富山和子の「水と緑と土」の世界
富山和子の「水と緑と土」(中公新書)を読んでいる。何も「表土ジャーナリスト」を意識したわけではないが……。
この本の初版が出たのは、1974年1月。なんと40年前だ。以来、版を幾十と重ねているが、実に興味深い記述が多い。
まず目に飛び込んできたのは、大面積皆伐について触れたところである。
「はげ山を見たら国有林と思え」といいたいほどに国有林の荒廃はすさまじい。
この言葉、私も覚えがある。学生だったころ、「荒れた山を見たら国有林と思え」と聞いたのだ。もしかして、この本が語源?だったかもしれない。当時、積極的に大面積皆伐を推進したのは、国有林だった。民有林にもなくはないが、基本的に小規模山主が多いし、大面積にしようがなかったのだろう。
本書は、その後も繰り返し、国有林を中心とした森林の荒廃を指摘する。
今は、国有林も間伐など整備が進み、わりとましになったかもしれない。それでも九州や東北の皆伐地は国有林が多いと聞く。むしろ民有林を強引に「集約化」する事業を進めているから、今は間伐でも今後は大面積に皆伐しやすくしたのかもしれない。事実、全国森林計画では、生産強化が謳われているし。昔の愚を繰り返すのだろうか。
明治9年に来日した医学者ベルツの言葉の引用も胸に染みる。
「西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思うのであります」
「ところが~何と不思議なことには~日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。……彼らは自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度を褒めてもらう方が、はるかに大きな関心事なのです」
しみじみする。そのまま当てはまる事態が、各所に進んでいるようだ。ちなみに、本書の副題は、「伝統を捨てた社会の行方」である。森林の荒廃が水問題となり、それが農業問題とつながって土壌を失うことを論じているのだ。
もう一つ。
太平洋ベルト地帯の最後の緑地、古都奈良の森林は、いまその生命を終わらせようとしている。大阪の都市の怒濤から辛うじて山紫水明を守り、事実汚れた空気を遮っていた奈良県境の生駒山系に、ブルドーザーがうなりをあげるようになったのは昭和40年代に入ってからであった。
そして生駒市の変貌を嘆くのである。予言通り15万都市になりつつある。幸い、奈良の町が高速道路と高層ビルに囲まれるということはなかったが。
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