林業は、「繁華街」で行われた?
生駒市と南隣りに平群町がある。
生駒市と同じく生駒山の斜面にへばりつくような地形だが、そこに多くある谷の一つは、車がやっと通れるような狭いうねうね道が続き、最奥部に千光寺という修験系のお寺がある。道はさらに奥へと延びて鳴滝峠を越え、大阪側へと下っていく。
その街道沿いには、茅葺きも残る古い民家が立ち並び、100年前かと思うような風景だ。
生駒山をまたぐ街道には、こうした景色が多く残されている。街道と言っても、今は地元の人しか通らないだろう。
これは暗峠の旧道。
奈良側に下る。
新道は国道308号線だが、酷道の名をいただいている……。
生駒のもっとも辺鄙なところ……そんなイメージも湧くが、実は間違い。
この街道筋には農家より商家が多く、かつてはもっとも賑わっていた地域なのだ。行き交う人の気配が尽きることのない、いわば繁華街である。
暗峠。石畳は戦後の復元だが、難波の宮と奈良の都を結ぶ路線であり、松尾芭蕉も通った古くからの峠道。
ここには、旅籠や本陣、そして茶店など商店も並んでいた。神社やお寺も多く、参拝にも通う人々が多い。
現在の生駒の中心部は、近鉄生駒駅周辺だが、これは生駒トンネルが掘られて鉄道が通いだしてから。それまでは辺境地だった。
こちらに人と物流が移り、かつての繁華街はのどかな田舎風景に変わったのだ。
と、長々と記してきたが、今は辺鄙な土地も、時流にのっていた時代は、賑やかだったこともある。
今日、昔に録画した宮崎県椎葉村で行われている焼畑の番組を改めて見た。椎葉クニコさんが主人公である。私も、20年以上前に訪ねたっけ。
椎葉クニコさん。
もう80歳を超えていると思うんだけど、画面の中では元気そう。
この写真は、20年前のものだけど。
そこで感じたのは、山の奥の奥に見える焼畑は、かつては人々が通いやすい住居に近い土地だったということ。決して奥地で焼畑を行ったわけではなく、近くで便利のよい土地で焼畑を行ったのだ。稜線部は見晴らしがよいから、人々の通う道が延び、住居も集まっていた。木を伐っても下へ転がすため出しやすかった。
当然、跡地に焼畑が行われる。焼畑をやっていたということは、そこから林業も生まれただろう。日本の林業の発祥は、ほとんど焼畑である。
つまり、林業はかつての「繁華街」で行われたのだ。何も好き好んで、山奥で行っていたわけではない。歩いて通える範囲で行うのが、日々の仕事であった。
今の事情で、現地を判断してはいけない。辺鄙なのは、どちらなのか。時代の条件を見極めないと、本当の意味はつかめない。
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