりました。昨年に彼が最初に植えたという大学を見に行った後に明治神宮へ行きました。当然、比べるに至らないように思えました。
 本田静六のこの思想がきちんと林学として受け継がれなかった事が残念に思えます。林学自体あまりにも極端な経済林に重視し過ぎたのでしょうかね?その為、彼が隙間として入って来たのかと思います。
 
 私は精神もそうですが、やることいっぱいです。とりあえず私が出来る事として、安全についての普及を実践しております。

明治神宮の植生遷移図はとても興味深く拝見しました。通常のproduction forestではないのですから、ヨーロッパ流をそのまま応用できない、と判断したのは当然だと思います。アカマツをシェルターに使い、次に生育の早い杉などを植え、照葉樹種は最後にもってくる、というのはとても理屈にあっていると感じました。ちょうど今週、shelter treeの考えかたを応用した造林方法について(スウェーデンではKronobergsmetodenという方法が一部の地域で適応されています。白樺と欧州トウヒの混交林です)のテストがあり、ただ今勉強中なのです(苦笑)。

ドイツ・スウェーデン林業は、生物多様性保全が重視されてきた過去20年の間、これまでの生産性重視から多様性を確保しつつ生産性も維持する、という難しい課題に模索しながら挑戦している途中だ、というのが僕の理解です。なので、現在の外国の林業から学ぶべきなのは、現在掲げる目標に対して(目標設定がとても重要なポイントであるのはいうまでもありません)最適な方法を模索する、というコンセプトであって、具体的な手法はそれぞれの国の特徴にあったやりかたをあみだしていかなくてはならないのでしょう。

本田氏の思想については、いつかちゃんと学んでみたいと思っています。

わが町に間伐施業地や択伐施業地に、自分がその辺から拾ってきた苗を自分の畑で育成して、補植している方がいます。
どうやら、ヤマザクラを育成、補植しているらしいのですが、御年75歳。

昨年は、少なくて12本(どうやらシカにやられているらしい)、今年は100本以上の苗ができているといっていました。

サプリガードで防御するといっておりましたが、金がかかるということで、半分ぐらいを忌避剤で乗り切ることとなったようです。野生生物との戦いも遷移の中には含まれることでしょう。
そういえば、土倉庄三郎伝の中にも、獣害、虫害、気象害、適性土壌、本数なども書かれていたようでしたね。その方もそのあたりは考慮している様子でした(当たり前といえば当たり前ですよね。50年以上も山をやってきているわけですから)。
そのあたりも含めて、その方に話をしてみようと思います。
たぶん本などは読まないと思いますので、概略だけでも・・・・・。

あと、1つの地区では、その地区の裏山40ヘクタールをスギヒノキ人工林だけでない、多様性の山に徐々に切り替えていくとか、頂に展望箇所を作るとかそんな話になっていますので、その首謀者とも、遷移とか自然との対峙とかの話をしていってみようと思います。
私はロジカルな話はできないけれども、住民ともども自分たちで何か調べながらやることはできると思います。

京都の明治天皇陵の植生調査、ぜひやってください(^o^)。もぐり込んだら貴重な発見が……ああ、危険なことを。

本多清六の業績が、ドイツの林学テストに役立つなら幸いです(笑)。
でも、ドイツもスウェーデンも、どんどん先に進んでいるなあ。日本は、20年前のドイツの技術を追いかけているだけの気がする……。どうせなら、一足飛びに現代ドイツ林学の精神を学ばないものか。。。
そして日本でも各地で培っている地域に合った技術を、その林学精神の具現化に活かせないものか。。。

素晴らしい報道と思いました。 世の中すべて、効率、利益、その他、目先の利益ばかり追求せず、やることが大切と痛感しました。
明治の先哲には偉人がいた事、嬉しくおもいました。

ちょうと今晩、NHKで「明治新宮 不思議の森」をやったところですね。100年前の林学者の方が、今より理念を実践に活かしているというのが歯がゆいですね。

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