一昨日、昨日と取り上げた『「水を育む森」の混迷を解く』の続編。ただし今回は、まったく別の面から私が注目した点。
本書では、エジンバラの万国森林博覧会が取り上げられていると記したが、もう一つ詳述しているのが、第3回内国勧業博覧会だ。これは1890年に東京・上野で開かれた国内の博覧会である。
ここにも水源涵養、土砂流出防止……などに関連した出展があるのだが、私が注目したのはそこではない。
そもそも第3回内国博と聞いて何を思い出すだろうか? いや大半の人は何も思い出さないと思うが(^^;)、『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』を読まれた方なら、多少は何か記憶に残っていないだろうか。
そう、土倉庄三郎も、この博覧会に出展しているのだ。そしてこれは、吉野林業にとってエポックメーキングな出来事だと私は思っているし、現在の林業にも通じる意味がある。
ただ、出品した時の様子や、その後の反響に関して記した文献が見つからなかったのが、拙著を記した際の悔いであった。勘繰れば、本当に出品したのか? 出品しても隅に追いやられていたのてはないか? という疑惑さえあった。
ところが、本書に記されていたのだ。
土倉翁は、この出品に対して「一等有功賞」を受賞していた。このことがわかっただけでも、私は感激なのである(^o^)。
ちなみに三重県の土井幹夫氏も、有名な大山林主。
報償理由には「意ヲ運材法に注ギ世ノ需要ヲ充サンコトヲ勉ム」とある。
私的には、ここが重要だ。
改めて紹介しておくと、土倉翁が出展したのは、吉野の多くの種類の木、木材、木工品とともに、筏なのである。長さ60メートルにもなる、吉野川を流す本物の筏を2連だ。
これを出展すると決めたときは、当時の奈良県庁とゴタゴタ揉めたようである。あまりの大きさに渋る当局と押し問答を繰り返した文書が残っている。今なら……ま、同じだろうな(^^;)。
こんな大きなものは展示できないという意見に対しては、展示館の中ではなく、野外の樹木の間に並べ、本当に川を流している状況を再現したらいい、提案している。それが実現したのかどうかはわからないのだが、これは今風に言えば動態展示に近い。
ともあれ、これらの出展物は単に林産物の紹介ではなく、運搬方法にも力を注いでいることを評価されたのだろう。
また出展と同時に解説書を付けた点も大きな意味がある。そこには吉野林業とは何か、そこで木々を育てる技術を解説し、吉野を見習い、各地でもっと植林しろ、山々に木を植えることこそ災害を防ぎ、国を富ませる興国である、と檄を飛ばしている。
まさに展示物と解説書はセットになった吉野林業の広告の役割を果たす。実際、この後、次々と吉野林業の解説書が出版されていく。
そんな裏取りが取れたのが、本書のこの項目なのである。
せっかくだから、もう一度表紙を紹介。詳しくは、サイドバーからAmazonのサイトに飛んでくれ。あるいは日本林業調査会のサイトでもいい。
以前一度メールさせていただいたことがあります。庄三郎の分家の長女かのゑの孫いあたります。子供のころの庄三郎おじいさん(本家のおじいさんとよんでいました)に長火鉢の横にすわらされて論語をおしえられた、ながキセルで教えながらという話。本家のお姉さんたちの話。かのゑは原のおばさんにかわいがられて行儀見習いで東京の原の家にいて そこで 鹿鳴館の花の政子お姉さんを見ています。その後 奈良にかえってきて 見合い結婚で 女学校(桜井)の先輩で親戚筋にあたる赤土のお姉さんの息子(小川貞司)に嫁ぎます。和泉の田舎の農家です。華やかな東京とくらべてかのゑは夜中に懐中電灯の明かりで小説をよみながら空想にふけっていたようです。原のおばさんは子供がいないこともあってかことのほかかのゑをかわいがってくれて嫁にきてからもお小遣いをおくってくれていたようです。
土倉祥子おばさんは私も数回あったことがあります。祥子さんの本ですこしいろんな話を関連づけてみていましたが今日たまたまプロ具をみつけて かのゑからきいた話の実態をすこし理解できうれしいです。
著書 よませていただきます
ありがとうございました
井上朱実(旧制小川)
投稿: かのゑの孫 | 2014/08/26 18:38
追加です
庄三郎が創立にかかわった女学校は同志社だけでしょうか?大阪の梅花女学校の名前い覚えがあるのですが・・・娘がおおかったのか あの時代に女性の教育に積極的だったのが 印象的です。
できたらおしえてください
井上朱実
投稿: かのゑの孫 | 2014/08/26 18:45
ありがとうございます。ちゃんと話を聞く機会を設けなくて申し訳ございません。
最近、全面的に書き直し、別の庄三郎像を描きたい衝動に駆られる(^^;)ので、その際はぜひ。ここに書いていただいた話も聞き取るべきだったなあ。(良ければメールください。ご連絡します。)
庄三郎が関わったのは、同志社(これは大学になる前に新島襄が亡くなる)のほか、日本女子大ですね。こちらは大学設立まで援助しました。かつては学長室に肖像画があったとか。
梅花女学校は、当時すでにあったのですが、経営危機になっていたところ、庄三郎の娘たちが入学することで寄付金を出し、存続できた経緯があります。
ほかにも寄付をした学校はたくさんあるようです。新潟女学校はどうなんだとか……でも確認が難しい。
投稿: 田中淳夫 | 2014/08/26 23:30