土倉翁百回忌も過ぎて(本当の百回忌は7月19日なんだけど……(^o^))、ちょっと土倉翁からは一服(-o-)y-°°°という気分だったのだが、自宅のデスクに散乱した資料を片づけ半分整理し直していた。
そこで見つけた一文に目が惹きつけられた。
それは精密な施業案づくりに莫大な金を投入しつつ、現場の造林が計画の半分も進んでいないとを批判したものなのだが……。
そこで、こんな言葉を記している。
「今日、いかに立派なる施業案を編製するも、いかに我が国将来の林業に適用することを得ざらん。何となれば、将来、我が国有林の大部分は、必らず今日の樹種と相異るものを以て造植せらるることとなるべく、随て今日までの材料によりて調整したるものは、無用の長物となるに至る可りが故なり」(林政意見)
細かな前後の説明は省くが、将来は、今日植えている樹種とは違うものを造林することになるよ、今の森は(必ず)役立たずになるよ、と指摘しているのだ。
すごいな(^^ゞ。
将来必要とされる木材は、今植えているのと違うようになるという指摘は、まさに我が意を得たり。
林業で木材を得るには最低40年、できれば50年60年、いや可能なら100年以上かけて大径木を育てたいと思いがちだが、そんな先の木材需要が読めるのか、と思うのだ。
とくに時代は政治も経済も短期間に激変を重ねている。今売れているものが、来年にはさっぱり売れなくなることも多い。今売れると思って植えた木が育った頃には、別の需要に移っている可能性は高い。
そして、こんな文言も。
「元来、施業案なるものは、広く、その地方一般経済の状況に照らし、植伐利用の方針を立てるを以て、主なる目的となすべきものなれば~」
だから、簡略な仮の施業案で進め、後は現場の技術者が育つ状況や経済事情を見極めて判断するのがよい、というわけだ。
面白いのは、ドイツの例を引いて、精密な施業案は必要ないと指摘している点。みんな営林署長が、地域に則して自己流に施業しているという……と記す。「文書的経営」ではなく、現場に即してやりなさい、彼の地ではそうしているのだ、と。
実は、同時期(明治30年代)に行ったインド林業視察の報告がある。インドはイギリスの治世下にあったが、林政は代々ドイツ人が担ってきたそうだ。しかし、
「ドイツをそのまま模倣した形跡がない」
「ドイツの山林は最も発達したるものにして、山林というよりも、むしろ公園と形容すべき」
「その精を摘み、おのおま適用せんとする国情を鑑みて実行」
なのだそうだ。土倉翁も、そんな報告を聞いていたのかもしれない。
実際、日本だけなのだ、これだ、と決めたモデルを画一的までに真似た施業をしようとしているのは。
あ、これは……明治の話ではなくて、現代の林政ね(^o^)。
しかし、まだまだ土倉翁に学ぶ点はあるなあ。
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