紫香楽宮跡にて
甲賀市にあるのは、忍者だけではない。
そもそも甲賀市は5つの町が合併したのだが、そのうちの一つが信楽町。そう、タヌキの置物で知られる信楽焼きの本場である。信楽は陶土が豊富で、今も各地の焼き物産地でつくられている陶器の多くが信楽の土で作られているのだ。
でも、これは陶器製かなあ。
セメント製かもしれない(笑)。
が、もう一つ忘れてはいけないのが、かつてこの地に都が築かれかけたこと。
そう、紫香楽宮だ。実は、奈良時代と呼ばれる70年ほどのうち、途中に聖武天皇は奈良の都を捨てて各所を点々としている。その一つが信楽であり、ここに都を移す宣言もしたりして、さらにこの地に大仏を築く詔まで出している。
だから、こんな遺跡があるのだよ。
ただ礎石がお寺の配置らしく、宮殿ではなく大仏を建立しようとした甲賀寺跡だとされる。
それにしては狭いので、異論もあるのだが……。
まだ゛発掘調査は緒についたばかりで、全容はわからない。
とにかく、紫香楽宮跡を歩き回って堪能してきた。
ああ、ここに都が本格的に移されたら、今の奈良はなかったよなあ。大仏もなければ平城京跡も見る影なかっただろう。かなり見すぼらしくなる。
が、紫香楽宮は建設途上で捨てられ、結局、平城京にもどることになる。大仏も作り直しである。
この遷都の順番を追うと、ややこしくなる。
聖武天皇は藤原京に生まれ育ち、その後平城京に遷都し、次に京都南部(奈良市北部)の山城地方に改めて都建設を始める。それが恭仁京だ。
こちらでも、大仏を建立しようとしている。
そして、幾度も火災などに襲われて断念した。
その後都を大阪の難波宮に移したりもしたのだが、その間の多くを紫香楽宮で過ごしていたのである。
紫香楽宮は正式の遷都ではなかったとされるが、実質的に天皇が住んで政務を司っていたのだから都だろう。
結局、5年ばかりの間に4回?も遷都したことになる。
それにしても、点々と都を変えては建設ばかりしていたのだから、莫大な国富を費やし、当然資源も浪費したことになる。なかでも木材資源の消費は激しかっただろう。信楽周辺の巨木の山々は丸裸にされたのだ。銅など金属資源も莫大な量を使ったに違いない。
都となると、大建築物がいくつも建てられた上に、大仏である。財政を傾け、過酷な政治となったのではないか。
つまり、これら3つの都の変遷を見て歩くことこそが、古代日本のブラックツーリズム、つまり歴史の暗黒面に焦点を当てる観光のスタートである。
私は,1日で平城京から恭仁京をへて紫香楽宮を歩いたことになるなあ。
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私はここのブログで田中さんの記事を読んで、ブラックツーリズムという言葉を自力で発想したのですが、私よりも前に「ダークツーリズム」があったことを最近知りました。
ポール・マッカートニーがイエスタデイを作曲した時、あまりに簡単にできたので、どこかで聴いた曲を知らずに自分の曲と考えてしまったのではないかと、しばらくは自分で疑っていたそうです。私はポールよりも才能が少しだけ足りないので、先行事例にかぶってしまいました。。。
なお、ダークツーリズムはこんな感じ。
http://genroninfo.hatenablog.com/entry/2013/06/03/142422
私の考えた「失敗から立ち上がるところに共感するのがブラックツーリズム」という定義自体は、オリジナル性はあるかなというところです。古代日本では、悪化した環境をどうやって乗り超えようといしたのでしょうかね。遷都して単純に場所を変えたのかな。
投稿: 沢畑 | 2013/06/13 07:53
ブラックとダーク。どちらがよいでしょうね。まあ、先行事例にいちゃもんつけても仕方ないので、ブラックの定義を変えるというか、ダークとの違いを出すべきですね。
ただ歴史の彼方を覗くと、当時のブラックやダークも、ロマンになってしまう。信長も秀吉も大虐殺者でありながら、英雄です。
いっそのこと、タヌキの置物の発展の陰にある暗い労働を物語にしますかね……。
投稿: 田中淳夫 | 2013/06/13 09:31