土倉庄三郎つながりであるが、明治初期の政策、とくに林政の展開を調べた。
すると、凄まじい転変が浮かび上がってきた。
もともと明治政府が林政に取り組んだ起源をどこにするかは難しいのだが、これまで幕藩体制下では場と幕府は勘定奉行に、各地の藩では各々に任されていた政策を中央集権化しようとしていた。
そこで慶応4年1月に三職七科が設けられるのだが、その翌月2月には三職八局に改組され、さらに閏4月に太政官制にして七官が置かれる。
そして翌明治2年7月に6省が生まれる(民部、大蔵、外務、刑部、宮内、兵部)が、その中で山林関係の職務は民部省の地理司に属した。
しかし翌年8月に民部省は大蔵省と合併し、翌3年7月に再分離。翌4年7月に民部省は廃止。5年1月に大蔵省に11寮を設け、山林の管轄は大蔵省勧農寮に属する。しかし10月には租税寮に移される。
こんな過程を追うだけで頭が痛くなる。でも、まだまだ続くのだよ。
明治6年に内務省が新設。地理寮が再び誕生してそこに森林課が置かれたらしい。これが始めての独立した林野行政の部署かな。また「森林」なる言葉も登場したことになる。
その後、いったん消えて、また山林課として復活。
明治10年に地理局となり、官林を管轄。さらに明治12年、地理局から山林局が独立。
ここに現在の林野庁に連なる部署が誕生したことになる。
その後も転変を繰り返すが、昭和22年に林野局となり、24年に林野庁と発展的改組。ちなみにこれは連合国占領下に行われたわけだな。
いやはや。単に名前や組織上の配置が変わったという以上に、政府の政策的位置づけの変化が、明治維新より12年間続いたわけである。山林が大蔵省に属した場合は財産として扱い、内務省などでは産業の一環となる。ここには井上馨と大久保利通の対立なども絡んでいるようだ。
実は、林野行政だけでなく、明治初期の行政は朝令暮改が当たり前。たとえば廃仏毀釈を勧めたり、神仏分離令を出したり、国民の名前から官職由来名の禁止(兵衛、右衛門、左衛門、大夫など)したり、かなり思いつきの政策のオンパレード。
が、マズいと思うとすぐ取っ替える。当時の人々はたまらんだろうが、過ちを改むること、はばかるなかれ、か? 君子豹変す、ともいう(笑)。
が、混乱を招きつつも、なんとか施政10年を過ぎたころから落ち着きだす。明治政府とは、行政の素人が試行錯誤しつつ、新時代をつくるためにドタバタした存在だったのだろう。明治維新とは革命であり、簡単に落ち着いた世の中を作り出せたわけではなかった。
もちろん、その試行錯誤の間に貴重な寺院や仏像が壊されたり、幕藩時代の規制が破棄されたために森林や大木が伐られてしまうなど被害も大きい。しかし、試行錯誤の上に築けた新世界もあった。新政府が慣れてくるまで辛抱強く待つ時代だった。庶民も、朝令暮改に振り回されながらも、うまく立ち回ったのだろう。
考えたら、今の世の中、あまりに結果を早く求めすぎる。それが首相を取っかえ引っかえしたり、強いヒーローを求めるなど迷走を進めてしまった。でもそれは、国に期待(いや、依存?)している裏返しではないか。
これまで、景気対策や文教施策など、将来への布石を打ったものの、当時の首班は非難されて退陣し、その後の反対勢力の時代に花開くケースが多々あった。一気に変えようと思わず、小さな改革を時間をかけて大きくする一点突破・全面展開の発想と覚悟がいるだろう。
お上の都合など聞き流して、自らの活きる道を考えたいと思う、総選挙前日である。
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