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森と林業の本

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2016/03/07

“野生の象”と超人類学の「森の本」が訴えるもの

昨日の朝日新聞には、魅惑的な「森の本」が2冊登場した。

一つは、新聞の別冊扱いになっている「GLOBE」。
 
ここに世界の書店のベストセラーを紹介する欄があって、「樹木は野生の象だ」 と題した
『Das geheime Leben der Baume(木の秘められた生)
 

Img002  Photo_2

 
が紹介されている。ドイツのノンフィクション部門で1位になっているのだ。
著者のペーター・ヴォールレーベンは、どうやらフォレスターらしい。
 
ちょっと引用すると、
 
森には知らないことがたくさんあるのだ。これも当然なことで、林学には長い歴史があるが、樹木はその数倍は生きてきたからだ」
 
「木には記憶力も痛覚も感情も思考力も備わっている」
 
「森の中で仲間と助け合っている樹木こそ本来の姿だ」
 
材木を供給したり、水を保存したり、二酸化炭素を吸収したりするなど、従順なサービス提供者としての木のイメージに著者は反発を覚える
 
もはや、彼は“林業”を否定しているのかもしれない。少なくても、苗木を植えたり、間伐など育林をすることに。そして街路樹や公園の木をストリートチルドレンのよう、とさえ語る。彼の感覚で日本の人工林を見れば、ブロイラーか強制収容所かもしれない。
 
そして「木も本当は野生の象と同じです」
 
しかし孤立して檻に入れられた不自然な状態では、本当の象を理解できないのだ。
 
興味津々。が……ドイツ語では読めない(泣)。。
 
 
 
もう一つの本は、書評欄にある
 
森は考える 人間的なるものを超えた人類学」
エドゥアルド・コーン著 亜紀書房
 
Img001  
こちらは書評を載せたわけで、ちゃんと訳されて出版されているが、かなり難解そうだ。日本語でも読めないかもしれない(笑)。。。
 
大雑把に言って、アマゾンの先住民の民俗調査から浮き上がる森の仕組みを大胆に描いたようだ。
そこでは人だけでなく植物や昆虫、動物までが複合的な意志を持ち「考えている」と訴えている(らしい)。ある意味、森林全体を一つの生命体(ガイア)と見立てるような話か。
もちろん、その一角には人間も入っているはずなのだが、現代社会はそこから逸脱しようとしているかのようだ。人類だけでない、人類学。でも、これは日本古来のアニミズムと似ているように思う。
 
 
 
傲慢になるのを承知で言えば、上記2冊の本(読んでいないけど)が訴えていることは、最近私が感じていることに似ているような気がする。
森について考えれば考えるほど、従来の生物学の枠からはみ出る。生態学も人間中心の考え方にとらわれてしまう。森の仕組みとは、もっともっと複雑系ではないか。。。私にとっては、「人類を超えた」というより、超生態学。メタ生態学。仏教世界並の縁起と因果が絡まった仏教生態学。。。なのである。
 
そうした目から森を捉えようとすると、もはや林業さえも人間の利得から逸脱してしまうのだ。
 
 
 
ところで、前者の本には、冒頭にこんな一文もある。
 
「彼が20年前に森林経営多角化のためにサバイバル訓練や樹木葬の事業を始めたところ、普通の人々が違った目で森を眺めるのを経験した。彼らは、節が多くて曲がった材木としては欠陥商品の木をほめる。そのうちに彼自身の森の見方も変わっていった」
 
面白い。面白いというのは、まず森でサバイバル訓練や樹木葬の事業を始めたという点。私も樹木葬には一方ならず思い入れがあるが(^^;)、まさに森林の多角的な利用法であり、オルタナティブな林業である。
 
そして「節が多くて曲がった材木」 の見方。これも日本の林業・木材関係者が陥っている罠そのものではないか。節が多くて曲がっていると良材ではなく、高く売れない、使い道がない……という業界関係者は、普通の人の見る目と違ってしまっているのだ。
 
良材生産というが、何が良材だろう。
人間の決めた良材とは「いつの時代」の「誰にとって」のものか。
もしかして、安いことが良材かもしれないし、バイオマス用の熱量の高い木が良材かもしれない。ただ業界目線では、材価ではなく、純益が多い木材商品こそ「良材」だろう。森から経済的価値が多く得られる商品こそが「良品」である。だとしたら、良材・良品は森がつくるのではなく、人の都合と技術によってつくるのだ。
 
人がせっせと「よい森」と「良材」を生産をすることなんぞ、森(=ガイア)はせせら笑っているかもしれない。いや、そもそも「良材」自体が存在しない。
 
利益が多く出る森の利用法なら「冒険の森」でも樹木葬でも、景観観光でも狩猟でも養豚でもハチミツ採取でもよい。木材もそれを高く売れる商品に加工することが大切なのであって、生の木材自体に価値はない。
 
……そんなフリースタイルな森の利用が林業なのではないか。
 
ただ私にとって、森林生態系が安定していて多様性が高いことは唯一の条件だ。それは森にも人にも豊かさをもたらす。そんな健全な森ならば、どんな時代でも誰のためにも自由な発想で商品化できる木材も空間もより多く存在するのではなかろうか。
 
 
 

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