朝ドラ「あさが来た」では、いよいよ女子大設立に、あさが動き出した。
そこで、いきなり大隈重信に手紙を出して直に訪ねるというシーンがある。
広岡浅子が大隈に支援を求めたのは史実だ。ただ、誰が紹介して大隈重信(当時・元総理)を訪ねたのか、という点は謎である。いきなり手紙、アポなし突撃、というのはドラマならではのストーリーだろう。
もちろん渋沢栄一など東京の財界人や、実家の三井家なら大隈との伝てはあっただろう。彼らを通じて、ということも考えられる。
ただ私は、浅子とともに女子大設立運動を展開していた土倉庄三郎なのではないかと思っている。何も土倉贔屓だからだけでなく、客観的にも可能性が高いと思えるのだ。女子教育の理念を共有して一緒に運動していたわけだし、しかも庄三郎と大隈は昵懇だからだ。
そこで早稲田大学図書館のライブラリーから借用の写真を。
明治32年6月13日に庄三郎から大隈に送られた書翰だ。
正直、読めない(^^;)。達筆すぎる。
ただ1枚目の後半に「女子大」という言葉は読み取れるだろう。「厚配」なる言葉も。どうやら女子大設立への尽力を感謝する内容ではないかと思うのだ。(完全に読める専門家がいたら、全文の内容を教えてほしい。)
つまり、大隈が日本女子大の設立に手を貸したことを庄三郎が御礼の言葉を述べているわけで、彼が助力を申し込んだとも想像できる。それは広岡浅子に大隈を紹介した可能性を高めているのではないか。
少なくても、土倉側からの直のアプローチもあったのだろう。
ちなみに土倉家に祐筆がいたとは思えないので、この書は庄三郎の直筆だと思う。ホント、達筆だ。土倉の土の字に点が打たれていることにも注目。これが正字なんだが、明治以降は活字にないからと消してしまったらしい。
大正3年に、庄三郎は自天王問題(後南朝の歴史的な話なので割愛)の解決のため、アポなしで総理に復帰した大隈重信を総理官邸に訪ねている。
その際に同行した村人の証言では、大隈はすぐに顔を出すと、庄三郎に椅子を勧めて座るまで直立不動だったという。
※ドラマでは、あさが暴漢に襲われ生死を彷徨う……という展開になっているが、これは創作である。そうした史実は確認されていない。
田中先生
いつも楽しく拝見しています。
早稲田大学大学資料センター編 「大隈重信関係文書 8」みすず書房
上記の本に以下の通り書かれていました。
明治32年(消印)6月13日
一簡捧呈仕候。時下薄暑之候に御座候処、益御機嫌克被為
在候御趣恐悦至極に奉存上候。過般在京中は屢々推参種々
御馳走に預り、殊に女子大学之件に付は八方御厚配を辱ふ
し御蔭にて好都合に相成候段奉深謝候。偖御申付に相成候
ゼンギ山、種々取調候処当底千円の価値も無覚束様愚考仕
候に付此段御報申上候。先は右御礼旁御報迄。謹言
6月13日
土倉庄三郎
大隈閣下
[封筒表] 東京早稲田 伯爵大隈重信閣下
[封筒裏] 大和国吉野郡川上村大滝 土倉庄三郎 6月13日
投稿: ぽち | 2016/02/24 23:29
ありがとうございます。
まずは大隈伯爵に御馳走になったようですね。二人の関係がより親しかったことがわかります。
草書体より内容がわかります(~_~;)。でも、漢文体だから、読みくだすのはもう少し努力がいりそうです(^o^)。
投稿: 田中淳夫 | 2016/02/26 22:29