節だらけの仏像
仏像の写真を眺めている。(正確には雑誌「芸術新潮」。)
そんな趣味もあったのかって? あったのです(笑)。まあ、仏像というより木製品(!)ですかね。日本の仏像の多くが木製なので。
古代には大仏を持ち出すまでもなく、金属製の仏像が尊くて、そこに石仏、乾漆像など様々な素材によって作られた(奈良時代には木彫の仏像はなかったという)が、なぜか平安以降は木製が主流になる。一見、技術的には逆流してしまったかのようだが、日本的には木製の仏像が感性に合ったのだろう。そこに一刀彫だ、寄木だと、細かく分かれるが……。
脱線したが、仏像も丹精な顔だちのものばかりではなく、異形のものも数多い。なかには目のない仏像、ぽっこりオナカの仏像、身体が曲がった仏像……などがある。また生きた立木に彫った仏像もあったそうだ。
なかでも私が気になったのは、節のある木を使った仏像である。結構存在するそうだ。写真にあったのは、体中に節があり、中でもお尻に大きなとぐろを巻いたような年輪断面が……。(島根県万福寺の観音像) なかなか味がある。
通常、節のある木は、削りにくいし刃こぼれも起こしやすい。彫刻の素材には向いていないはずだ。どうしても避けられないときは、節をくり抜いて別の材料をはめ込むなどする。それなのに、もっとも重要な彫刻品である仏像に節のある木を使ったのはどうしてか。単に素性のよい木が手に入らなかったと考えてもいいが、肝心の仏像はそんなに大きくない。素材も寄木も可能だから大木でなくても間に合う。どうしても手に入らなかったとは考えにくい。
そこで想像されるのは、霊木を使って作ることになったため、無駄にできない、節もくり抜かないで作ろうと努力した、ということである。寺の大木が枯れたとか大風で折れた太い枝とかを使ったのではないか……。節は枝の生長を意味するから、生命力の象徴にもなる。
それが当たっているのかどうかはなんとも言えないが、節を残す、さらに意匠にするという発想があってもいい。そういや、チェンソーアートも、上手い人の作品は、材の色や節を利用して作品づくりをしている。チェンソーだから、節を削るのも比較的楽だろう。
もっと節を大切にした木材の使い方を研究すべきかもしれない。節がある方が強度を強くなる使い方もある。板にして、現れた節をうまくデザインに活かすことも研究すべきだ。集成の際に節を除かずに、うまく張り合わせると紋様にならないか。
そうしたら、枝が出すぎた間伐材も宝の山になるかもね。
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