無料ブログはココログ

森と林業の本

« 土倉翁外伝1 ~庄三郎と八重 | トップページ | 土倉翁外伝3 ~庄三郎と金原明善 »

2013/01/05

土倉翁外伝2 ~庄三郎と本多静六

『森と近代日本を動かした男』には、土倉翁と並んで、本多静六がよく登場することに気がついているだろうか(もちろん、既読の方です)。

もともとの構想では、明治という時代を舞台に林業界で活躍した土倉庄三郎と本多静六を対比することを考えていた。

二人は、同時代に同じ林業絡みの世界にいたにも関わらず、非常に対象的な人生を歩んだ。真逆と言ってもよい。大金持ちの跡取りと貧困家庭。実業としての林業と学問としての林学。吉野から動かなかった土倉と、ドイツ留学を果たした本多。しかし、末路は没落した土倉家に対して、本多家は財産家に成り上がり大山林主になった。

それでいて、二人は仲が良かったようだ。そして二人とも林業の普及に力を尽くした。
似た思想を持ち、お互いの知識と技術を交換し合った。いや、本多の唱える林業論には、土倉翁の意見と重なるところが多く、ドイツ林学はともかく、日本の林業の部分は、土倉翁の意見を真似たとさえ感じる。

土倉翁は本多に吉野林業の現場を教え、また本多は、土倉翁の死後、彼を顕彰する大磨崖碑を作ったのである。

この対比こそが、人生の彩だと思ったのだが……残念ながら紙数が膨らみすぎた。結果的に、本多に関する部分を大幅にカットせざるを得なくなった。

ところで、気になる点がある。

世間的には、土倉庄三郎より本多静六の方がよっぽど有名である。また彼自身も膨大な著作があり、自叙伝も執筆している。

にもかかわらず、そこに土倉庄三郎に関する記述がほとんどないのだ。とくに自叙伝には、まったく登場しない。

わずかに明治の中頃の日本の林業事情を説明する中で、いかに日本が遅れているかと説明しつつ、「わずかに大和の吉野と紀州の尾鷲の一部に、やや完全に近い林業が営まれていると記し、吉野に土倉庄三郎がいることに触れているだけである。そっけないと言える。土倉翁の名を出すのを避けていた気配さえ漂う。

ただ隠そうとしたり絶縁していたわけではない。林業関係の資料には土倉翁と本多の名前は並んでよく出るし、なにより大磨崖碑の建設に私財を投じている。また磨崖碑の建設に関する記録には、いかに自分が土倉翁に世話になったかを記し、自ら吉野の造林法とドイツの造林学を合わせて、日本の造林学を打ち立てたことを表明している。

しかし、功なり名を挙げた晩年、自ら学んだ恩ある人の影を消し去ろうとしたのか? 本多林学論は、みな自分が生み出し築いたことにしたくなったのか。実は本多自身も、自らの性格は嫉妬深くて他者を陥れ自分が目立とうとしたがるところがある旨、書いている(笑)。

結局、理由はわからない。もしかして、土倉家が逼塞したことから、世間に土倉庄三郎のことを触れるのを憚る雰囲気があったのかもしれない。

もっとも、土倉翁がそのことを気にしたとは思えない。決して自らの業績を表に出したがらず、「陰徳を積む」を心がけていたからである。

« 土倉翁外伝1 ~庄三郎と八重 | トップページ | 土倉翁外伝3 ~庄三郎と金原明善 »

土倉家の人々」カテゴリの記事

コメント

田中翁?へ

私の感じでは,恐らく本多静六先生は自分は学者であり,土倉庄三郎は林業家であると考えて、別の世界に住んでいると分けて考えていたのではないでしょうか?
したがって,学者の世界には入れないで本を書いていたのではないでしょうか?
今の学者とは違う感覚であると思うのですが,いかがでしょうか?
現代の学者は、明治時代とは違いサラリーマン化しておりますから(笑)
見当違いかも知れませんが,ご参考までに書き添えました。

なるほど、ありそうな気がします。
当時の学者は、世間の見る目も、本人の気位も高かったでしょうから。

どんなにお世話になっても、一線を画していたか。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 土倉翁外伝2 ~庄三郎と本多静六:

« 土倉翁外伝1 ~庄三郎と八重 | トップページ | 土倉翁外伝3 ~庄三郎と金原明善 »

January 2025
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

森と筆者の関連リンク先