フランスより人類学者のフィリップ・デスコラ教授が来日していたらしい。デスコラ氏は、「自然の人類学」を提唱したことで知られる世界的な人類学者であり哲学者だ。
大阪の花博を記念してつくられた「コスモス国際賞」を授賞した記念だという。
と言っても、私は彼の「自然の人類学」そのものを詳しく理解しているわけではない(^^;)。ただよく似た名前の自然人類学(=形質人類学)とは違う。
拙いながらも私の理解するところを記せば……。
彼は、エクアドルのジャングルで暮らすアシュアール族の村に入って3年間、一緒に生活した。単なる民族調査のレベルではなく、彼らとともに焼畑と狩猟をして過ごしたそうだ。ほとんど探検的調査活動である。
そして原生林かと思えた南米ジャングルが、実は彼ら森に棲む部族によって、有用な草木に植生を変化させられていたことを解明したのだ。つまり森の中の多くの樹木は作物として「育てられて」いた。そして狩りの対象となる動物さえ、彼らの“親族”としてつきあい管理しているという……。(もちろん、現代的な「栽培」や「管理」とはまったく違う概念だろうが。)
いわば人類も自然の一部として、森林を始めとする生態系に関与している、というのだ。
それは決して現代的な自然破壊とか人工物への改変のイメージではない。まさに人間も自然の一部であると唱えている。
そうした学説から、デスコラ教授は、西洋的な人類と自然を対立概念とする発想に異議を発している……と私は理解しているのだが。
人類が、原生林の植生さえ永い年月をかけて変えていたことは、すでにブラジル・アマゾンのカヤポ族でも報告例がある。ほかにボルネオやニューギニアでも例を見ることができる。
私もそのことを幾つかの著作で触れて(『里山再生』や『いま里山が必要な理由』『森林からのニッポン再生』……ほか)、人と自然のつきあい方を考えてきた。
日本でも、最近は「半栽培」という概念が提唱されており、人類と自然界は、野生と栽培の間に判然としない状態の動植物とのつきあい方が永く続いてきたことを示している。
それに関しては、次の本がオススメ。そのうち詳しく紹介したい。(サイドバーを参照)
「半栽培の環境社会学~これからの人と自然」 宮内泰介編 昭和堂
そして日本人が持つ、石ころや水や風にさえ神を宿り、人と自然を同列に見る精神性こそ、この「自然の人類学」に通じるのではないか、と漠然と考えるに至った。
しかし、今の私はちょっと懐疑的になっている。
果たして現代の日本人が「人と自然」を同列に見ているだろうか。むしろ人を優先に考え、あるいは対立的な概念で捉えることを最近は押し進めているのではないか。明治以降の近代日本は、欧米思想を取り入れて両者を区別しようと歩んできたが、最近とみに「自然は人が管理すべき」という発想が強まっているように感じる。
たとえば共有地を解消しようとする動きや、森林を天然林と人工林と区別して考える点もそうだ。あるいは手つかずの自然をゾーニングして、人工的な公園的自然をつくる点にも……。本来はもっとグレーゾーンがあり、誰のものでもないが、勝手に手をつけることを許されない土地があったり、穏やかな自然からの採取活動を認める慣習があったのに。
そうなったのは、日本人の大半が自然とのつきあい方がわからなくなって、法律などマニュアル化した「つきあい方」を画一的に普及させざるをえないからかもしれない。
むしろヨーロッパでは、常に自然とのつきあい方を自問し、ある種グレーな「森の自由権」や「万人権」と呼ばれる自然とつきあう権利を獲得してきた。
そして天然林と人工林を区別しない近自然林業が発達してきたし、アメリカでもダムを撤去して、自然界の中でほどほどに水の制御する治水政策を推進し始めた。自然と人工を明確に区別する政策への反省が伺える。
デスコラ教授の「自然の人類学」も、そうした心性を.揺るがす哲学として唱えられたように感じるのだ。
もちろん欧米人の根幹には、キリスト教的な人間中心主義が強固に根付いているのは事実だろう。だが、それに疑問を持ち出した様子が見られるのだ。
一方で、明治時代に持ち込まれた古い思想に今も染まり続けているのが現代日本人ではないか。
日本は民俗的な精神性では「自然の人類学」を先導していたはずなのに、実社会での応用の点では逆に落伍してしまった。いや、精神性さえ捨て去ってしまったのかもしれない。
明治以降輸入し続けた欧米の人間中心思想が、とうとう日本人を変えてしまったのか。だが、肝心の欧米は過去の人間中心思想を反省し始めているとしたら……皮肉ではなく、再び日本は、欧米に教えを乞うべきかもしれない。
……そういった論考をまとめたのが『森と日本人の1500年』である。
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