田中 淳夫: 虚構の森
世にあふれる森林を巡る環境問題。そこで常識と思っていることは本当に信じていい? 地球上の森は減っているのか、緑のダムは存在するのか。る? 地球温暖化に生物多様性、SDGsに則しているのか? 異論から考えると別世界が見えてくる。
田中 淳夫: 獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち (イースト新書)
シカ、イノシシ、クマ、サル……獣害は、もはや抜き差しならない状態まで増加している。その被害額は1000億円以上?しかも大都市まで野生動物が出没するようになった。その原因と対策、そして今後を見据えていく。
田中 淳夫: 絶望の林業
補助金漬け、死傷者続出の林業現場、山を知らない山主と相次ぐ盗伐、不信感渦巻く業界間……日本の林業界で何が起きているのか?きれいごとでない林業の真実を暴く。
熊崎実ほか編: 森林未来会議―森を活かす仕組みをつくる
現役林業家、研究者、行政万……など10人の著者が、日本林業の問題点を分析しつつ、未来に向けての処方箋を示す。海外事例も含め、希望を語っている。
有坪 民雄: 誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来
消費者はもちろん、学者も官僚も農家自身も、農業について全体像をつかんでいない。だからピンぼけ……。これは林業にピタリと当てはまる!
保持林業―木を伐りながら生き物を守る
保持林業とは新しい言葉だが、欧米を中心に世界で1億5000万ヘクタールの森で実践されている施業法だという。伐採後の生態系回復を早めるために行われるこの手法、もっと日本に知られてもよいのではないか。
田中 淳夫: 鹿と日本人―野生との共生1000年の知恵
奈良のシカは赤信号に止まる? 鹿せんべいをもらうとお辞儀する?カラスがシカの血を吸っている? 彼らを観察したら、獣害問題の解決の糸口も見えてくるはず。
山川 徹: カルピスをつくった男 三島海雲
カルピス創業者三島海雲の評伝。彼は内モンゴルで何を見たのか。何を感じたのか。その夢を乳酸菌飲料に結実させた足跡を追う。土倉家の面々も登場する。
田中 淳夫: 森は怪しいワンダーランド
森には、精霊に怪獣に謎の民族、古代の巨石文化が眠っている!そう信じて分け入れば遭難したり、似非科学に遭遇したり。超レアな体験から森を語ればこんなに面白い? 読めば、きっと森に行きたくなる!
村尾 行一: 森林業: ドイツの森と日本林業
林学の碩学とも言える村尾行一の林業論の集大成か?
ドイツ林業を歴史的に追いつつ比べることで浮かび上がる日本林業の大問題と抜本的な処方箋
田中 淳夫: 樹木葬という選択: 緑の埋葬で森になる
広がりつつある樹木葬。今や世界的な潮流となる「緑の埋葬」となる、森をつくり、森を守る樹木葬について全国ルポを行った。
田中 淳夫: 森と日本人の1500年 (平凡社新書)
日本の森の景観は、いかに造られたのか。今ある緑は、どんな経緯を経て生まれたのか。日本人は、どのように関わってきたか…。今ある景観は、ほとんどが戦後生まれだったのだ。今後必要なのは「美しさ」である!
田中 淳夫: 森林異変-日本の林業に未来はあるか (平凡社新書)
21世紀に入り、激動の変化を見せ始めた日本の林業。この変化を知らずして、日本林業を語るなかれ。果たして森にとって吉か凶か。そして「大林業」構想を提案する。
阿部 菜穂子: チェリー・イングラム――日本の桜を救ったイギリス人
もはや桜の故郷はイギリスだ! と感じさせる衝撃の書。ソメイヨシノ一色ではない多様な桜を守っているのは日本ではないのだ。そして日英交流史としても第一級のノンフィクションだろう。
田中 淳夫: ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実
ゴルフ場は自然破壊? それとも現代の里山? このテーマに再び取り組んで『ゴルフ場は自然がいっぱい』を大幅改訂して出版する電子書籍。
谷 彌兵衞: 近世吉野林業史
吉野林業の誕生から江戸時代までの発展の歴史を緻密に描く目からウロコの著
田中隆文: 「水を育む森」の混迷を解く
森は水源涵養機能がある……と古くから唱えられてきた。しかし、科学的に証明されたわけではない。人々の思想や政策の方が先んじている。その歴史的展開と、野外科学のジレンマに焦点を当てる。
ヨアヒム ラートカウ: 木材と文明
人類と木材、ひいては森との関係を壮大なスケールで描いた大著。ヨーロッパが中心だが、目からウロコの記述がいっぱいである。
清和 研二: 多種共存の森: 1000年続く森と林業の恵み
最新の生態学の知見から林業のあり方、今後の進むべき道を提言する。多様性豊かな森こそ、安定していて収穫も多いことを思い知る。
村尾行一: 間違いだらけの日本林業 ―未来への教訓―
村尾林学の決定版! 眼からウロコが落ちるだけでは済まない。これまでの林業観を否定をして受け入れるか、読まなかったことにするか……。
田中 淳夫: 森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯
三井財閥に比肩する大富豪として、明治時代を動かし、森林の力によって近代国家を作り上げようと尽力した山林王・土倉庄三郎の生涯を追う。そこから明治時代の森林事情が浮かび上がるだろう。
太田 猛彦: 森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)
森林水文学の視点で、日本の森林事情の変化が国土にもたらした驚異的な影響を語る。もはや森林だけを論じている暇はない!
田中 淳夫: 日本人が知っておきたい森林の新常識
森林ジャーナリズムの原点。森林や林業に関わる一般的な「常識」は本当に正しいのか、改めて問い直すと、新しい姿が広がるだろう。そして森と人の在り方が見えてくる。
日本の森を歩く会: カラー版 元気になる! 日本の森を歩こう (COLOR新書y)
森林散策ガイド本だが、第2部で7つの森を紹介。全体の4分の1くらいか。私が記すとルートガイドではなく、森の歴史と生態系をひもといた。
田中 淳夫: いま里山が必要な理由
名著『里山再生』(^o^)の内容を一新した改定増補版。単行本スタイルに変更し、美しくなった。里山を知るには、まずここから。
田中 淳夫: 森を歩く―森林セラピーへのいざない (角川SSC新書カラー版)
森林療法の成り立ちから始まり、森が人の心身を癒す仕組みを考察する。森の新たな可能性を紹介した決定版。 全国11カ所の森林セラピー基地のルポ付き。
田中 淳夫: 割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)
割り箸を通して見えてくる日本と世界の森林。割り箸こそ、日本の林業の象徴だ!
田中 淳夫: 森林からのニッポン再生 (平凡社新書)
森林・林業・山村は一体だ! その真の姿を探り、新たな世界を描く
田中 淳夫: 日本の森はなぜ危機なのか―環境と経済の新林業レポート (平凡社新書)
かつての林業は木を売らなかった? 真実の日本林業の姿を紹介し、現状と未来を俯瞰した目からウロコの衝撃の書。
田中 淳夫: だれが日本の「森」を殺すのか
誰も知らなかった?日本の林業と林産業の世界を描いた渾身の1冊。
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萩を訪れた。
目的は別として、せっかくだから駆け足で維新の地を見る。なんと言っても吉田松陰の松下村塾で数々の幕末の志士を生み出した土地だ。
もっとも、実は私は吉田松陰を好きではない(^^;)。だってエキセントリックだもの。あの行動は無茶でしょ。
それはともかく、有名どころばかりではなく、この人物を知っているだろうか。
品川弥次郎。松下村塾の一員だ。
彼の生誕地の碑を発見した。
小さな公園の一角。ほかの志士と比べると、扱いは乏しいように思う。
倒幕に邁進し、維新後はイギリスとドイツに留学もした。農政を学び、明治新政府でも要職を歴任する。農商務大輔も務めた。彼こそ日本の林政の大元を作ったと言える。
そして土倉庄三郎ともつながりは深い。時に対立もするが。
来年のNHK大河ドラマで萩が舞台になるから、ちょっとだけ覚えておこう。
ちなみに今夜は、島根県の益田に滞在中。明日はどうなる?
滋賀県甲賀市水口(みなくち)にある水口細工。
以前も少し紹介したことがあるが、もともと葛の蔓の繊維を取り出して編まれた精巧な細工物だ。
伊勢神宮の遷宮行事にも使われ、かつては高級品として東海道の土産物として人気を博した。
明治以降は、海外への輸出が盛んで、パリの百貨店でも売られたとか、ウィーン万博に出品されたと伝わる。毎月何万点も出荷されたそうである。
ところが、あまりに手間がかかるため、戦後はヒノキ細工、さらに経木細工と変化していく。そして、ある時にパタリと姿を消した。そして職人がいなくなるだけでなく、製法も忘れ去り、なんと原材料とその加工法さえわからなくなってしまう。葛と言ってもいろいろあるし、その繊維の取り出し方もノウハウがあるのだが、全部消え去ったのだ。
かくして幻の水口細工となった。
今、その製法を復興するための動きが市民の間で起きているが、私も少々その歴史を探索。
すると意外なことがわかってきた。
通常、この手の伝統工芸品が消えるには、代用品(とくにプラスチックとか金属など)が登場して、安値で売られて、本物の需要がなくなり……と消えていくものだ。
しかし、水口細工は少し事情が違うようだ。当時(昭和30年~40年代)の新聞にも、海外からどんどん注文が入って、製造が間に合わない様子が記事になっている。なにしろ、毎月1万点……という注文がアメリカ、イギリス、オーストラリア……から舞い込むのだ。
にもかかわらず、消えた。幻になった。
どうやら、製造に手間がかかりすぎるうえ、単価が安かったらしい。そこに高度経済成長が始まって、地元に工場がどんどん建って工人が募集される。給料がいいから、細工職人たちがどんどん転職する……という状況が起きたらしい。
かくして供給が途絶えて、需要に応えられなくなったことが原因だと見た。
一般に需要が途絶えて廃れるのと違い、供給が原因とは珍しい。。。
あれ? そうでもないぞ。典型例が林業にあったではないか。
戦後の経済成長期に木材は飛ぶように売れ、国産材も高値をつけた。しかし、資源枯渇と経済成長により農林業が縮小して工業化になだれ込む過程で、国産材の供給は縮小してしまうのだ。
そして、気がつくと代替のはずの外材がシェアを抑え、国産材は市場を失った。さすがに「幻の……」とはならなかったが、脆弱な産業になってしまった。
このままだと林業職人も消え、技術は失われ、国産材は生産したくてもできない時代が来るかもしれない。
その時は、日本の林業復興研究会ができて、木の植え方、育て方、伐採や搬出の仕方を試行錯誤しながら研究しなくてはならなくなるかもしれない。
葛を編んでいる職人の姿も活写されている。
当時、職人だけでも千人単位でいたらしい。そして、あまりに当たり前の産業だから、記録にとることもせず、まったく伝承されないまま消えていく憂き目に合う。
ゼロから復興するのが、いかに大変な作業になることか。。。
Yahoo!ニュースに、「ごちそうさんの時代と、木造校舎」を書きました。
実は、ほんの今の今まで、この記事は、本ブログにアップするつもりで書いたもの。結構軽いノリで書いたのだが、いざアップしようと思ったとき、ふと「このままYahoo!ニュースに載せたらどうだろうか」と思いついた。
ちょっとテイストが違うような気もするが……。ええい、思いつきブログはそのまま思いつきYahoo!ニュースになるだ>\(^o^)/。
というわけで、アップしてしまった。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakaatsuo/20140127-00032044/
もっと言えば、最初は木造校舎についてだけ書くつもりだったのだが、つい「ごちそうさん」で常々思っていたことを付け足してしまった。まあ、こんなのもアリだよね。
ただブログ読者ほどYahoo!読者は優しくないので、反応が気になるが(⌒ー⌒)。
上記は、生駒のアルションというパン屋。正確にはフレンチのレストランなのだが、自家製パンで有名だ。それも薪による石窯で焼いている。
それは売り物ではあるのだが、先日訪れてみると店先に薪が積んであった。
何も薪の置き場所に困って、ではあるまい。むしろ見せびらかしている(^^;)。つまり薪はオブジェみたいなもんだ。薪で焼くパンも名物なら、薪自体がデザインの要素として使える。
街に薪がある風景というのも、案外大切かも。
思えば生駒市内には、パン屋以外もピザ屋やイタリアンレストラン、薪ストーブ自慢のカフェなど薪を使う店は結構ある。それぞれどこで薪を調達しているか知らないが、潜在的需要は多いはず。もちろん薪ストーブを楽しむ一般家庭もかなりある。ついでに言えば、シイタケなどのほだ木もホームセンターに多く売られている。
これらを外から見えるように並べて「展示」するのもいいか。街の風景が変わるかもね。これも、木育?
生駒山に所有する山林の手入れを始めた。
わずかな土地ながら、雑木が密生し、決して状態は良くないことから、ばっさり皆伐して里山再生実験にとりかかることは、昨年にも表明している。ただ狭い土地に結構な大木があり、これは私の手に負えないことから「誰か助けて」とSOSを出したところ(^^;)、さっそく手を上げてくださった方々がいる。そして、今日は第1回目の伐採となった。
来てくださったのは、日本森林ボランティア協会の久保、高尾、山本の3氏。久保さんは林業のプロで後の二人もセミプロ級の腕前&経験者。
私の計画では、数本の大木を母樹もしくは景観用に残して、あとは例外はあるが基本的に皆伐する。ただ落葉樹でその後育ちそうなものはいくらか残す、というものだ。たとえばサクラは幾本か残すとか、隣地の境にある木はほどほどに残す、また、どうにも伐れない木もあるだろう。とにかく林床を明るくすることが大テーマだ。
久保さんはもっとも難儀な道沿いの大木に特殊伐採(木登り伐採)で挑んだ。これほど分岐していて、道に太い枝を伸ばし、しかもそこに電話線が通されている……という悪条件。下手に枝を落として電話線を切断したら大問題だし、道をふさいでもまずい。重心はどこか見極めつつ、ロープをかけてチルホールで引っ張り……大変な作業となった。
私は、特殊伐採を幾度か見学しているが、改めて事前に十分に重心を読んで、安全に気を配り、あらゆる事態を想定をしつつ丁寧な作業をしなくてはならんことを思い知る。
いやあ、特殊伐採、甘くはないわ。木登りできていいな、というレベルではない。
今日は3本の枝(と言っても、直径30センチ級だが)を落とすのが精一杯。なかには、かかり木したり、最後の一線が伐れなかったりと苦労したが、終わりよければすべて良し(^o^)。
さて、私を含む3人は、中小木を伐る。
私もチェンソーとナタでばんばん伐るが、やはり伐る度に、あっこれはナンテンだ。残そうかな…。あっいい匂い、ヤブニッケイか…。ソヨゴの赤い実が可愛いな…。高さ3メートルもあるアオキは立派だから伐りたくないな…。この痛い刺だらけの木はアリドオシか、久しぶりに見るな…。そんなことばかり考えてしまう。木を伐るのは快感であると同時に、やはり生命体を殺す行為ではあるのだから痛みも感じる。
それにどの木を伐るか残すか、迷う。何度も立ち止まって周りを見渡して、考える。
この木は、随分前に折れたらしいが、その後再び萌芽が育って幹になっていた。しかも折れた部分も含めて再び芽を出していた。写っていない右下に伸びる幹は、再び立ち上がっているのだ。
そのたくましさにちょっと感動する。
「木を伐って森を守る」という言葉がある。かつて私が多用したのだが(^o^)。
考えれば、一本の木を伐ったら命を奪うように感じるが、奪ったはずの木が再び芽を出して育ったり、その木がなくなることで別の草木が生えたりする。森林としては多様な生命を増やし勢いを取り戻すこともある。これは、一種のよみがえりだ。
森林にいると、多様な草木・昆虫・動物を目にして、何をどうするか迷って、失敗しても、まあまたよみがえるからやり直せるさ、と納得して(悟って)。
ようするに、AかBかと絶対的な選択ではなくなんでもありで、失敗してもやり直せばいいさ、とあっけらかんと考える。こういうのを「森林の思想」というのではないかい?
ああ、だから私は森林が好きなんだ\(^o^)/。
春までに一応の伐採を終えて、森にどんな変化が現れるか(よみがえりを見せてくれるか)楽しみにしよう。
今年の通常国会が開会した。
で、私が注目した案件は……「山の日」制定である(笑)。
「山の日」とは、登山団体などが、山を親しむことを目的に、制定を求めている祝日。
超党派の国会与野党議員約100人でつくる「『山の日』制定議員連盟」というのがあり、8月11日を「山の日」とする祝日法改正案を議員提案するそうだ。通れば、平成27年から実施するそうだ。
と言っても、8月11日とは? 何か山に由来があるのかと思えば、あまり祝日で休みが増えると経済活動に影響が出るため、すでにほとんどの人がお盆休みに入っている8月12日を狙ったという。
ところが8月12日は、1985年に日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落して520人が死亡した事故日。今も慰霊日として式典が行われている。それで1日前倒しに8月11日を選んだ……。あまりのくだらなさで笑ってしまった。
ようするに、「海の日」(7月第3月曜日)があるから山の日も……という安直な考えなんだろうなあ。せめて日本近代登山の父と言われているイギリス人ウェストンの記念日にでもすればいいのに。(それがいつのか、私は知らない。。。)
実質的に休日にもならず、記念日でもない。何のための祝日なのか。単なる啓蒙活動? だったら祝日にしなくてもいい。ちなみに都道府県に「山の日」を設けているところは多く、奈良県にもある。祝日「海の日」である7月の第3月曜日を「奈良県山の日・川の日」として条例で定めている。ほとんどの県民は知らないと思うが。
もちろん、「山の日」と言っても目的は登山なのだから、林業には何の関係もない。いっそのこと、負けずに「森林の日」とか「林業の日」の制定を陳情したらどうだろう。いつが適切なのか、誰か思いつきません?
せっかくだから、毎年恒例の国連が定める国際年も。
2014年は、世界結晶年と国際農家年だそうだ。この内容については、まだ調べていない。
科学誌ネイチャーに掲載されたアメリカの研究チームが出した「老木の方が生長が早く、二酸化炭素も多く吸収している」研究結果は、各所に波紋を広げているようだ。科学誌の中でも慎重だとされるネイチャーに発表されたのだから、確度はそれなりに高いと思う。
http://www.afpbb.com/articles/-/3006698
なんたって、今の地球温暖化防止のための森林政策は、古い大木より、若く小さい樹木の方がたくさん二酸化炭素を吸収するという前提で、森林の若返り=二酸化炭素削減を推進しているのだから。
私も仰天。以前、年取った大木は、光合成による生長量(炭素吸収量)より呼吸による分解(排出)量の方が多いのなら、大木は徐々にやせ細る?と考えたことがある。
まさか、そんなバカなことはないだろうから、せいぜい生長しないだけと思っていたが、どうやら大木はそれなりに生長を続けて、さらに太っていたということになる。
この研究では「大気中のCO2の削減については、大きな木のほうが良い」と結論づけている。
研究チームは、6大陸403種の樹木67万3046本のデータを分析という。おそらく、この中に日本の木も入っているんだろうな。ただ最高齢の木は樹齢80年だというのは、ちょっと……。80年くらいでは老木と言わないでしょ。
一方で、「樹木の「大小」という言葉は、同じ樹木の種の中で相対的に表現した。例えば、セコイアオスギの場合では、幹の直径が3メートル未満は「大きい」とみなされなかったが、他の種では直径50センチを超えると「大きい」と判定される木もあった。」とある。直径3メートルの木が80年で育つとは思えないのだが……。
ちょっと、この記事は不明確。誰か、原論文を読んでみてください。。。
林業的には、現在は伐期を80年にすると長伐期扱いだが、植物学的にはもっと延ばす必要があるのかもしれない。
魚や家禽・家畜などの飼育では、養育期間と餌代などから最適期間を導いている。とくにニワトリなどはブロイラーと呼ばれるように、成長がピークの時期に出荷する。
仮に人工林を木材の養殖に見立てると、時間、コスト(植林・育林代)、収穫量(=利益)をグラフにして、もっとも最適な伐期を計算する必要がある。
たとえば樹齢100年150年くらいが、もっとも効率のよい木材養殖期間だとなったら……科学的知見を取り入れるのが苦手な林業界だが、少しは考慮してみてほしい。
昨日の続きは、ヤフーニュースに「里山の人工林に注目してみよう」として書きました。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakaatsuo/20140122-00031868/
もともと昨日書くつもりが、脱線しすぎて書かなかったもの。ヤフーの続きをまたこちらに書いたりして。この手の続編?連載?も面白いなあ。
里山の人工林から材を出すネックもある。生駒山など、周りがニュータウンだから、トラックを入れにくいし。もっとも小規模なら、やり方はあるかもしれない。また高く売れるならヘリコプターも使える。
林業の振興は、里山にあり、だ。
私はヒマさえあれば、生駒山中を遭難……もとい、散策しているようなことを書いている。
が、実は嘘なのである。ブログだから、そのように見せかけているだけであることを、ここに告白しよう。
私が生駒山を歩くのは、森林浴でも森林療法でも森林セラピーでもない。もちろん遭難セラピーなんて怪しげなものでもない。遭難が趣味? まさか(嘲笑)。あくまで、そのように見せかけているだけなのであるよ。ふふふ、騙されていたでしょう。
そう、私は、里山の典型例である生駒山を常に観察して、里山の真理を追求しているのであった。山に分け入り歩くのは、そのための視察であり、実践的な考察の場として利用するためである。だから、出発前に綿密な計画を練り、その日はどこを視察して、何を観察するか十分に煮詰めているのだよ。
もちろん、ときに予定どおり進まないこともある。予定にはない道を選んだり、道なき森内に分け入ることもある。が、断じて遭難ではない。ちゃんとその場で観察すべきものを見つけて、臨機応変に計画を変更しているのだ。
そして、常に科学的に考察し、新たな知見を得ることに邁進しているのである。決して迷って焦ったり、必死になったりテンパったりオロオロしたり、することはないのだ。単にブログでそのように見えるよう面白おかしく書いているだけなのだ。
森林ジャーナリストなんか、世を忍ぶ仮の姿。ときに経済ジャーナリストになればよかった、とぼやくのも、皆さんをたぶらかし、本来の目的を隠しているに過ぎない。これからは森林思想家、あるいは森林哲学者と読んでほしい。いや、これも仮そめの肩書に過ぎないのであるぞよ。
どうだね。そろそろ私の正体に気づいただろうか。
そういえば仲間に、ジョーンズを名乗って地球=日本人を観察している調査員メンバーもいるなあ。。。
ふっ。彼はまだ未熟だ。
さて、今回の里山観察の結果。まずは、こんな写真を。
一般には、里山=雑木林に覆われている土地だと思っていないだろうか。
棚田などの農地はこの際置いといて、山の部分を捉えると、薪をとったり草を刈ったりする場だと思っているだろう。
そして雑木林とは、基本的には落葉広葉樹林だが、マツなどの針葉樹も生えているし、照葉樹の進出も激しい。まさに多様な木々の種類があると思っている。
しかし、実際にはスギやヒノキの林がかなり多い。植えたのは戦後が圧倒的に多いだろうが、すべてがそうとも言えない。どうやら古くから人工林にした区域が里山の中に一定の割合あることに気づいた。
私の感覚的には、生駒山で2割に達する。ほかの里山も、1割以上はあると思う。つまり、植生の観点からすると、人工林も立派な里山の一員と言えるだろう。そして、里山の人工林こそが里山の本質を示していて、今後この扱いが大きな課題になるのではないか。
まあ、上記の写真のように、ほぼ放棄されていて、この林分にたどり着く道が今やない、という有り様の部分も多いのであるが。
この観察結果から、何が導かれるか。森林思想家として到達した結論は……残念ながら、前書きに力を注ぎすぎたので、これ以上書く気力が失せた。また改めて。
昨日の朝日新聞の「ザ・コラム」欄に、遠野の馬搬が取り上げられていた。
なかなか大きな紙面で、下二段ぶちぬき。筆者は、編集委員の大久保真紀記者。
今年が午年であることに引っ掛けて、遠野で人と馬の協働する社会をめざして活動する若者3人がいる……という切り口で、遠野馬搬振興会のメンバー(岩間さん、伊勢崎さん、菊地さん)を紹介している。
馬搬は、これまでの紹介したとおり、馬による原木の搬出である。重機を使わず、道も入れずに木材が出せる環境に優しい方法であることを売り物にしている。
3人は冬は林業、春夏は農業を馬とともに行おうとしているのだ。農業も無農薬の自然栽培だ。
記事には、そんな夢みたいな生き方に示す周囲の厳しい目も紹介しつつ、「名馬に癖あり」「天馬空を行く」ということわざに触れて、癖のある「3頭の馬」に未来に期待を寄せている。
まあ、メンバーを知っている私としては、コメントをしにくい(~_~;)のだが、ちょっとだけ。
記事にもあるが、「金があると失うものがある」と、清貧の生活を描いている。
私もそんな痩せ我慢のセリフを日々吐いているが、実は馬搬の木をブランド化して販売する計画が進んでいて、馬が運び出した木材で家具をつくったり、馬搬による薪……などを高付加価値化しようとしている。
別に馬搬の木だからと言って、木材としての機能が高くなるわけではなく、環境に寄与していることのほか、馬の優しさとたくましさを併せ持ったイメージを最大限に活かそうという戦略だ。当然、それを買うのはお金に余裕のある人になるだろう。
思えば、薪ストーブを好む人もお金に余裕がある人が多い(あくまで都会で薪ストーブを持つ人、ですよ。舶来性のン十万円する薪ストーブを備えて、一晩燃やすだけで何百円も消えてしまう薪をふんだんに購入する人のこと。)。
馬のイメージも、乗馬クラブとか、競馬の馬主など、お金持ちが楽しむ暮らしだろう。
何も皮肉を言いたいのではなく、馬搬とか木製品とかのターゲットとなるのは富裕層だということだ。このことを忘れては成功しない。だから清貧と富裕の協働(~_~;)である。
それに3人とも、あえて清貧になろうというのではなく、金より面白いもの(馬搬や農業)を発見したぜ、ということだと思っている。
「金もうけを最優先にはしない」けど、金だってほしい(笑)。私も、この精神を馬搬から学びたいと思う。。。なんのこっちゃ。
私もメジャーな経済や社会問題を扱うジャーナリストめざしていたら、別の人生歩んでいたかもしれない……と思うんだが。
そこで、少し経済的な思索を。
現代の資本主義には、株式会社という存在がある。それは資本(マネー)を集める手段として、株券を発行するわけだが、それを買う人がいることで株式市場が成り立っている。そこで株を買うということは、株を発行する会社が将来伸びることを見込んで「投資」するわけだ。
株を売ることで資金を集めた会社は、それで事業を行い、利益を出して成長すると、株の価値は上がり、また配当金もあり、投資した人に還元される。
だが、このシステムを利用して、株の価値の上下をにらんで売買する人が現れた。その会社の将来なんぞに興味はなく、単に購入価格より高くなったら売って利ざやを稼ぐことを目的とするわけだ。だからデイトレードなども行われる。これは「投機」というべきだろう。
そして、現実のマーケットは投資より投機で動いている。ときに巨大なファンドは、小さな国を破産に追い込んでも利ざやを儲けることに邁進する。そこまで行かなくても、さまざまな思惑で会社の成長どころか下落を狙うことさえある。
これが経済を長期的な目で見ることを失わせ、健全な発展を妨げていると思うのだが……。
森林を運用する林業でも同じことが起きていないか。
森林という資産に長期的な「投資」をして、資産価値を上げることが本来の林業なのに、多くの人が「投機」目当てに動いているのではないか。森林から短期に利益を上げることを期待してマネーを流し込み、それ以上の資本を回収しようとする。たとえば借金で高性能林業機械を購入して、どんどん木材生産して利益を出す、みたいな発想だ。
ようするに目の前の利益で考える。
しかし、資産=資本プラス負債だと理解したら、ときとして資産を減じてしまうだろう。
株の売買をしている人(たとえば素材生産業や木材産業?)はそれで儲けた損したと短期に判断するのだが、肝心の森林所有者は資産価値を落として完全に損してしまう。すると、森林を投げ出す。いわば会社を廃業か破産させるようなもので、株は紙切れになるだろう。それでは公益的価値まで減じてしまう。
森林の資産価値を上げることを目的にしたら、短期の利益に追われないで済む。もちろん長期投資すれば必ずしも上がるとは言えないが、それは投資の失敗であり、考えた末のことならあきらめもつく。森林を瞬発的な投機対象にされると、森が痛めつけられるのだ。
なんとか林業を「投機」ではなく「投資」にする方法はないだろうか。林業改革の方策の一つに、「森林の証券化」も考えられるのだが、この状態だと難しい。
……こういうことを熱心に考えて、森林経済ジャーナリストに衣替えするかねえ。
今日は寒い。で、家にこもっていたら、午後になっても歩数計は300歩に達していない。
そこで散歩に出ることにした。
ただし、山に入ることはしない。雪に降られたら困るじゃないか。「遭難」してしまう。しかし、いつもそう言いつつ山に入ってしまうそこで、考えた。入れない格好にしよう。
ハーフコートにスラックス、革靴。これで出かけたら山に入ろうという気持ちになるまい。汚すのはイヤだもの。
そうだな。街をあのルートで歩いて、最後はあそこのカフェに寄って……そこの薪ストーブの炎を身ながらミルクティを飲んでくつろぐとするか。
そう決めて家を出た。今住む街の一角の公園に寄る。この裏の山はどうなっているんだろう。以前から気になっていた。が、今日は入らない。ただ、どこから入れるか確認するだけ。
森に分け入って覗いてみた。なるほど、行けそうだ。この斜面を登って、あそこから下ればいいんだな。次はちゃんと用意して行こう。
……で、そのまま山に入ってしまった(泣)。。。
ただし、服は汚したくない。靴だって濡らしたくない。可能な限り安全ルートをたどる。幸い、踏み分け跡のような道がある。よし、この道からそれないよ。
おお、自宅から5分で深山幽谷の気分だ。沼がある。急崖がある。巨石がゴロゴロした渓谷だ。滝まであったよ。わくわく。でも、道からそれないよ。
おや、人工林? 踏み跡が消えた? なに、大丈夫。天才的な感で、ルートを見つけてみせるから。ほら、ちゃんとまた踏み跡を見つけた。よく見れば、刃物で切った草木の枝葉が落ちている。人は来ているのだ。人跡未踏ではない。どうも尾根筋に続く。境界線調査のために人が入ったのかな。
山を越え、次の谷までトラバースし、おお意外と奥まで入ってしまった。
足跡もたくさん見つける。たいていイノシシだが、肉球のある足跡もある。野良犬か、キツネかタヌキか。
イノシシかね。溜め糞するのか。ちょっと量が多いような気がするが。まさか人糞てことはないよな。
ほかにもウサギの糞もあった。
人の痕跡と獣の痕跡を探して推理して……と、なんだか遭難サバイバー気分になる。
そして、こんな巨木に出会った。
コナラだろうが、大物だ。この曲がり方が異常だが、周りを威圧している。
が、根元にそれを見つけてしまった。
そう、木粉を吹いた姿を。
つまり、この木はナラ枯れを起こしていた。
今は立派に立っているが、春に再び芽吹くことはないのだろうな……。
知られざる巨木が人知れず枯れていくのは悲しい。
さて、その後は明らかな人の痕跡と出会う。缶ジュースやプラゴミが捨てられていたのである。
そして遠くに電柱が見えた。あそこに道が走っているのか。多分、舗装された真っ当な道だ。これで、服装に違和感なく歩けるだろう。。
私はコートに革靴姿なのであった。そろそろ復帰しよう。そこで砂防ダムによじ登って、さらにササのブッシュをかき分けて道に近づく。
やった。出たぞ。
あれ、まあ。
鉄柵だよ(泣)。。
な、なんとか乗り越えるか、切れ目を見つけねば。
ガサガサして鉄柵に手をかけると、目の前に人が。
わっと、向こうも飛びのいたが、こちらも焦った。山姿ならともかく、この格好で藪から出てきたらオカシイだろう。しかも柵の向こう……。
その道は山麓の公園から下りていく抜け道だったのだ。滅多に人は通らないと思っていたが、土曜日だからウォーキングする人が通り掛かったらしい。
滅多に人が来ない場所なのに。はあ。
さて、その後はおとなしく街に下って目的のカフェに……行くつもりだったのだけど、またもや脱線してしまう。それがとんでもない場所にまぎれ込んでしまう騒動となるのだけど、それはまた別の話。
昨日紹介した「木材利用の発展」には、万国森林博覧会の記述がある。実はほかの本にも登場したことがあるのだが、この博覧会は何だろうか。
森林とあるが、やはり林業系の展示会だろうか。
記述によると、明治17年に、イギリスのエジンバラで開かれた万国森林博覧会である。日本の山林局も林業関係の出品をしたとあるが、修羅などの古くからの運材設備の模型を出したところ、驚かれたそうだ。外国では、この手の重力を利用した運材方法はなかったらしい。しかも能率が高いのである。
しかし、労力がかかり、技術も難しい上に、場所ごとに製作しなければいけないことが真似ることが無理なのだ。
その点は別の機会に考えるとして、現代の世界で森林博覧会を開催できないか夢想してみた。世間に森林と林業の大切さ、奥の深さを紹介する博覧会である。
何ができるか考えてみる。
単に林業機械の展示会ではつまらない。そんな部門があってもいいが、一般受けしないだろう。もっと森林に関する幅広い展示やイベントを催さないと。
たとえば園芸部門もあっていい。世界の庭園展示、緑化技術の展示もいいだろう。砂漠を緑に! なんて実例もいいじゃないか。
もちろん研究発表の部門もほしい。
熱帯雨林など各地の森林の樹冠世界や地下世界を再現する。
世界中の熱帯雨林やサバンナからタイガまで生態展示するのもいいが、それだけでは植物園の温室みたいだから、いっそ3D映像の体験ドラマゾーン。さらに古生代の森、中生代ジュラ紀の森。コケの森。草ぼうぼうの庭を小人気分で歩く森があってもいいな。
そして砂漠展示もほしい。森林のない世界を示すことも重要なのだ。
ついでにグルメは、木の実とジビエでしょ(笑)。
また森林保全を訴えるNGO、NPOのブースも用意しよう。
見せる要素は、やはりチェンソーアートとアーボリカルチャーだな。日々、実演する。世界選手権戦を開いたら盛り上がるだろう。
一方で木工ゾーンでさまざまな木製品を見せる。つくる。木のオモチャも家具も、木造建築物も再現だ。
ログハウスはもちろん、さまざまな構法を展示する。巨大建築物もほしい。五重塔どころか高さ100メートルを越える七重塔や九重塔だって、日本はかつてあった。それを再現する。CLTもいいけど、もっと面白い建築を世界中から集めたい。
……いろいろ思いつくが、出展する企業や国を集めるのは大変かなあ。
しかし日本は、1990年に専門的な園芸博をアレンジして「国際花と緑の博覧会」を開いてしまった。同じように森林テーマの国際博を企画することは可能ではないか。ただし、バブル経済でないと難しいか?
これは、かつての国産花と緑の博覧会の会場の名残。
書評というには当たらない、本の紹介をしたい。
『木材利用の発展』 宮原省久著
出版社はなく、どうやら自費出版らしい。奥付けには、著者兼発行人として宮原の名前がある。住所は東京都新宿区新小川町○○である。なお出版年は、1958年(昭和33年)10月1日。定価は400円。
実は、古本市で発見。深く考えずに購入した(かなり安かった?)が、このほど読み終えた。天下の林業界の奇本、珍本、そしてネタ本である。
著者は、なかなか博学。歴史、技術、労働問題まで知識の幅は広い。いったい何者? 元官僚なのか、学者なのか。
と思って検索をかけてみたら、結構たくさんの木材関係の本を出版していた。たとえば……
フィリピンおよび北ボルネオの木材資源
木材商業論
日本の製材工場
製材原木―製材工場の経営実務
木材流通の知識
いずれも古書だから、簡単に手に入らないし価格も高い。図書館で探した方がよいかもしれない。私が手に入れられたのは僥倖だった。
そして、発見しました。この人の肩書。
木材ジャーナリスト!
そうか、戦後日本の木材業界に木材ジャーナリストなる肩書を持つ男がいたのか。なんだか親近感がわく(^o^)。経歴はわからないが、前歴は木材業界にいたのだろう。
驚いたことに、
宮原省久伝: 木材ジャーナリストの生涯
という本も発行されていた。おそらく死後刊行されたのだろう。
あんまり著者の探索に深入りして本の内容を紹介できなくなってしまったが、いくつか興味を持ったところ。
古代の都建設(藤原京、平城京など)の建設には、多くの奴隷が全国から集められたこと。そして中部山岳地帯からは、斐太人(ひだひと)と呼ばれる伐木や運材の技術に長じたもの、畿内の和泉からは杣人(そまびと)と呼ぶ木材技能者がいた、とある。彼らが畿内に集められ優れた林業技術が競われたのだそうだ。
昭和初期に樺太材はパルプ用に優先するため内地に向けは伐採制限をたけた。そのため樺太材が入らなくなり、港湾都市製材工場では「丸太よこせ運動」が展開されたという。
拓務大臣は、それに対して樺太は増伐できないが、フィリピンやボルネオには、広大な日本人の利権の森林があり、莫大な投資が行われているから、そちらを使えと回答。南洋進出は木材面からも推進されたらしい。
日露戦争では、林業労働者は質実剛健の兵士として徴用されたため、肝心の山仕事をする人がいなくなり、あわてて人夫を募ったら散髪屋や魚屋までが集まって使い物にならなかったこと……。そこで馬車で、隣県の林業労働者を盗み出した! そうだ。
そのほか、山林所有者が大儲けをしても山に還元せず所得は貨幣資本として都会に流れてしまった。そのため労働者の待遇改善は進まなかったこと、など労働問題にはかなり筆を割いている。
こうした情報は、現代にはなかなか伝わっていないから、貴重である。私も後世に、古書店で「昔、森林ジャーナリストという肩書の人がいたらしい」とマニアに発掘されることに期待しよう。
意外と知られていないことだが~実は私も知らなかったのだが(^^;)~拙著『森林異変』のkindleキンドル版が発売されている。
いやあ、読者からのメールで気がついたよ(~_~;)。
版元に問い合わせたら、『森林異変』だけ出したそうな。いや、以前に電子書籍化に関する許諾を出したらしい(私も許可したらしい)が、忘れていた。
ただ図版などが入っているものは著作権者との交渉が難しいので、まだ電子化をしていないという。『森林異変』はなかったかな。
じりじり日本にも電子書籍が増えている。一定程度、今後も伸びるのは間違いなかろう。
私としては痛し痒し。キンドル版を宣伝したら書籍版の売上が落ちないか……とか考えてしまう。あるいは新たな読者の開拓になるのか?
しかし、本屋の売上がジリジリ落ちているのは間違いない。(拙著だけでなく、全出版界の傾向。) そして町の本屋も潰れていくか、あるいはDVD屋に衣替えしている。一方でネット書店の売上は伸びている。
昨年末に、某出版社編集者と話したのだが、私の本はこのところ売れていないそうだ(泣)。。。
ただ、そのデータは書店のものなのである。ネット書店のデータは、(とくにAmazonは)公開されていないからわからない。
拙著は、多分ネット書店で売れる確率が高いと思う。森林林業なんて隙間テーマの読者は全国に薄く存在しているのであって、大都市集中ではないだろうから。そして地方都市では書店が減っているから、購入はネットを使う確率が高い。
だから拙著版元から聞く売れ行きと、他社が調べた私の本の売れ行きは一致しないのだろう。
一方で、仕事も雑誌記事は減って、ネット記事が増えている。そもそも雑誌が減っているし、売れ筋がタイトになって、遊びのページが減っている。結果として、森林系の記事を掲載する余裕も減っている……と感じる。
こちらも痛し痒し。(ちなみにYahoo!ニュースはほとんど金にならないけどね。)
今後は電子化、そしてネット書店を無視して著述業は続けられないだろう。そんな出版界の現状に気にかけつつ意識しつつ、今年もお仕事しなくてはならない。
……本当は売ることは版元に全部任せて、取材と執筆に専念したいんだけどなあ。。。
Yahoo!ニュースに「日本の林業は、買いだ!?」を書きました。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakaatsuo/20140114-00031575/
で、毎度の「裏側シリーズ」なのだが(^^;)、これを書くきっかけは、本当に今山を買おうとしている人が多いからだ。
このところ、しょっちゅう出会う。個人でも「この前300ヘクタール買った」という人もいるし、「今度まとめて2000ヘクタールくらい買いたい」という人もいる。以前、ITベンチャーを起こして財産を築いた人も、林業に参入して「世界一の山主になりたい」という。
もちろん、企業の山買いも珍しくない。本文では名を出さなかったが、有名どころなら住友林業もサントリーも買っている。ほかにもそうそうたる企業が今こそ山林を所有しようと動いていることが伝わってくる。
ただ、「日本の林業は、買いだ」と書けば、必ず「外資が日本の森を奪う」路線に食いついてくる人がいることは想像がついた(笑)。そこで、一応はそれとは違うことを記したつもりだが、それでも反応する人いるんですねえ。何の根拠で外国人が日本の森を買っていると思うのか。
実は、私はこの疑惑の最初の発信源を知っている。そして当人にも会って話を聞いている。彼自身は決してヘンな思惑があったわけではないが、その疑惑を漏らしたことで食いついた人間がいて、それをネタに一騒動起こせば儲かると考えてキャンペーンを仕掛けたらしい。その当たりの動きもほぼわかっている。そして、結果的に完全なデマであることも間違いないと断言しておこう。
だが、あえて今その経緯を発表するつもりはない。
……それにしても、森を買うと聞いたらすぐにこのネタに飛びつく御仁が多いのは、なんだろうね。よほど猜疑心に固まっているのか、日本および自分に自信を失っているのか。おそらくジャパン アズ ナンバーワンと言われた時代の日本人なら、こんなデマは一笑に伏しただろう。落日の日本を感じて焦っているからこそ、疑心暗鬼に染まり、周りに敵を見つけようとしているように思えてならない。
昨日の続編。
京都の北山に屋久杉に匹敵する巨木の森があることをご存じだろうか。
片波川源流から井ノ口山にかけて、推定樹齢1000以上の杉が数十本生える巨木の森があるのだ。ほかにもクリやモミやツガなどの巨木があちこちに見つかっている。
ただし、屋久杉なり、昨日の千本山なり、ほかの巨木の森とは様相がかなり違う。直径が1メートルの木が林立……というイメージで捉えると唖然とするだろう。
樹齢以上に目を奪われるのは、その異形の樹の形だ。
私が最初に訪れたのは十数年前だが、少し雨が降っていて、ガスに包まれていた。白い世界にこのような黒い姿が現れたときは、禍々しい、と書けば怒られるかもしれないが、巨木を前にした感動よりも、異世界に紛れ込んだかのような雰囲気を漂わせていた。
根周りが14・7メートル、胸高周り18メートル。その樹齢は、約2000年と推測されている。
写真に写っているのは、同行したカメラマン。
この樹形の理由は、肝心のスギが、ウラスギとか芦生杉とか呼ばれる伏状性の強い種類であること。伐採したり折れても、その切株・折れ口から萌芽が伸びたり、枝が地面についたら、そこから根が出て幹になったりする性質を持つ。
おそらくこの木も、1000年以上前に、折れるなりしたが、その後も成長を続けたのだろう。ちなみに、この地域の巨大杉は、みなこのような樹形をしている。もしかして、平安京の造営時に伐採されたのかもしれない。あるいは台風などで一斉に折れたのか。
なお、上記の杉は、個人の山にあるから、勝手に入ることは禁じられている。
それなのにマスコミも含めて勝手に侵入し、勝手に報道するケースが後を絶たないそうだ。なかにはツアーを組んで客を連れて行く「ガイド」がいたり、木の周りで宴会したりされて困っているとか。
私は、後にもっと厳密に侵入を禁じないのですか、と山主に聞いたところ、「山は先祖からの預かりものだから、完全に拒否するつもりはありません」と応えられた。ただ、持ち主にちゃんと届けて入り、森や木を傷めつけないような扱いをしてほしいという。
「先祖からの預かりもの」という言葉に、いたく感動したのである。
いまだ学生時代の写真類は見つからないのだが、それでも結構古いアルバムを発見。
なかに、高知県馬路村の千本山の写真があった。おそらく20年近く前だ。
一人で登ったのでセルフタイマーで撮った記憶がある。
とにかく巨木の森。いわゆる梁瀬杉が林立している。日本3大スギの一つに含まれることもある天然杉だ。
それも、直径1メートル近いスギが隣接して生えていることに驚いた。ほとんど間がないのだ。
直径1メートルの木が1メートル間隔で生えている様子を想像してもらいたいのだが、こんな光景を目にすると、「本当に間伐は必要なのか。間を開けないと木は育たないのか」という疑問を持ってしまう。
かつて馬路村は、全山がこんな状態だったという。そして一つの村の中に2つの営林署があって、巨木を伐りまくった。すでに赤字状態が続いていた林野庁の国有林野特別会計では、稼ぎ頭だったのだ。これらの営林署に配属された署長は出世コースに乗れるとも聞いた。
結果として、山は荒れ果て、もはや巨木林は保護地区に指定された千本山にしか残っていない有り様である。そして2つの営林署ともに閉鎖になった。
私が訪れたときは、村内各地に巨大な廃屋長屋がいくつもあった。部屋数は数百あるのに、住んでいるのは一人とか無人とか。国有林で働く人々の宿舎である。学校もあったというが、みんな無くなった。
今の馬路村は柚子製品で有名になり、地域づくりのトップランナー化しているが、その前は巨木の村であったことも覚えておきたい。
生駒山の里山再生実験で初回は2時間弱で打ち切ったが、チェンソーオイルが尽きてしまっていた。
そこで買いに行った。もちろんホームセンター。
すると、2種類並んでいた。
見てのとおり、左が通常の鉱物オイルで、右は生分解性の植物オイル。
肝心なのは価格だ。
398円と899円……。
こ、この差は……!
思わず考え込む。
生分解性オイルをホームセンターにも置き出したのは立派なことだ。これまではなかった。
が、消費者の立場として、どちらを選ぶべきか。
頭の隅でモゴモゴうごめく。
鉱物性オイルを林地にばらまくことは、たしかに土壌によいことではない。しかし、私の使う量はわずかである。1本買って、1年くらいは持つのではないか。当然、間隔も開いていて、自然界はゆっくりながら分解してくれるだろう。しかも面積もしれている。1アール2アール程度だよ? だいたい、これまでも使ってきたのだ。たまたまホームセンターにあるからといって、価格が2倍以上もするオイルを使う必要があるだろうか。また、生分解性オイルは、やはり使いにくいとも聞いたことがある。これを使ってチェンソーが故障したらどうする? ここは、やはり慣れたオイルを使うべきではないだろうか。素人が理想を語って高望みをしたらろくなことがない。ここは妙なことを考えずに決断すべきである。
はあ……。私はため息をついて、オイルを手にとった。生分解性の方を。価格が898円する方を。
これが仕事なら、あまり躊躇せずに鉱物性オイルを選んだかもしれない。日々のコスト削減は重要である。が、私のやっているのは趣味の範疇だ。こんなときは背伸びするもの、すべきものだと思っている。
ついでに生分解性オイルの使用体験をしておけば、今後何かの際に意見言えるかもしれないからね(⌒ー⌒)。とりあえずブログネタにはなった。
久しぶりにチェンソーを握る。幸い一発でかかった。
目的は、生駒山の「田中山林」の森づくり、いや森遊び研究所仕事始め(^o^)。
と言っても、何をするかと言えば、まずは伐採だ。
太いコナラなどが何本もあるのだが、これらを倒すのは私の技術では無理なので、特殊伐採の技能をお持ちの方の応援を頼んでいる。今月中に実施する予定である。
そこで私は、その特殊伐採、つまり木登り伐採をしやすいように、それらの大木の周りを切り開くことにした。小低木ばかりである。これまでも少しは手を入れていたが、どうしても遠慮がちになるところ、今回は肝を据えて伐る。
でも、迷いは常にある。あ、これはソヨゴだから残したい(ソヨゴは好きな木の一つ。照葉樹とはいえ、柔らかく明るい色の葉や、小さな花、そしてソヨゴは蜜が採れることも気に入っている理由)とか、これ、落葉樹だから残すべきかな、とか。形のいい樹木も景観的に、これは残した方がいいんじゃない? とか。
ええい、弱気ではイカン。
とりあえず、満タンのチェンソーの燃料を使い切るまで伐って伐って伐るのだ。
……おかげで2時間弱で、そこそこ林床が広がりました。
たまにハイカーなども通るのが気になる。
「小規模皆伐・再山再生実験地」とでも看板立てようか。
伐りだすと、結構楽しいのだが、急がず、1本1本伐っては全体の景観を身ながら考える。
しかし、大変なのは、倒した木の片づけだった。こちらは鉈で枝を落としつつ短く刻む。
まあ、焦らずにやろう。
我が生駒市の近鉄生駒駅北口再開発計画がいよいよ完成に近づいている。
長年揉め続けて、おかげで放置状態だったため、未完成状態のままの見すぼらしい駅前が、なんとか形になりそうだ。
と言っても、侃々諤々の末に決まったのがマンション街とは…… ショッピングセンターや公共施設をつくって赤字抱えるより無難だが、面白みのない結論だ。これが町の顔になるのか。。。しかも生駒らしさどころか奈良らしさもない、ニュータウンに有りがちのデザインなのである。ま、完成前から文句いうのはこれくらいにしよう。
そんなことは地元の人以外は興味がないだろうから、別の所に書きたいと思うが、一つだけ私の琴線に触れたところをご紹介。
このマンションビルの壁面に注目。
そう、部分的に壁面緑化を行うらしい。
面積的には中途半端だが、コストとの兼ね合いか。壁面緑化はつくるだけでなく、維持費もかかる。
まだ未完成だし冬だから映えないが、十分に育てば美しく見えるだろう。
アップすると、緑化植物の色を利用して模様を描いていることがわかる。
これって、結構難しい。ちゃんと育てばいいんだが、一部が枯れたり想定外の育ち方をすると模様がぶれる(^^;)。
とりあえず、頑張って完成させてほしい。
最近は壁面緑化の工法が進歩してきて、各地に誕生している。
実は、私も緑化法としては注目して各地で視察中。
自然の植生とは縁遠いものの、都市部では壁面を無視したら景観が成り立たない。目に映る緑を増やせるなら、なんでもやるべきというのが私の立場である。
最近は緑化率ではなく緑視率という言葉もあって、ある定点から見渡せる視界にどれだけの緑があるか、がポイントになる。それが人間の感情や精神にも影響を与えるという可能性がある。
ちょうど、こんなニュースもネットでは流れている。
「英エクセター大学医学部のIan Alcock博士が、5年にわたり1,000人以上の被験者のデータを分析した結果、緑の多い都市部に移り住んだ人のメンタルヘルスは急速に回復し、3年経っても良好な状態を保っている」
生駒市は、山の方に眼を向ければ十分に緑は多いのだが、街中で目に入る緑を増やす価値はまだまだあるだろう。
ちょっと思うところがあって、古い写真を探している。
主に学生時代のものだ。
ところが、見つからない。引っ越しして収納場所が変わってしまったこともあるが、そもそも今住んでいる家のどこに何があるのかわからない(;_;)。
コツコツ発掘しているが、見つかるのは卒業後ばかりで、どうしても目的とする学生時代のものが見つからない。この頃の私はガリガリに痩せていて精悍な風貌だった……のに。ええ、私の記憶では。
子供時代のものは、親のアルバムの中にあるようだ。しかし中学-高校-大学のものが見つからん。
ただ一枚だけ、奇跡のようにモノクロ写真が出てきた。これは初めて訪れたボルネオで撮影したものである。
きっと、このこの風景が気に入って、写真を引き延ばしたのだろう。
どこで撮影したのかはっきりしないが、おそらく内陸部のケニンガウ辺りではないだろうか。……と言っても知っている人少ないだろうけど(^o^)。
今は街も変わったと思うが、当時は完全な田舎町だった。
ときは1979年。ああ、35年前かよ。。。。
今や、歴史の記録のレベルだな。
もっとも、この写真に写っている内容は、今とそんなに変わらないと思うが。
今夜は、ちょっと硬派(^o^)。
日本の林業がおかしくなったわけ、そして再生するのに何が必要か、について考えると、何よりも補助金に問題があると考える。
林業に多額の補助金を注ぎ込んだことが産業構造をおかしくしてしまい、事業体に依存体質を染み込ませた。だから、林業再生をもくろむなら、補助金全廃を目標に掲げるべきだ。
とはいえ、いきなり全廃したら確実に林業界は破綻するだろうから、5年10年かけて補助金を徐々に削減し、必要な助成部分と切り捨てる部分を仕分けすべきである。
……これが私の基本的スタンス。これに対しては、異議を認めません(笑)。
さて、この立場から林業界を見渡すに当たって、「いつから林業の補助金は登場したのか。いつからおかしくなったのか」を考えてみたいと思う。
そこで戦後の林政史をひもといてみる。
戦前はもちろん戦後も林業に補助金はほとんどなかった。むしろ林業は優良産業であり、林業の生産額は日本の財政を動かしていた。正確な数字はわからないが、明治初期のGDPの何割かは、林業が生み出していたはずだ。また戦後の高度経済成長下の材価の高騰は、林業に巨万の富をもたらした。
わかりやすい国有林経営でみると、戦後は一般会計から切り離されて国有林野特別会計にされたが、ずっと黒字続きで一部を一般会計に繰り越すほどだった。1950年代,60年代に外部に出された利益は920億円にもなるという。今の価値に直せば、額面の10倍以上だろう。
それが恒常的な赤字になり、借金財政に転落するのは1975年以降だ。おそらく民間の林業界も、多くの経営が傾きだすのは、同じ頃だろう。
林業関係の補助金が登場するのも、だいたいこの頃ではないか。ただ何を以て林業の補助金とするのか定義づけるも難しい。また林業関係に支出される助成は、いつからどんな項目だったのか正確に調べられない(知っている人がいたら、教えてください)。
国有林の場合は、今でいう公益的機能にともなう部分、つまり治山費用や保安林の造成、林道工事費……などに一般会計から支出し始めたらしい。さらに国立公園や保安林の管理費、さらにマツクイムシ防除とか山火事防止などにも支出するようになる。特別会計内で行うべき事業なのに一般会計からの支出したのは、補助金と同じだろう。
民間も、国や都道府県がこれらの項目と似た補助金が設けられたのだろう。(具体的な補助金の内容がわかる人、教えてください。)
それでも、造成に長期間が必要で公共性も高く、天災の影響も大きい森林には、国費投入も仕方がない面もある。とくに森づくり(造林関係)は、数十年後への投資だから、民間資本ばかりに頼るのは無理があるだろう。……と納得できなくもない。
ここで注目すべき言葉が、某書籍に載っていた。1987年に林野庁の某人物が発した言葉である。
「いくら赤字で困っているとはいえ、経済行為をともなう費用まで要求できない」。
つまり、森林整備のための伐採だとしても、その木材を販売したら経済行為になるから、補助金は使えない、使うべきではないということだ。
そして「これが最後」。これ以上は求めないという意味だ。
だが、今はどうだろう。もろ経済行為である利用間伐、つまり木材を販売して利益を出すための伐採にも、堂々と補助金が出る。むしろたくさん木を出す(販売する)と補助率が上がる。間伐どころか主伐にも税金が支出される場合もある。もちろん販売利益を収入としつつ、補助金も受け取るわけだ。かつての林野官僚の「良心」は吹き飛ばされたかのよう。
国有林も同様だ。そして国有林の膨らんだ赤字総額3兆円以上が一般財源で肩代わりされて、特別会計も昨年消え去った。
いつのまに最後の歯止めを失ってしまったのだろう。個人の経済行為に税金投入するのに違和感を持たなくなったのだろう……これをモラルハザードというのではなかろうか。
この歯止めが外れたのがいつで、きっかけは何か、興味がある。でも、調べるのは億劫だなあ。きっと調べる過程で気持ち悪くなり、ムカつくよなあ。
誰か、代わりにやってください(⌒ー⌒)。ああ、また他力本願の悪い癖が出た。。。
ほんやり考えていること。
もはや昨年になるが、フィンランドからメールが来た。と言っても、日本人留学生である。
彼女(女性です)はとくに森林や林業の勉強をしているわけではないのだが、当地に住んでムーミンライフ! を送っているうちに森の恵みを感じるようになった、そこで帰国したら森林組合に就職しようかと思う……。
その後、林野庁はどうか? とも。
私の返事は「う~ん……」(笑)。
そのうえ「今後の日本の林業ってどうやって改善すればよろしいのでしょうか」という根源的な質問(^^;)に対しては、なんと答えればいいんだよ。
最近とみに感じるのだが、ヨーロッパに行ってから、森林林業に目覚める、あるいは最初から森林を勉強するならヨーロッパ、と日本の教育機関をすっ飛ばして留学してしまう人が増えているように思う。
別に悪いことではないが、最終的に日本の森林林業を扱いたいのなら、やはり日本の森林林業の勉強をしないと。欧米の林業だけ見て、日本にそのまま当てはめられてはなあ、森林・林業再生プランの二の舞だよ……と思う。
が、同時に日本の林学(という言葉はほとんど消えたらしい。森林科学とでもいえばいいのだろうか)の衰退は目を覆わんばかりである。いや正確に言えば、学問が衰退したのではなく、林学と林業の乖離がいよいよ激しくなったというべきかもしれない。
だいたい、政策に学問的収穫が活かされることはどれだけあるのだろうか。
ともあれ、実地にヨーロッパの森を見たら、林業関係に就職したくなった、という思いは素晴らしい。ただ、それに日本の社会・業界が応えられるかどうかが問題なんだけどね。
ちなみに私は、ムーミンライフに「転職」したいかも(^ー^)。
引っ越してから、宝山寺に参るのに、山越えルートを取ることが増えた。
現在の家は、かなり標高の高いところにあるのだが、そこから駅前に下って、また宝山寺に登るより、山の中を抜けてあまり標高を落とさないで宝山寺に到着しようという魂胆だ。
一応、道はある。山道をいくつかあみだくじのごとく渡っていけば、たどり着く。
が、ときにそれも面倒になって、道なき道を分け入って進むこともある。迷うことはない。よく知った山である。遭難なんぞしない。初詣遭難なんてするわけない。
で、分け入ったら、新たな発見も多い。
このコナラは、比較するものを写し込まなかったが、根回り3メートルはある大木である。
上部が3つに分かれているから、伐採後の萌芽がそのまま育って太くなったのだろう。
こんな知られざる大木が、山中にはまだまだあるんじゃないかなあ。生駒山は未知に満ちているのだ。
生駒山系の大木調査を催したら、結構いろいろ見つかるかもしれん。。。。まあ、探す人がいるのか、と問われたら私以外に道のない山中まで探す人がいるかどうかだが。
一方で、これは道端だが、こんなものも見つけた。
ようするに道案内をしているのだが、「生駒市民間防衛研究所」なるものがあったのだ!
そうか、遭難対策は民間防衛だったのだな。サンダーバードみたいだ。お世話にならぬようにしなければ……。
私も負けずに、何か組織をつくろうか。
そういや、昔は昨日記した山林を「国際森遊び研究所生駒支部」と名付けていたっけ。復活しようかなあ。
それとも生駒山系遭難科学総合研究所とか、生駒里山調査機構とか、新たにでっち上げ、もとい、創設しようかなあ。
Yahoo!ニュースに「今年こそ、「美しい森」をつくろう!」を執筆しました。
新年の初詣に訪れたのは、地元の宝山寺。現世利益を標榜し、関西一円から広く何十万人もの参拝客を集めるこのお寺だが、実は裏の顔を持つ。
それは御神籤のシビアさだ。。。。
昨年は、見事「凶」を引き当てている。他の年も1度や2度ではない。ほかにも「末小吉」など「凶」一歩手前も多い。正月の御神籤に「凶」や「大凶」を入れるかよ! と毒づきたくなるが、それが宝山寺の魅力だ(^^;) ホンマか?
調べてみると、ここに書いていた。
http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2013/01/post-bc42.html
昨年は、大神神社で引き直して「大吉」を当て厄払いしたのだった。ま、これは同行者のおかげかもしれないが。彼女は強運の持ち主だからね。
今年は、たまたま寺の一角に「無料」と書かれた御神籤があった。勝手に引いて、その番号で結果を見るだけで籤そのものはもらえないのだが、まずは前哨戦のつもりで引いてみた。
……「凶」でした。。。(°o °)。
よほど宝山寺の神様に睨まれているらしい(泣)。いつも禁足地に勝手に侵入しているからか? 遭難ばかりしているからか? 山を荒らしていると思われたのか?
気を取り直して、お賽銭もしっかり入れて、もちろん籤代も払って、御神籤を引いた。
「吉」でした(^o^)。
お情けかも。。。
よし、今年は生駒山のためになることをしよう。そして、来年は堂々と「大吉」を狙うのだ。
……という気持ちを込めて、「「美しい森」をつくろう!」を書きました\(^o^)/。
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