終戦特集の番組の中で、8月15日以降も軍は停戦せずに戦闘が行われた事実を描いているものがあった。
いくら天皇が「日本は降伏する」と言っても、戦闘配置を解かなかった部隊は多くあったのだ。外敵と向き合っていた外地(中国大陸や東南アジア、樺太・千島列島など)ならまだしも、国内でも「本土決戦」を叫ぶ兵士・将官は数多くいたという。
だが、その中で上官の攻撃・抵抗、そして自決命令に逆らった士官もいたそうだ。天皇の意志に背くだけでなく、今死ぬ無意味さを訴え、日本再建の意義を説いて止めたという。
彼らの多くは学徒出陣で部隊を率いることになった、一般大学出身者だったという。大学生活を通して、一般国民の社会を知り、文学や哲学、あるいは歴史文化など教養を身につけていたからではないか、と番組では結んでいた。
本土決戦を叫ぶ士官には、軍の幼年学校、士官学校、大学、予科練……などの出身者が多かったという。軍隊という狭い世界にはまってしまうと、広い視野を持って分析したり、大局的な決断ができなくなりがちなのだろう。
「教養」とは、普段すぐに役立つ知識や技術ではない。むしろ生活の陰に隠れている。あえて言えば、「無駄」の学問。自分が直接関わらない世界を知ることが「教養」なのだ。
だが、教養なくして豊かな情操もなく、グローバルな判断もできないのだと思う。
一人が歩める人生は一つにすぎない。だが膨大な人々が刻んだ人生を疑似体験できるのが「文学」だ。
現代人が経験できる社会は一つにすぎない。だが多様な地域と多様な時代が織りなした社会を疑似経験できるのが「歴史」だ。
一人では深く堀りきれない思考の迷路から脱出して、古今東西の深い思考をなぞるのが「哲学」だ。
人間以外の視点を得るのが「生物」「地学」「物理」「化学」「数学」など理系の学問だろう。
さらに芸術、文化、サブカルチャーなど多彩で多様で奥深いトリビア(役立たない知識)が情操・官能を鍛えるのだ。
それらは「無駄」だけど、「無駄ならではの用」がある。
同じことは林業についても言えるのでは……と、ふと思った。林業ばかりに「耽溺」していると、広い視点を持てず大勢を見誤るだろう。
林業が森林を守り、国土を守り、地球環境を守っているのだと声高にいう。
日本人は、国産材を使った和風建築の住宅に住めと主張する。
材価を上げるためなら、国は自由貿易を捨てろ、と平気で口にする。
世間の人がみんな林業のことを心配してくれている、と勘違いする。
大切な林業を守る(林業家が食う)ためなら税金を投入するのも当然だ、と傲慢になる。
そんな思考の頭になっている人を「林業脳」の業界人、あるいは「業界脳」の林業人呼ぼう。
もっと広く各界の情勢を知れば、林業の見方も変わって別の展開もあるはずなのに。
私は、そうならないよう必死で抗っている。できる限り別の分野にも五感を向け、林業に近づきすぎず俯瞰するよう心がけている。
だてに土壌ジャーナリストやゴルフ場ジャーナリスト、割り箸評論家、田舎暮らし専門家などを名乗り出したわけじゃねえ。生駒山で毎度遭難してるんじゃねえ。タナカ山林にアジサイ植えているわけじゃねえ。娘に頼んでUSJに連れて行ってもらったんじゃねえ。ニコニコ超会議に参加したわけじゃねえ。(ホントか?)
文部科学省は、大半の大学から「教養」の学問を奪い、「職業教育」に特化させる政策を検討中とのことだ。本土決戦要員を育成して、それをストップをかける勉学はなるべく奪いたいわけか。
これこそ反教養主義、反知性主義の跋扈する現政府の路線だろう。業界脳の官僚、業界脳の政治屋の考えることだ。
林業脳人は、その「要員」にカウントされるんだろうな。
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