朝拝式にオルタナティブな文化を感じる
一昨日の2月5日は、川上村で朝拝式が執り行われた。
川上村の朝拝式は、本来の天皇の元旦行事の意を超えて、後南朝の歴史を伝える重要な祭礼になっている。詳しいことは、『森と近代日本を動かした男』を読んでいただきたい(^o^)が、ようは南朝の皇胤である自天王(尊秀王)と忠義王の二人が討たれた556年前から、自天王の兜や鎧、長刀などを祭って忍ぶ行事である。
ほんの最近まで、筋目と呼ばれる村民しか参拝できなかった。解禁になったのは、ほんの6年前である。
今では、一般人も見学だけでなく、儀式を終えた後に参拝することも認められるようになった。で、私も行ってきたわけだが(^o^)。
朝拝殿で行われた朗読の儀。後南朝に関する歴史が読み上げられる。最後は自天王が討ち取られ首を取られてしまうが、川上の民は、必死に追いかけて敵を討ち、首を取り返す。
読みながら感極まって泣く人もいるという。今年は、そうしたことはなかったが……。
この祭祀にまつわる歴史の襞については省略するが、川上村は「杉と檜と自天王を骨組みにできている」とさえ言われるほど、南朝の皇胤を守ってきたことが村の精神的バックボーンである。
実は、吉野とは常に時の政権に反旗を翻す者に隠れ家を提供してきた。古くは壬申の乱の大海皇子(天武天皇)に始まり、義経にしろ南北朝にしろ、幕末の天誅組まで常に吉野が舞台になってきた。
都と遠くもなく近くもない、そして水運があり、古都奈良が近く、宗教勢力が根強く……と要因はいろいろあるが、肝心なのは山岳地帯に反乱者を養う経済力があったことだ。その理由は、やはり森林資源に恵まれていたからではないか、と推測する。
きっと誇り高かったのだろう。
そこにはオルタナティブな論理とオルタナティブな文化を持つ、オルタナティブな人々が暮らしてきた。
そして平地の政権とは別のベクトルを持つ歴史が展開されてきた。現在の歴史は、低地に勢力を伸ばした権力者によって描かれているが、山の民の視点から見たら、日本史もまた別の姿に浮かび上がるだろう。森とともに暮らしてきた文化が誇り高く語られ、林業が根付いた日々の生活が描かれるかもしれないなあ。
思えば、山と森の文化は縄文時代から連なっており、実は日本人の大半に染みついている。決して少数派ではないはずだ。森を忘れたかのような現代人も、まだ無意識に潜ませているかもしれない。
だが、そうした森の記憶を本当に失うと、精神の彷徨を引き起こす。それは何もソロモン人だけではないのだよ。今再び、心に森を宿すことも大切ではないかね。
後南朝の時代よりはるか前から、ここには人が祀られていた。
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昨日はじめて川上村を訪れました。短時間の滞在でしたが私の山岳ゲリラ魂の琴線に触れるものを感じました。今回は村の中を歩くゆとりもまったく無かったのですが、いずれ独りで再訪したいと思っています。
投稿: 香山由人 | 2013/02/07 23:56
おや、1日違いでしたか。山岳ゲリラ……山からの視点では、それが正攻法かもしれん(^o^)。
吉野は林業だけでなく、見どころいっぱいですよ。
投稿: 田中淳夫 | 2013/02/08 00:58