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森と林業の本

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2013/10/12

案山子芸術論

実は、吉野(川上村)に行っていた。

行きは2時間ちょっと、現地で2時間ほど打ち合わせをして、帰りは渋滞に入って3時間……。これで1日終わってしまう。毎度のことなので、今回はお土産も買わない。

それでも、わずかな寄り道を。

1


往復した道で見かけた案山子。

最初は何を表わしているのかわからなかった。

ちょっと凝りすぎていないか。

アップしてみると、

2


家族に犬もいる。なぜ、高台に座っているのか。

おそらく、道行く人々に見てもらうためだろう。
最初から鑑賞用(笑)。もはや実用(稲穂を鳥がついばむのを追い払うなど)を越えてしまった。

実は、奈良でも案山子づくりは比較的さかんで、とくに吉野に隣接した明日香村の稲淵では、巨大案山子が林立して、見学者が列をなす。機会があれば、今年も訪れたいが……。

実用性を失って、風景としての目的になっている。

そこで思い出した。大正時代に林業芸術論争があったことを。

大日本山林会の会報を舞台に、林学博士の田村剛が「林業芸術論」を発表したところ、同じ林学博士の上原敬二が翌年「林業非芸術論」を投稿したのだ。

内容は、そんなに難しいものではなく、田村は、実用からスタートした林業も、そろそろ風致を意識して森づくりをしないか、と訴えたものだ。たとえば建築も、本来実用的なものだが、そこに装飾を凝らして美観を作ることを求められている。森林もそうなるべきというのだ。

上原は、まだ早いと反論したのだが、よくよく読めば実用と美観の両立を願っている。「収益と美の発露は前途ある日本の林業界の進むべき二大方針でなければならない」と結んでいる。

案山子も、今や風景の方が重きをおいている様子がある。いっそ、農林業の「生産」という実用を離れて、美しい景色を追求する「造園」が生まれたように、案山子も芸術として一本立ちするのもいいかもよ。

そこで「案山子芸術論」を発表して先鞭をつけておこう。

そして、林業やるより案山子づくりの方が楽しい……というようになる、かな?

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