近鉄奈良線100周年の陰に
本日、近鉄の基幹路線である奈良線が、開業100周年を迎えたそうである。おかげで、いろいろ行事があったらしい。また、開業当時の車両デポ1形(後の近鉄200形)に模したペイントをした車両も走っているらしい。(私は、まったく興味ないけどね。)
ま、そんなことを言っても喜ぶのは鉄ちゃん、鉄オタ(鉄道マニア)だけだろうが、沿線に住むものとしてちょいと紹介。そして、私の仕事と満更関係ないわけではない……(~_~;)。
近鉄は私鉄最長の営業路線を持つが、その原点は奈良と大阪を結ぶ奈良線だ。設立は1910年だが、1914年に生駒トンネルを完成させて大阪(上本町)と奈良を結ぶルートを開業した。当時の名は奈良軌道⇒大阪電気軌道だった。
この時代に、生駒山をぶち抜くトンネル(全長3,388メートル)を掘るのは大変な難工事だった。着工は明治44年だが、複雑な地質と湧水に悩まされ、工事費用が足りなくなった。
そのため当時の社長が私財をはたいたという。それどころか、完成後もしばらく社員の給料支払いや切符の印刷費もなくなるほど経営危機に陥った。そのため生駒山の古刹・宝山寺の賽銭を借りに行った逸話が残る。宝山寺は私にとってもなじみ深い寺なのだが、金を企業に貸すとはたいしたもんだ。
なかでも大問題になったのは、大正2年に発生したトンネル工事中に発生した落盤事故だ。152名が生き埋めとなり、20名(19名ともいう)の犠牲者が出た。この工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も多く、この事故で犠牲となった者たちを祀る寺が、生駒駅近くに作られている。
これだけの事故と経営危機に陥れば、当然、大阪軌道の株価も暴落する。が、それを止めようと、大軌の株を買い支えた男がいた。
誰あろう、土倉庄三郎である。
大正2年と言えば、最晩年。すでに山林王としての財産の大半は失われていた。それでも庄三郎存命時は、まだ吉野の素封家の体面を保てる程度の金は動かせたらしい。おそらく旧知の関西財界人にも声をかけたのだろう。
かくして大阪軌道は守られたのである。さもなければ、現在の近鉄はなかったかもしれない。
庄三郎が亡くなるのは大正6年だが、当時から胃病に悩まされていたという。それでも森から近代日本を支えようとしていたのだなあ。
どうだ、『森と近代日本を動かした男』を記した私とは、関係あるだろう(笑)。
ついでに、こんな写真も披露しておく。
栄えあるデポ1形車両である。ペイントだけではなく、本物だ。
木造で、鹿のマークがポイントだ。
超レアもの。現在残っているのは2台だけだが、知られているのは近鉄の五位堂車庫に保存されているものだけ。この記事にも、ここ1台だけとあるが……。
http://c5557.kiteki.jp/html/daiki-debo1.htm
しかし、まさか野外にひっそりと残されているところがあるとは思うまい。それを私は発見したのだよ。
どこかは言わないけどね……。
ま、鉄道にはまったく興味のない私には、どうでもよいことなんだけどね。
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