明日は8月15日、終戦記念日。
テレビや新聞では、戦争特集を組んでいる。69年前のこととなると、さすがに最近は直接的な戦争を描くのも無理となり、それぞれ工夫を凝らしだした。結構、それが見応えあったりする。単に悲惨だ、酷かった辛かった……といった押しつけるような記録ではなく、忘れられた当時の事情や新発見の事実がつまびらかにされるからだろう。
そこで拙ブログでも、戦争特集(^^;)。
中学・高校時代、私は北九州市門司区に住んでいた。家は少し高台にあったが、すぐ横が山で、私はそのブッシュに分け入るのが趣味だった。その頃から、道なき道を登ることをやっていたのである。
最初のうちは、家の近くの部分だけだったが、やがて高く登るようになった。どこまで登れる(そもそも山の高さも確認していない)のか探検するつもりだった。とにかく、草木をかき分けて上へ登る。あまり高い木はなかったと記憶するが、案外凸凹があり、落ちたり転んだりしつつも、よじ登った。突然ツバキの花咲き乱れる樹林に出くわしたこともあった。
ある日突然、目の前の視界が開けた。ブッシュは終わり、草原に出たのだ。頂き部に木は生えていない。意外なことに道があった。(その道を伝って登るルートを知るのは、ずっと先である。)
草原は多少の起伏があったが、頂上に立つと、そこから関門海峡が見渡せた。眼下に関門橋や行き交う船が見える。対岸は山口県。彦島だろう。
ところで山腹のすぐ下にレンガ積みの壁があった。そして扉がある。恐る恐る入ると、暗いがガランドウの部屋だ。湿っぽいすえた臭いがする。一番奥の天井に竪の穴があった。
そんな地下の部屋が、たしか3つほど並んでいたと思う。それは弾薬庫だった。そして上には、丸い陣地がある。回りはコンクリート製だ。そこは砲台跡だった。砲台だけは外されたが、陣地まで撤去できなかったため、残されているのだろう。
ここは関門海峡を見下ろす絶好のポイントだ。もし敵艦が関門海峡に侵入してきたら、狙い撃ちするための砲台陣地を築いたのだ。つまり要塞である。たしか明治の刻を見つけた記憶があるから、建設されたのは日清戦争時代かもしれない。
(ちなみに関門海峡は幾度も戦争の舞台になっている。古くは源平の壇の浦の合戦。幕末の第2次長州戦争でも戦われた。)
その後、埋もれた砲台跡を発掘(砲台下の部屋に潜り込む穴を掘る)したり、おそらく埋められて隠された弾薬庫のある辺りを掘り返した(小さなスコップで掘れるものではなく、諦める)り、直に戦争遺跡と触れ合う……というより、遊び場にしていた青春時代である。
思えば門司には、到る所に砲台のほか地下壕陣地が残されていた。戦略拠点だったのだ。しかし戦後は保全されることもなく、打ち捨てられていた。当時は戦争遺跡という言葉もなく、面倒な遺物にすぎなかったのだ。
しかし山中に累々と広がる廃墟。今なら「天空の城ラピュタに紛れ込んだ気分」とでも表現できるかもしれない。
おそらく今は残されていないだろう。私が引っ越す前に、その山は全面的に木が伐られて山を崩し宅地開発されたからだ。完成した姿は見ていないが、山の上まで住宅地になったはずで、弾薬庫や砲台跡も撤去されたのではないか。
わずかに、私が裏山で掘り出して今に至るまで保有しているものがある。
「陸軍」の石標である。かつての要塞の敷地を示していたのだろう。世が世なら、勝手に侵入したら逮捕されていたはずである。今でも、勝手に石標を持ち出したら罪かもしれんが、もう時効(^^;)。
実は、かなり長く地面の下に1メートル以上ある。それを掘り出して家まで運ぶのは大変だった。
今は、長い石の下部を割って、上の部分だけにしている。そして庭の隅にひっそりと立てている。
これが、我が家の戦争遺跡である。
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