土倉翁外伝1 ~庄三郎と八重
新春の始まりは、ちょっと土倉庄三郎の周辺に目を向けたい。いわば「外伝」を記そう。
『森と近代日本を動かした男』を執筆する際に困ったのは、土倉庄三郎の肉声を伝える資料がきわめて乏しいことだ。
日記が見つかったわけではないし、彼の直接執筆した(もしくは聞き取った)と確認できる文章は、第3回内国博覧会への出品説明書ぐらいであった。出版に深く関わった『吉野林業全書』や『林政意見』も、当然彼の意見は含んでいるが、直接の言葉ではない。また、それらの内容は、林業の技術的説明に近く、あまり本人の心情が伝わって来なかった。
一方、世間に流布している土倉庄三郎の情報は、ほぼ『評伝土倉庄三郎』の引写し、さらに孫引きであることがわかってくる。実質、土倉翁の文献は、これしかないからである。
『評伝土倉庄三郎』は、身内の執筆だけに最重要文献であるのは確かなのだが、元の情報源が示されないうえに間違いも目立ち、また解釈に疑問符の付くものも少なくない。一つ一つ裏を取らないと扱えなかった。
土倉家の縁戚の証言も、時代が離れすぎていて、庄三郎の息子娘たち(さらに孫)の情報はあったが、庄三郎自身のことは伝聞である。
実は後に、いくつかの講演録が見つかり、それがもっとも肉声に近く、非常に貴重な情報満載だったのだが、当初は手がかりもなく難渋した。
そこで取り組んだことは、庄三郎と交わった人々の記録から彼の行動や発言を抽出することである。また交わった人物の姿から土倉翁が共感した部分を類推することであった。実は、彼らの方が、よほど資料が豊富であった。
……その作業は、明治の数々の人物像を知ることにつながった。
板垣退助に始まり、樽井藤吉、桜井徳太郎、金玉均、影山英子などなど自由民権運動の闘士たち。さらに本因坊秀栄、成瀬仁蔵、新島襄……。そして新島襄の妻として、八重を知ることになる。その生い立ちや歩みに仰天、こんな女性が明治時代にいたんだ! と一時期、新島襄よりも興味津々、夢中になった(^o^)。
庄三郎と八重の接点はあまり見つからなかったが、幼少の息子も娘もほとんどが同志社に進学しているだけに、八重の世話になっているのは間違いない。事実、八重と龍次郎、亀三郎、あるいは3女4女5女の糸、小糸、末子と写っている写真もある。
また鶴松の教育はむずかしい、と嘆いた新島襄が八重に当てた手紙も残る。
そして何より新島襄は、病弱で永くはない自分の命を慮って、自分の死後、八重の生活を頼むという手紙を庄三郎に出しているのである。そのため、マッチの軸となる木を今から植えてほしいと頼んでいる。
この手紙を、新島の書簡集で詠んだ時は、キマしたね(^o^)。あきらかに庄三郎は、八重を意識していたはずだ。そして新島襄は彼を頼りにしていたのである。
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