甲賀は木挽きの故郷?
甲賀は忍者のふるさと、さらに幻の都、と煽ってきたが、もう一つ、木工のふるさとの可能性にも触れておこう。ようやく、このブログらしきテーマになった(笑)。
そもそも甲賀地方、つまり近江国の琵琶湖東岸地域は、飛鳥・奈良時代には木材供給地だった。平城京の大極殿を初めとする宮殿や東大寺など寺院建築を支えた大径木材は、たいてい近江から調達された。
正倉院文書によると、甲賀は杣(木材供給地)であり甲賀山作所が設けられたそうだ。ほかにも田上杣とか玉滝杣など山から木材を切り出し、ここで製材などして川を流されたらしい。
琵琶湖を経由したのか、瀬田川、淀川、木津川と輸送して、最後は奈良坂を越え平城京に運ばれたのだろう。
だから、甲賀こそ組織だった林業発祥の地と言えるかもしれないし、製材技術も発達させたのだろう。
が、甲賀杣を初め、主だった杣はみな木材資源が枯渇して、消滅する。その後は貴族の荘園となり農業に転換するのだが……意外とその後も木工に縁をつなぐ。
たとえば木地師の里とされる永源寺町(現・東近江市)は、甲賀市の隣。ここには第55代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王は皇位継承に破れて隠遁し、やがてろくろによる木工を始めたとされる。
そして甲賀市の水口には、檜皮師が多く、木挽き職人も多くいたという。
さらに、水口は前引き鋸(縦引き鋸)の生産地として知られていたのだ。
近年まで現役がいたらしい。
今は、どうだろうか。丹波や和歌山では聞くが、滋賀にいるとは聞かない。
ようするに木工道具だ。種類も豊富だったようである。
そういや、「甲賀流忍術屋敷」にも、大鋸が飾られていた。忍者は、木挽き職人でもあった……のか?
日本に横引き鋸は古くからあり、木を切り倒すのに使われたが、その丸太を縦に切って板などに製材する縦引き鋸は、なぜかなかなか登場しない。中国では漢代に誕生しているから、日本にも伝わったはずだが。。。
今のところ一番古いのが室町時代後期の絵図にある。それまでは、丸太を楔で割って、その後やりがんななどで削っていたらしい。この方法では効率が悪く、丸太から1、2枚しか板は取れない。
これはスギやヒノキなど縦に割りやすい針葉樹材が多く手に入ったゆえだろう。極めて贅沢な?いや資源の無駄遣い的な木材利用だったわけだ。さすがに中世に入って資源が底をついて、ようやく縦引き鋸が発明?再認識されたのだろう。
いずれにしても戦国から江戸時代にかけて縦引き鋸が普及していったのだが、幕末頃から水口で、この鋸の生産が興隆し、明治時代には全国的に有名になった。
同じく檜皮師も、この甲賀地方で育ち、各地に出かけたらしい。地元には、それほど木材資源は残っていなかっただろうに、なぜ木工職人や道具が発達したのだろうか。
街道筋で来訪者が多かったことや、複雑な地形で小村落が林立したことが関係しているだろうか。
甲賀、いまだ謎深し。
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木地師は、今でいう所の全国的な組合組織に発展して行きました。組合費の集金システムも確立していました。使える木が枯渇しそうになると、違う山に移動します。ですので、同じ名前やよく似た名前の村が点在しています。惟喬親王の札があれば、全国の里の人が利用しない6だか7合目より上の森林が使えたそうです。
この木地師の全国的なネットワークが、山伏・忍者・薬売り・近江商人を下支えしていたのではと思います。商社のルーツでもあります。又、鍬やヨキなどの道具は、木地師とセットです。話が神様まで遡りますが、鈴鹿山脈の先の伊吹山には、製鉄の神様がおられます。鈴鹿山脈にも鉱山があり、たたらが行われていたそうです。天然林など、ほとんどありませんw
投稿: き | 2013/06/16 07:59
木地師や山伏、あるいは忍者、薬売りなどが結構裏でつながっていたことは重要ですね。忍者も、専業ではなく副業だったのかもしれない(^^;)。
ほかにも採薬使や山師、本草学者などもつながっているし、そこに絵師も絡んでいるなあ。みんな「各地の情報」通という点で関係がある。
当時、辺境地を歩いた人には、そんな人が多いですよ。
投稿: 田中淳夫 | 2013/06/16 13:46