いよいよ明日早朝が阪神淡路大震災の20周年。
関西では、ローカルニュース枠や特番も組まれてかなり扱われている(明日は丸1日扱うだろう)が、全国的にはマイナーになっているのではないか。
そこで私なりの思いを。
私にとっては1990年代と言えば、会社を辞めて独立した時代であり、生活は結構目まぐるしく変化していた。その中で、「あのこと(取材からプライベートまで)はいつだっただろう」と思い出そうとした際に、「震災の前だったか後だったか」と考えるのが常となっている。
つまり、自分の中の記憶をたどるとき、阪神大震災を基準に考える癖がついた。
これは地理的なランドマークならぬ、自分の歴史のエイジマークのようなものだ。震災より前だったから、○●だ、震災より後だったから、■□だ、と考える。
私は、当時大阪府の吹田市に住んでいて、この大地震を直に経験した。おそらく被災地域としては東端に当たる場所で、激震地に比べたらさほどの被害ではないが、それでも只事ではない揺れで、さすがの私も眠りから覚めた。
寝室にはたいした家具は置いていなかったが、箪笥が倒れてたないかヒヤヒヤしたのを覚えている。揺れがおさまって、隣のリビングに入ったら、テレビがぶっ飛び、部屋中にガラス片が散らばっていた。
それは食器もあるが、私のコレクションの転落が大きな理由だ。鴨居部分に私が集めた「世界のジン・ボトル」を並べていたのだが、それらが落ちたのだ。マイナーながら、珍しいジンが幾本かあったのに……。
ともあれ起き上がり、テレビを付けてようやく事態を把握した。震源地は神戸のように思われた。(実際は淡路島北端。)それから明るくなるまで待つ。
何もわからぬまま動いてはいけないと肝に銘じて、情報収集しつつもコタツの中でぬくぬくしたのを記憶している。
その日にしたのは、書きかけの原稿を完成させて、とりあえず編集部に送ったことである。今後何が起こるかわからないので、身辺整理?したようなものだ。なお、当時はパソコンもなく、ワープロ通信である。
現地に入ったのは、翌日だったか。芦屋の知り合いの女性が、その日は大阪にいたのだが、自宅に帰りたいというので送っていくことになったのだ。
神戸メリケンパークに当時のまま残された岸壁
その時の経験を記録していた。当時、個人的に発信していた通信に記したものだ。一部を引用してみる。
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阪 神 大 震 災 の こ と 、 書 か ず ば な る ま い 。
地震のあった翌日、阪急西宮北口駅から
歩いて芦屋や神戸市東灘区に入った。
避難民の大阪方面へ向かう列に逆らうよ
うに西へと進んだ。そこには未知の、不思
議な世界が広がっている。ぺしゃんこにな
った住宅や一階部分が潰れたマンション。
ところどころ高架がねじまがって崩れ、線
路が切断されていた。空に2本の鉄路だけ
が伸びている所もある。
ところが、そこに人影が見える。なんと
崩れた高架に登って、その景色を見学して
いる人々がいるのだ。切断面に身を乗り出
して覗き込んでいる。
一瞬、えらく元気な野次馬やんけ、と思
った。しかし、よく見ると家族連れだ。登
っている中には子供もいるし、なにより背
中にリュックサック、手にはバックがある
から、避難している途中のようだった。線
路伝いに歩いてきたのか。しかしその恰好
は、被災者らしくない。
彼らだけではなかった。大阪方面に歩き
ながら、振り向いて被災者の列を使い切り
カメラで撮っている若者もいるぞ。
さらに5日後、今度は被災地にバイクで
入った。できるだけ幹線道路を通らずに崩
壊した住宅街を走った。
と、ある崩れた家の前に三脚を立ててカ
メラをセットしているおじさんがいた。
思わずバイクを止めて見ていると、おじ
さんが手招きした。
「一緒に写らんかね」
写ってどうなるねん。しかし聞いてみる
と、この家の人とその親戚だそうだ。こん
な機会はまずないから(!)記念撮影して
いるそうである。
その後、ようやく再会した東灘区在住だ
った友人にこの話をすると、
「いや、うちも壊れた家の前で近所の人た
ちと写真を撮ったよ」
私もカメラを持っていたが、最初はあま
りの惨状に写真を撮るのは被災民に失礼で
は、と躊躇するものがあった。だが当の本
人たちがこの調子なのである。
知人の家の様子を見に行った際、肝心の
知人には逢えなかったが、その向かいの家
のおじいさんと話ができた。彼は地震当日
生き埋めになったのだそうだ。
聞いてみると、仏壇の間の空間に閉じ込
められて、暗闇に手を伸ばすと天井が触れ
たこと、そして近所の人が壁をぶち抜いて
助けてくれるまでの過程をユーモラスに語
る。加えて、その後に家具を取り出すため
役所に助けを求めて「それどころやない」
と怒られ「すんまへん」と謝った逸話まで
披露してくれた。
ほかでも、同じような体験を何度もした。
目が合えば、見知らぬ者同士でもすぐ口
が開いた。みんな不思議と優しく話してく
れる。そして「命が助かったのだから」と
異口同音に言った。
その後、関東の友人からも続々と電話が
かかってきたが、みんな口にするのが「テ
レビのインタビューに応える被災者の口調
がユーモラス」であること。
これは、関西弁特有のニュアンスもある
だろうが、同時に感情をストレートに表に
出さない関西人の知恵でもある。
「笑いは、すべての感情の上位にある」と
いうが、まさに自らの体験を笑い飛ばせば
怒りも悲しみも昇華させられるのだ。
それによくしゃべる。倒壊家屋の下から
数十時間ぶりに救助されたおじいさんが、
酸素吸入を受けながらペラペラしゃべる様
は、私が見てもおかしい。生き埋めになっ
ている間、話相手がなくて寂しかったんや
ろなぁ、と思ってしまった。
またひどく家屋が倒壊した門戸厄神界隈
で、タコ焼とベビーカステラの露店にも出
くわした。ひと儲けしたろ、という商売人
根性なのか、あるいは付近の被災者向けな
のか聞かなかったが、廃墟に立つ赤いのぼ
りは異様な景色である。
被災者だけではない。地震の被害が伝わ
るにつれて、大阪などの近隣の市民は一斉
に動き出した。友人知人、会社など組織も
個人も水や食料などを背負って阪神を目指
した。徒歩、自転車、バイク、そして自動
車。それは中国や東南アジアを思わせるエ
ネルギッシュな流れだ。避難民とは反対に
ものすごい物流が西へ向かったのだ。
これが渋滞を生み出し、救援を遅らせた
と批判されたが、もともと行政を信用して
いない関西人は、自分の手で運ばないと我
慢がならないのだろう。
だが、民間が支えられるのは短期間に過
ぎない。自らの境遇を笑ってみせた被災者
も、やがて当初の頑張りが力尽きるかもし
れない。そして巨大な現実がのしかかる。
多くの人命が失われ、最初から笑う力を無
くした人々もたくさんいるだろう。
それでも、私には被災地の人々のたくま
しさが脳裏に強く焼きついている。
今後、復興がどんな形で進むのかわから
ない。しかし、私は心配していない。なん
だかこの震災を機に、街だけではなく人々
も生まれ変わるような気がするからだ。
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今振り返ると、果たして街や人は生まれ変わったかどうか、心もとない。
ただ、自らのエイジマークになったことは、少なくても自分にとって大きな「起点」になったと思っている。
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