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2016/02/06

ツイートまとめ・広岡&成瀬&土倉と娘たち

このところ、ツイッターで土倉庄三郎と広岡浅子、成瀬仁蔵のつながりについて連投している。どんどん脱線して庄三郎の娘の人生にも広げているが、ツイッターでは読んでいない人も多いだろう。
 
そこで、ここに再録する。誤字等、わずかしか修正していないが、まあ、ガールズトークだのストーカーだの゛ツイッター的に筆走ったところはご勘弁(~_~;)。なお、いくらか説明を加筆しておく。
 
 
・「あさが来た」に土倉庄三郎に相当する人物が登場しないことが確定したので、ムカついて少し広岡浅子-成瀬仁蔵-土倉庄三郎につぶやこうと思う。
これは、成瀬仁蔵に相当する成澤泉とあさの出会いのシーンに、土倉翁が登場しない点を指摘している。
 
・成瀬仁蔵に広岡浅子を紹介したのは、吉野の山林王・土倉庄三郎である。そして日本女子大の設立を強力にプッシュしたのも浅子とともに土倉だった。
 
・土倉は、浅子とともに5000円を寄付しただけでなく、ほかの出資者の元本保証もしている。だから多くの出資が集まった。とくに成瀬をずっと支えたのは庄三郎だった。
 
・成瀬と土倉が知り合ったのは、庄三郎の娘ら6人を大阪の梅花女学校に入学させるために訪れた時。当時19歳だった成瀬が教師をしていた。
 
・当時、梅花女学校は資金面で存続の危機に陥っていた。そこで土倉は100円を寄付する。学校の借金の3分の1に相当する。おかげで学校は危機を脱したが、成瀬はそのことに激昂。梅花を止めてしまう。
 
・成瀬にとって、クリスチャンでない人からの寄付は「自給精神」に反するという理屈だった。ちなみに梅花は「自給学校」のため、海外からの寄付も受け取っていない。学校存続が大変だったわけである。
 
・この点を見ると、成瀬と土倉は仲が悪そうに見えるのだが、どうもそうではなかったようだ(^o^)。その後、成瀬は土倉にいろいろ頼ってくる。……その点はまた後で。
 
・浅子と成瀬と土倉の話続き。梅花女学校に娘を入れた土倉庄三郎だが、実は1年後に娘たちを同志社女学校に転校させる。別に成瀬がいなくなったからではなく、同志社には先に息子たちを入学させていたからだ。
 
・土倉は息子たちを同志社に入れるときに新島襄に面会した。そして大学を作りたい希望を聞いて、即座に応援すると5000円の出資を申し出た。いまならざっと1億円くらいか。その後も新島を支援して同志社大学づくりを応援した。女学校はその間に作られたので娘を移したのだろう。(当時の金額の現代的な価値は換算が難しいが、同じ頃、板垣退助が洋行するのに2万円寄付した時換算額と同じとして、このぐらいという金額。別のレートを使うと半額ぐらいになる
 
・同志社女学校に入った土倉の娘たちは寄宿舎に入った。そこで舎監をしていたのが新島の妻八重。だから八重と娘たちは一緒に暮らした時期もある。(新島八重は、元山本八重。会津戦争の際に狙撃手として最前線に立って戦った人物。NHKの大河ドラマ『八重の桜』のモデル。
 
001  同志社大学のパンフレットより。
土倉家の娘(三女糸、4女小糸などと写る八重。)
 
 
・同志社で学んだ娘のうち長女富子は、政財界の大物・原六郎に見初められて求婚する。ただ庄三郎は結婚は娘の意志を確かめると応えている。当時としては珍しい?結果、卒業まで待って結婚した。式は新島が仕切り西洋式だった。
 
・次女は、板垣退助の娘との結婚話があったとも伝わるが、アメリカ留学を選ぶ。名門ブリンナー大学に7年間も学んだ。年間1000円の経費がかかったという。さらにフランス留学を望むが、さすがに庄三郎は帰って来てくれ、と(笑)。(金を惜しんだのではないよ。7年も娘と会っていないんだから。この留学時に政子は、津田梅子や新渡戸稲造などと知り合っている。
 
・次女政子は、帰国後に外務省のエリート内田康哉(後の外務大臣)に結婚を申し込まれストーカーされる(^^;)。無事?結婚して、中国公使として清国に赴任した。そこで出会ったのが西太后だった。何カ国語も話せる政子は社交界の華となり、西太后にも気に入られた。
 
Photo  中辻家所蔵。
清国の服装をまとった内田政子。
 
 
・西太后の寝室まで上がり込んでガールズトークを繰り広げたというが、その時期に日露戦争が勃発。そこで政子が日本の命運を握ることになった。最後の決戦となった奉天会戦で、苦戦する日本軍は大迂回作戦を取る。そのルートは中立地帯を抜ける。本来なら清国が許さなかっただろう。
 
・だが、政子は深夜に西太后を訪ねて、暗黙の了解を取り付けることに成功したのだ。おかげで乃木将軍の第三軍はロシアの背後を突くことができた。かくして日露戦争は日本優勢のまま休戦を迎えた。
 
・ちょっと断線しすぎた(^^;)。全然広岡浅子とも成瀬仁蔵とも関係なくなってしまった。ともあれ土倉庄三郎は、娘を見ても女子教育に熱心だったことが伺える。そんな土倉の元にアメリカ留学から帰った成瀬仁蔵が訪ねてきたのである。(成瀬は、梅花を辞めた後、奈良の大和郡山の教会で伝道師となり、さらに新潟に女学校を創立する。その後、アメリカに留学した。
 
・広岡浅子と成瀬仁蔵の本当の出会い。アメリカ留学から帰って、女子大学の設立を計画した仁蔵は、まず内海大阪府知事に話をした。しかし30万円を集める計画に、かなり否定的だったようだ。次に訪れたのが土倉庄三郎であった。以前、非キリスト教徒の寄付に怒って梅花を辞めたことは忘れたようだ。(同志社を大学にする際は、10万円必要と新島襄は言って、土倉は5000円寄付した。時代が進んで30万円になったか。。
 
・土倉庄三郎は、「着眼、教育の主義主張すべてが私の望むことに一致している」と感激して支援を約束した。そして広岡浅子を紹介したのである。浅子は、女子教育に熱意を持っていることを知っていたからだ。
 
・しかし広岡浅子の元には多くの女子教育を唱えて援助を求める人が来ていたので、成瀬の計画に何もいわなかった。ただ「女子教育」の冊子を受け取って、福岡の炭鉱に向かった。その船の途上、「女子教育」を読んで感激する。これまでのいい加減な援助願いの比ではないと感じて3度も熟読した。
 
・その後、土倉と浅子は二人三脚で女子大設立を支援していく。なかには山県有朋や板垣退助、大隈重信ほか近衛、土方、蜂須賀……多くの人を巻き込む。これらの人脈は誰がつないだのかはっきりしないが、みんな土倉庄三郎の盟友である。(山県や板垣は、大滝の土倉屋敷に訪れている。広岡浅子も泊まった。大隈が総理大臣の際に土倉翁がアポなしで官邸を訪れたら、大隈首相は自ら迎えに出て、翁が座るまで直立不動だったエピソードもある。
 
・土倉と浅子は5000円ずつ成瀬に出資しただけでなく、他者の出資者分の保証もしている。これだけあれば運動も進めやすい。ところが、成瀬は病気に倒れてしまう。それを見舞った土倉は驚いた。垢の付いた夜具にくるまって、やせ衰えていた。あれほと運動費が集まったのだからと……というと(続く)
 成瀬は「運動費は一銭でも自分の為に使わないように心がけている」と応えたのである。土倉は感激感涙して、さらに傾倒の念を深めた、と土倉は講演で語っている。
 
 
……まあ、こんなところ。また続編を連投するかもね(~_~;)。

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コメント

アサがきた。工藤徳右衛門は庄三郎、娘サカエは長女富子がモデル。
私の勝手な憶測です??かなりデフォルメされていますが。

 兵庫県百年史には庄三郎、金原明善の県内山林での足跡が
記載されています。庄三郎については「評伝 土倉庄三郎」からの引用が目立ちます。

そのようですね。でも山林王として描いていないようで……。
今後、女子大設立にどのようにかかわるよう描かれるのか、ちょっと心配。

兵庫県史ですか。それはチェックしていません。金原明善も登場する? こちらは気になるな……。

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